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# ナーガールジュナと『中論』 ### 1.ナーガールジュナと『中論』 `ナーガールジュナ([梵]Nāgārjuna, [漢]龍樹)`は、西暦2世紀ごろのインドの大乗仏教の僧であり、`空([梵]śūnyatā)`を論理的に基礎付けて中観派を設立した。 そして、空の基礎付けを行ったのが哲学詩によって構成される`『中論』([梵]Madhyamakakārikā)`である。『中論』は基本的に当時の主要学派が前提とする形而上学の論駁書である。ナーガールジュナはブッダの`「縁起」`を独自に解釈し、これを用いて他派が基礎とする実体の形而上学を否定してゆく。 #### 『中論』の主要論敵 まず『中論』に移る前にこれが論駁しようとした論敵の立場を明確にしておきたい。中村(1980)によると、『中論』の主要論敵は、上座部仏教の代表の説一切有部(以下、有部)であるという。上座部仏教の代表だった有部は、「一切が有る」と主張する。それは、`法([梵]dharma)`を実有とする明確な実在論である。そして、この法は自然的領域を基礎付けるものであり、これを探求する有部は形而上学的議論を展開する。このような形而上学を構築するのは、釈迦がこの世の一切は常に流れているとする「生滅変遷」、そして、なにも留まらないという「諸行無常」を説いたからである。つまり、全てが流れているのならこの諸行無常という説法の普遍性も否定されなければならない。そのため、これを擁護するために生滅変遷を綜合する普遍的な法を想定する必要があると有部は考えた。そして、法こそが実有であり、自然的存在は仮象であるとする。 #### 『中論』の要旨 このような実在論、形而上学的議論が盛んに取り沙汰される中で、ナーガールジュナはこの傾向に真っ向から反対する。その要旨は『中論』の冒頭における帰敬序(献詩)に書かれている。<帰敬序>この8つの否定は伝統的に「八不」と呼ばれる。ナーガールジュナが冒頭で上げるこの8つの否定は論敵の最も重要で最も中心的な形而上学(戯論)の否定であると解釈者たちは考える。ナーガールジュナはここで述語が成立する根本的な8つのカテゴリーを設定していると思われる。そして、それぞれを否定することによって、この否定から「めでたい縁起のことわり」に到達している。 つまり、ナーガールジュナの論敵である有部は「一切は有る」とする言わば実体の形而上学(実在論)を標榜しており、そして、ナーガールジュナはこれを否定するのだが、決して自らの形而上学(非実在論)を構築してそれと対立させるようなことはしない。なぜならば、論敵と対立した時点で彼が避けんとする土俵に立っていることになるからである(形而上学を否定する理論もまた形而上学である)。そのため、彼は、述語が成立しうる全てのカテゴリーを否定することによって彼は自らの哲学である「空」に接近する。そして、この度重なる否定によって述語が消滅し命題が成立しなったとき「一切は空である」という命題が基礎付けられるのである。 --- ### 2.縁起 #### ブッダの縁起 ナーガールジュナは`実体([梵]svabhāva、[漢]自性)`という概念をことごとく否定する。この否定の根本にあるのは、彼が縁起を相互依存性(相依性)として理解していることである。ブッダの説いた縁起の基本構造は「あるものに依ってあるものが生ずる」とされる。縁(条件)は、AはBの条件であるという意味である。そして、(Cという原因が)Aを条件としてBという結果があらわれることを縁起という。つまり、縁起とは因果関係のことである。この縁起観は後に解釈が分裂することになる。 #### 実体と縁起(有部の縁起) 有部は因果関係を実体の概念という前提の上で理解し、自身の哲学を開始する。この立場による因果関係の捉え方は、ビリヤードで手玉が9番ボールに当たったら9番は移動するといったような一般的に理解される因果関係であり、この例に見られるようにそれぞれのボールが異なる実体でありそれらが関係をもっていると考えられる。そして、ここにおける因果関係は原因(手玉が9番に接触)から結果(9番の移動)へと一方的な関係である。中村によると、「[有部において、]<縁起>とは時間的生起関係と解されている。[...]<縁起>の直接の語義は、実有なる独立の法が縁の助けを借りて生起することと解されていた」(中村, 1980, p178)。この実体の形而上学を基礎とするのは有部だけでなく、同時代の他の学派もこれを前提としこの基盤の上で形而上学の構築を研究していた。 この実体を前提とした世界の捉え方は有部の言語の捉え方に現れる。例えば、ナーガールジュナの「去る働き」、つまり運動を2・1において過去・未来・現在(三世)においてを否定する。これに対して、第二章第二詩(以降、2・2といったふうに表記する)において反論者(有部とする)は、次のように言う:
何ものも消滅することなく(不滅)、
何ものもあらたに生ずることなく(不生)、
何ものも終末あることなく(不断)、
何ものも常恒であることなく(不常)、
何ものもそれ自身と同一であることなく(不一義)、
何ものもそれ自身において分かれた別のものであることはなく(不異義)、
何ものも来ることもなく(不来)、
去ることもない(不去)、
戯論(形而上学的議論)の消滅という、めでたい縁起のことわりを説きたもうた仏を、もろもろの説法者のうちで最も優れた人として、私は敬礼する。 (中村訳より、改行筆者)
<2・2>つまり、有部は現在運動しているものが現にあるのだから運動はあるではないか、と反論している。ここにおける最後の「<現在去りつつあるもの>のうちに去るはたらきがある」(Motion is in that what is moving)という命題に留意したい。実体の形而上学を基盤とする有部は「去りつつあるもの」と「去ること」を分離した実体として考える。つまり、ある対象に「去ること」という運動を表す実体が付加されたときに「去りつつあるもの」という主体が生じると考える。これは、述語を原子論的・実在論的に言語を解釈していると言える(還元主義のドグマ)。そして、この視点から、「[去るという]動きの存するところには去るはたらきがある」(Where there is change, there is motion)という命題、つまり、「<去ること>は<去りつつあるもの>のなかにある」(motion is in the mover)を分析命題であるかのように捉えている。具体的に見ると、分析命題の古典的な例で「独身者は結婚していない」という命題がある。ここにおける「独身者」という主語に「xは結婚していない」という述語が含意されているためこの命題はトートロジーであり分析的に真であるとかつては判断された。つまり、「<結婚していないこと>は、<独身者>のなかにある」と考えられたのである。これと同じように、有部もまた、述語を実体視することによって、「<去ること>は<去りつつあるもの>のなかにある」と主語に述語が含意されているとする立場である。 #### 相依性としての縁起(ナーガールジュナの縁起) この実体を前提とした縁起観に対し、ナーガールジュナは縁起を相互依存の関係(相依性)と理解する。あらゆるものごとが相互に依存しているということは、それぞれの成立根拠はそれぞれを条件としており、つまり循環的な関係にあるということである。あらゆる対象はそれ自体で成立しているのではなく他の無数の対象と相互に依存して成立しているのである(世界は”ビリヤード”ではなく、糸が相互に依存して成立する”蜘蛛の巣”)。従って、あらゆる対象は実体を欠いているのである。そして、この相依性という縁起の捉え方から実体という概念を否定し、また、この縁起による実体否定から「空」に至るのである。ここでの「空」は、あらゆるものは実体を持たない、それ自体で存在しない、あるいは、他に縁らずに成立しない、ということを意味する。そして、この空は空に関するある種の見解、「空見」、である。後で見るように空見は空(究極的真理)ではなく慣習的真理にとどまるものである。しかし、この空見は空へ至るうえで重要なステップになる。 縁起(相依性) →無自性(実体概念の否定) →空見(有もしくは無に留まる慣習的真理) →空(有と無を包括する究極的真理) --- ### 3.縁起による空化 ナーガールジュナの縁起から全ては相互依存の関係であり、すなわち、「実体は存在せず、全ては空である」という観念(空見)に至る。そして、次にこの空を論駁のツールとして適用する。ここではこのように実体の概念を空で否定してゆくことを「空化」と呼ぶ。 #### 空化(縁起を否定論法として使用) ナーガールジュナは、全ては空であるという縁起の帰結から、他の学派が根底にある実体の形而上学を空化していく。ナーガールジュナのこの相依性としての縁起、それによって到達した空、そして、それの適用である空化が明らかになれば、彼が論破する多様な言明において、彼はそれらを成立させている実体の概念という前提を空化しているということが明瞭になる。 #### 内包主義者ナーガールジュナ ナーガールジュナは、縁起を相依性と理解することによって、つまり、全ては相互依存の関係とすることによって、有部の実体の形而上学を前提として成立する命題を偽とする。ナーガールジュナが論敵の命題を偽と判断する際に依拠するのは、名辞の「内包性」である。つまり、彼は自らの縁起観から名辞に内包されている意味が全て依存関係にあることから、この名辞の内包性を根拠に相手を論破してゆく。そのため、黒崎は「縁起とは、[...]意味論的諸関係である」(黒崎, 2004, p21)と解釈するのである。ナーガールジュナの否定論法は一見多様に見えるが、それらは彼の縁起観に基づいた名辞の内包性の分析を基礎にしている。それは、次の三つのパターンに分けることができる。すなわち、述語の実体視の否定、一義の原理の適用、様相概念の考慮、である。 #### それ自体で成立する述語の否定 ナーガールジュナの論駁法は、あらゆる述語は必ず他の述語を内包しているということを指摘することによって、述語をそれ自体で成立するとして実体視する立場を否定するというものである。これは、瓜生津(2004)が「相依性による循環的誤謬」と呼ぶものである。それによると、ある対象を独立した実体として捉えると、AとBが相互に依存している「相依性」を「同一性」と「別異性」のどちらにおいても説明することができず循環論法に陥るというものである。第十章における火と薪の例でこの論駁方法を検証する。 ##### 有部の観点(実在論的言語観) 有部は対象を実体として捉えるため、例えば、火と薪をそれぞれ独立して存在する、そして、自己においてそれ自体で成立する実体として考える。しかし、火と薪は実際はそれの成立根拠が相互に依存する関係である。火は薪(燃料)がなければ燃えないし、薪は火がなければただの木である。二つは同一ものではなく、また、まったく異なるものでもない。即ち、火と薪を「同一性」においても「別異性」においても相依性を説明することはできないのである:
[去るという]動きの存するところには去るはたらきがある。
そうしてその動きは<現在去りつつあるもの>にあって
<すでに去ったもの>にもないが故に、
<現在去りつつあるもの>のうちに去るはたらきがある。
<10・1>そして、有部のように実体の概念を前提としたままこの相依性を、つまり、火と薪というそれぞれ独立した実体が相互に成立根拠になっていると考えると循環論法に陥る:
もしも、「薪がすなわち火である」というのであれば、
行為主体と行為とは一体であるということになるであろう。
またもしも「火が薪とは異なる」というのであれば、
薪を離れても火が有るということになるであろう。
<10・8>なぜこのような誤謬に陥るのかというと、それは火と薪をそれぞれ独立した実体と考えた点に見出される。そして、ナーガールジュナは、実体を前提とした場合に誤謬に至ることを示すことによって間接的にこの前提を否定している。 ##### ナーガールジュナの観点(全体論的言語観) これに対して、ナーガールジュナの縁起観によると、最初から火も薪も相互に依存している実体という前提はなく、それぞれが他方を内包的に含意している。つまり、火と薪という一般名辞はそれぞれ「xは火である」と「xは薪である」という述語に分析できる。そして、「xは火である」という述語は、「もしxが火であるならば、xはyを燃やしている」という条件法を含意している。他方、「xは薪である」という述語には、「もしxが薪であるならば、xは火によって燃やされている」という述語を含意している。これらは、背後で他の無数の述語を含意しており、それ自体で成立してはいないのである。これは、「xは走る」、「xは男性である」といった単純な一項述語であっても、「もしxが走るならば、xは生物である」や「もしxが走るならば、xは歩いていない」といった無数の述語の背後で含意しており、これらと連関することによって、「xは走る」が理解されるのである。 ##### 述語は独立して成立していない ここからナーガールジュナの全体論的な言語観が浮き彫りになる。つまり、ナーガールジュナは、ある述語がそれ自体で成立していないということに着目する。例えば、上記の例で言うと、「火」という名辞は「xは火である」という述語に分析でき、そして、それは「xはyを燃やす」という述語を含意している。つまり、「xは火である」という述語それ自体が普遍的な意味を持ち実体として成立しているのではなく、必ず他の無数の述語を含意しており、そして、この他の述語との連関においてこの名辞は理解されるのである。中村(1980)によると、
もしも薪に依存して火があり、
また火に依存して薪があるのであるならば、
いずれが先に成立していて、
それに依存して火となり、
あるいは薪があらわれることになるであるか。
この恒常的連接習慣による心の決定という二つの事情が必然性の全体を形作るのであり、それを我々は物質に帰属させるのである。 『中論』は決して従前の仏教のダルマの体型を否定し破壊したのではなくて、法を実有とみなす思想を攻撃したのである。概念を否定したのではなくて、概念を超越的実在と介する傾向を排斥したのである。「であること」esentiaを、より高き領域における「があること」existentiaとなして実体化することを防いだのである。 [ibid, p.143]つまり、述語ひとつとっても、それと連関する多くの述語がその述語の成立根拠となっており決して独立して存在しているのではない。また、この述語を理解する際には、この言語の連関、ネットワークを十分に習得していなければならない。つまり、言語の意味が言語全体、この言語共同体が共有する常識を前提としている。 ##### ナーガールジュナの縁起から出現する言語全体 そして、この一つの述語が関連している述語のネットワークは、その言語に属する全ての述語とあまねく繋がっている。つまり、ナーガールジュナの縁起観から言語の領域を捉えた場合、全ての言語が繋がっている巨大な言語の全体が現れる。それは「言語全体」である。有部のプラトニズム的言語観に対して、ナーガールジュナはこのようにクワインが主張する「全体論」的な言語観に帰結する。この言語全体は、ナーガールジュナが言う「慣習的真理」にほかならない。また、この言語全体との関連においてひとつの述語は理解されるという全体論的な言語観からナーガールジュナは有部の実体論を批判しているのである。 しかし、「空」はこの言語全体と同一視することはできない。なぜならば、空はこのような常識の更に上位に位置する究極的真理であるからである。ただ、縁起を言語の領域に適用した場合に言語全体として現れるのである。しかし、一方で、言語はこの慣習的真理の中に束縛されており、従って、言語は慣習的真理を媒介するものであって、この中から抜け出すことはできない。すなわち、慣習的真理に縛られる言語では、すぐ後で見るような究極的真理(空)に決して到達できないのである。 #### 一義の原理 次に見るナーガールジュナの論駁法は、『中論』の随所で見られる論駁法である。それは、第二章の「去るものは去る」(2・10)などのように、ひとつの命題に同類の動作が重複する命題と偽とする論法である。これを黒崎(2004)は「一義の原理」と呼ぶ。この原理を適応することによって有部の言語観が許容する命題を論駁していく。これによって、ナーガールジュナはまさにこの有部の述語を実体として捉える立場(プラトニズム的立場)を否定していく。ここでは上記で既に触れた第二章をピックアップしてナーガールジュナの批判手順である言語分析を概観して見る。2・3において彼は有部の立場を前提とした場合次のような誤謬が生じることを指摘する:
<2・3>ナーガールジュナは縁起によって全てが相互に依存していると考えるため、<去ること>と<去りつつあるもの>は分かちがたく結びついており分離する事は原理的に不可能である。そのため、この言語観によると、「<去ること>は<去りつつあるもの>の中にある」という命題は、<去りつつあるもの>の中に“更に”<去ること>が存在ということを意味する命題となる。 しかし、「一義の原理」は、このように類似する(同じカテゴリに属する)動作が重複することを認めない原理である。なぜならば、「去るものは去る」(2・10)という命題は<去るもの>が“更に”<去る>という意味でありそれは不可能であるからである。そのため、「去りつつあるものの中に去ることはある」は、「去る」という動作が重複するため一義の原理を適用して偽と判断するのである。<去るものが去る>は英訳では「mover moves」と訳される。ナーガールジュナは、moverの内包性を分析し、この主語には、「something to move」が内包されていることを見て取る。そして、「mover moves」は次のように分析することができる:
<現在去りつつあるもの>のうちに、
どうして<去るはたらき>がありえようか。
<現在去りつつあるもの>のうちに
二つの<去るはたらき>はありえないのに。
Something to move moves.従って、moveという同じ動作が重複していることが明らかになり、一義の原理によりこの命題は偽であると判断される。このように、有部が実体の形而上学を前提とした場合に真であると判断する命題に対して、ナーガールジュナは縁起の相依性という言語観により語義の重複を指摘してそれらを偽とみなす論法で次々に論駁していった。つまり、彼は、<去るもの>と<去ること>は相互に関係している(縁起)と考え、これらが個別に成立する実体とする立場を否定したのである。 ---- #### 二つの真理 縁起は相依性であり、そして、この相依性から実体の概念を前提とする立場を次々に空化していく。しかし、2・2における反論に見られるように、そもそも目の前には具体的な現実があり、全てが空であるとナーガールジュナの言うことは詭弁ではないのか。そのような素朴な疑問が沸き起こる。このような疑問は、「縁起」のほかに`二つの真理([漢]二諦)`というもう一つの『中論』の原理、すなわち、ナーガールジュナが真理を二つの領域から捉えているということを理解しなければならない。 ##### 縁起の矛盾に対する古典的解釈 先の疑問は、「縁起」とはなにかが「起こる、発生する」という意味を含んでいるにもかかわらず、相依性によって発生を否定(不生)するのは矛盾しているのではないか、という疑問に還元することができる。不生と縁起の矛盾に対する古典的な回答は、中村(1980)によると次の三つである。 - アサンガ([漢]無著)の回答:有から有がさらに生起することはありえない、また、無から有が生起することはありえない。従って縁起から有が生起することは不可能であり、縁起とは不生のことである。 - バーヴァヴィヴェーカ([漢]清弁)の回答:彼はナーガールジュナが真理を二つに分けるのに注目する。そして、究極的真理においては、一切のものは生じず、つまり、「不生」であり、慣習的真理において、一切ものは生じる。不生の縁起という時、「不生」は究極的真理の領域においてであり、「縁起」は慣習的真理の領域におけることである。 - チャンドラキールティ([漢]月称)の回答:「縁起」には二つの意味がある。即ち、「縁りて」と「起こること」である。そして、縁起を厳密に捉えるとこれは「縁りて」を意味する言葉であり「起こること」は初めから含意していないとする。そのため、不生なる縁起は矛盾しない。 #### 二つの真理の導入による矛盾の解消 これらの中で、二つの真理の区別を導入して矛盾を解決するバーヴァヴィヴェーカの回答が妥当であるように思われる。なぜならば、ナーガールジュナが真理を二つの領域に分けているということは、次に詩句において明瞭に語られるからである。
<24・8>ここで見られるように、一方の真実は「世俗の覆われた立場での真理」すなわち`慣習的真理([梵]sambrti-satya, [漢]世俗諦)`と呼ばれる。これは、世間における暗黙の了解で、日常における常識であり、そのため、相対的な真理である。もう一方の真理は「究極の立場から見た真理」すなわち`究極的真理([梵]paramārtha-satya, [漢]勝義諦)`である。これは、慣習から独立したものであり、普遍的な真理である。そして、究極的真理においては一切は有らず、慣習的真理においては一切は有るのである。 #### 二つの真理に対するカント主義的解釈 この二つの真理に対する古典的な解釈は、(瓜生津2004)によると、チャンドラキールティとバーヴァヴィヴェーカのものがある。彼らにとって、究極的真理は言葉で語ることができない超越的なものである。そして、彼らによると、慣習的現実では真実を無知が覆っており(無明)、それぞれの慣習的現実は相互依存の関係であり(縁起)、そして、慣習的現実は言語によって知られる世界である。 現代において、T. R. V. Murti (1955)が試みるように、この解釈はカントの超越論哲学と対応させることによってより具体的にすることができるだろう。つまり、カントの現象的領域(フェノメノン)に慣習的真理を対応させ、物自体(ヌーメノン)の領域に究極的真理を対応させるのである。カントの物自体と究極的真理すなわち空は、確かに類似するように思える。物自体とは、現象の背後に存在すると想定される根源的な実在である。我々は時間と空間というアプリオリな直観を媒介して世界を眺めるため、この型にはまっていないカオスそのものであるこの世界には決して到達できない。そして、ここにおいては、あらゆる区別が存在しない。 この解釈に従うと、二つの真理とは、二つの異なる実在が存在するのではなく、世界の捉え方の違いである。世界を慣習的な視点から見れば一切は存在する。あらゆるものは生起しており、運動しており、またあらゆる感覚的な現象が肯定される。そして、この視点において矛盾を認めるようなことは不合理である。これに対して、世界を究極的な視点、つまり、全ては縁起(相依的)であるという視点(物自体の視点)を想像することによって、あらゆるものの区別は消失するのが推測できる。 #### 有と無を包括する空(空見と空の区別) しかし、この解釈もナーガールジュナの観点と異なる。なぜなら、物自体は決して我々には到達できないが、カント哲学を独我論に陥らせないために現象の背後に存在すると想定される形而上学的”実在”である。つまり、これは「有」である。「有」は「無」と区別され、また、二つは依存関係にある。そして、上記のように空を有もしくは無といった見解と同一視する空の見解を「空見」という。「空見とは、空が縁起の意味であり、有と無との対立を絶しているにもかかわらず、これを対立の立場に引き下ろして考えることである」(中村, 1980, p279)。このように空は空に関する何かしらの見解、即ち、空見と勘違いされやすいが、『中論』においてナーガールジュナが示唆する空は、有でも無でもなく、その二つの概念を包括する「中道」(24・18)である。そのため、究極的真理は、物自体という根源的な形而上学的対象のさらに上位に位置する。 ##### 空は語りえない ではこの全てを包括し、有と無の上位の概念である空という究極的真理はいったいどのようなものか。我々は何かを表現するとき、言語によってしか表現できず、そして、言語は慣習的な領域に属する媒体である。つまり、どのような真理であっても、慣習的領域においてしか表現されえない。我々が知りうるのは慣習的な言語に即したものに限られる。そのため、究極的真理である空は、慣習的な領域に属する言葉が及ばない。空は「語りえぬもの」である。
二つの真理(二諦)に依存して、
もろもろのブッダは法(教え)を説いた。
世俗の覆われた立場での真理と、
究極の立場から見た真理とである。
<24・9>
この二つの真理の区別を
知らない人々は、
仏陀の教えにおける深遠な真理を
理解していないのである。
<24・10>##### 否定によって到達する空(空の空) 言語の背景が慣習的真理によって支えられているため、この領域に縛られる人間には究極的真理に到達することはできない。しかし、ここまでこの制約に反して空について語られてきた。つまり、我々自身、「空」という名辞を使用して何かしらの見解(空見)を抱いてきた。しかし、空は全ての見解の放棄であり、「全ては空である」という命題さえ否定しなければならない(和訳と英訳が異なるので英訳も併記する):
世俗の表現に依存しないでは、
究極の真理をとくことはできない。
究極の真理に到達しないならば、
ニルヴァーナを体得することはできない。
<13・8>つまり、「全ては空である」という命題はこの命題自身にまで及ぶ自己言及の命題であるため、この命題自体もまた空なのである。このように空見を空化する「空の空」によって、言い換えるならば、Sideritsが言うように「究極的真理は究極的真理が存在しないことである」(the ultimate truth is that there is no ultimate)(Siderits, 1989 cited in Priest 2002, p263)、つまり、「究極的真理は存在しない」という否定命題によって、はじめて空に到達する。到達するという表現をここでも用いるが、それは対象を前提としてそれに向かってそれに達するという意味ではない。究極的真理(空)は、究極的には、究極的真理(空)は存在”しない”、という否定命題によってしか表現できず、従って、空を基礎づける『中論』は、あらゆる形而上学を全て否定する論駁書なのである。そして、これによって「めでたい縁起のことわり」、空、に間接的に到達するのである。 --- ## 参考文献 1. J. Garfield. The Fundamental Wisdom of the Middle Way. Oxford University Press, 1995 1. G. Priest. The logic of the catuskoti. Comparative Philosophy, 1:24-54, 2010 1. M. Siderits. Thinking on empty: Madhyamaka anti-realism and canons of rationality. Rationality in Question: on Eastern and Western Views of Rationality, pages 231-249, 1989 1. 中村元 (著)、『龍樹』、講談社、2002 1. 立川武蔵 (著)、『空の構造』、レグルス文庫、1986 1. 立川武蔵 (著)、『空の思想史』、講談社学術文庫、2003 1. 瓜生津隆真 (著)、『龍樹―空の論理と菩薩の道』、大法輪閣、2004
一切の執著を脱せんがために、
勝者(仏)により空が説かれた。
しかるに人がもしも空見をいだくならば、
その人々を「何ともしようのない人」とよんだのである。
The victorious ones have said
That emptiness is the relinquishing of all views.
For whomever emptiness is a view,
That one will accomplish nothing.
First posted 2011/02/27
Last updated 2011/03/01
Last updated 2011/03/01