<< 前へ │ 次へ >>
# ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス」#3 資本主義と分裂症 ## 欲望の三つのコード化 ドゥルーズ=ガタリは、次に先に見た散乱する欲望を社会の根底に据えることによって社会を捉えようとする。散乱する欲望する機械が集積することによってモル的集合という秩序が出現し、この全体によって個々の欲望は規定されるのだった。社会と個人の関係もこれの例に漏れず、個人が集積することによって社会機械が形成され、その社会機械が個人の散乱する欲望を規定する。このように拡散するエネルギーに一定の流れを与えることを`欲望のコード化`という。そして、ある共同体におけるコード化を突如現れた征服者が破壊し新たなコードをもたらすことを`超コード化`という。しかしこのコード化と超コード化で歴史は繰り返されるわけではなく、ドゥルーズ=ガタリは、歴史の最後の段階を資本主義社会であるという。そして、この社会形態においては、個々の欲望をコード化せずにそれを開放する。資本主義社会・経済を構成する貨幣・商品・労働・資本といった要素は、欲望を規制するものではなく、欲望の交換し欲望を円滑に流動させるための装置である。資本主義におけるこのような欲望の開放を`脱コード化`という。そして、この資本主義を超えた先にあるものは器官なき身体という欲望する生産が拡散しきって停止した死の世界であり、ここにおいて資本主義社会すら存在しない。 欲望の三つのコード化によってそれぞれ異なる欲望する生産の流れが形成され、そして、それに従ってそれぞれの社会機械が形成される。それは、コード化に対応する原始土地機械、超コード化に対応する専制君主機械、脱コード化に対応する資本主義機械である。この三つにおける土地、専制君主、資本といったものは`充実身体(corps plein)`と呼ばれるもので、それぞれの欲望する生産を支える土台である。 1. 原始土地機械:コード化された社会(前オイディプス期) 2. 専制君主機械:超コード化された社会(オイディプス期/パラノイア) 3. 資本主義機械:脱コード化された社会(器官なき身体の一歩手前/スキゾ) 4. 器官なき身体(社会の死) ### 1. 原始土地機械/野生社会(コード化) 原始的な社会機械は、人間の欲望をコード化し散乱する欲望する機械に一定の流れをもたらす。だが、このコード化(規則化)は何を秩序付けるのか。原始社会における始原的な規則は、近親姦の禁止である。レヴィ=ストロースなどの人類学者は、婚姻に関する複雑な規則と近親姦の禁止を女性の贈与(経済的規則)という自然の合理性(パンセ・ソバージュ)によって説明する。それは、不動の構造・超越論的秩序である。しかし、ドゥルーズ=ガタリはこのような静的な構造というのを認めず、動的な欲望を根幹に据える(欲望する機械一元論)のだった。**彼らは、このような婚姻の規則は、どのような生成過程をもつかと突っ込んで問う(欲望する生産からどのように成立するか)**。そして、彼らによると、コード化は近親姦の禁止によって分化される以前の欲望する機械の集積における`強度の配分`に作用する。この欲望する機械の集積における強度(差異)をコード化(抑圧)することにより、欲望する諸機械(人間)のつながりが規定される。それにより出自・縁組といった規定された人間関係(系譜)が具体的な外延として表れる。そして、この縁組の規則に近親姦は禁止も含まれる。 近親姦の禁止によって人間関係は規則付けられる。そして、また、この始原的な社会において人間関係と土地は密接に関係している。この社会において土地とは、自らのテリトリーであり自らの身体である。そのため、近親姦の禁止によって規定するのは、人間関係と同時に土地が誰のものになるかといった他人の土地との関係も規定する。このような理由により、この原初的な社会は`土地機械`と呼ばれる。また、土地によって剰余価値(富)が生まれそれの所有者も決定される。このように始原的な社会における「土地」は、原始的な充実身体を意味し、いっさいの生産を支える土台を意味する。そして、この社会機械(社会的身体、社会機構)は人間を部品と扱い、また人間は自らこの機械の部品となることによって、この土台を自分の支えとする(パラノ的欲求)。 - 欲望する機械(人間)の集積 - 社会機械(社会的身体、社会機械)の成立 - ここに秩序が生じ、原初の社会機械(胚種的渦流?)に強度や差異が配分される(コード化)(やはり、この点がよく分からない。なぜ、混沌の集積が秩序を生むのか。) - この強度や差異が出自・縁組として外延に表れる - 縁組の規則は女性の交換であるため、近親姦は禁止される(レヴィ=ストロースはこの女性の交換を構造とするがドゥルーズ=ガタリはこれ以前に欲望を置きこれがどのように規則となるか問うたのである) - 始原的な社会において人間関係と土地は結びついているため、近親姦の禁止という規則によって人間関係が形成されるとともに、他人との土地の関係も規定される ### 2. 専制君主機械/野蛮社会(超コード化) 次の段階において、先の土地的機械は、“稲妻すばやさ”のごとく突如あらわれる軍事的征服者(野蛮人、異族)によって征服され、この上に帝国が樹立する(彼は、外部からやってくる倒錯的存在でパラノイア的存在である)。この専制君主は近親姦を行う。それは、つまり人民のオイディプス願望を実現するということであり、これにより、専制君主は人民にとっての超自我となることを意味する。このように専制君主が行う近親姦は、彼を決して逆らうことのできない絶対的な存在とし、それにより彼に超コード化を行う資格をもたらす行為である。 専制君主は、このように従来の土地的機械を完全に支配しこれを彼の手足とする。これが専制君主機械である。彼は、従来の社会におけるコード化を取り払い新たなコード化を人民に与え一切を規定する。このように既存のコードのさらに上からコードを統制することを「超コード化」という。それによって、人民がもたらす剰余価値はすべて専制君主に帰属するようになる。そして、彼はこの価値を人民に「贈与」する(\*1)。そのため、人民はつねに贈与される側で常に帝国に対して負債を負っていることになる。 ### 資本主義機械/文明社会(脱コード化) 先のふたつの社会機械においては、資本の流れを規定するコードが存在した。そして、この野生社会と野蛮社会(コード化と超コード化)は循環する。しかし、欲望は常に自らを規定するコードから抜け出そうとする契機をもつ。そして、この欲望の脱コード化の本性と貨幣・労働力が偶然に結びつくことによって、欲望は開放される。この欲望が開放された状態にあるのが資本主義機械である。資本主義においては、あらゆるものが貨幣という量に還元され、そして、この量の基準すら変動する。そのため、資本主義は、欲望の脱コード化の本性が開放された状態である。このコードを持たなずあらゆるものが貨幣に還元され流動する資本主義は器官なき身体にとても近い状態である(スキゾ的)。この後には、すべてが混ざり合った器官なき身体という歴史の死があるのみである。 ### 社会的公理系 しかし、欲望の本性である脱コード化をなすままにしたら欲望は方々に散乱し資本主義のシステムは崩壊して器官なき身体となってしまう。しかし、脱コード化にはコードを破壊した後にそれを再解釈するという再コード化という運動の意味も含まれている。つまり、脱コード化によって成立する資本主義機械において、公理としてコードの生成と解除の流れが内在化されている(脱コード化と再コード化の流れ)。この再コード化を「公理系」といい、この公理系と脱コード化がもたらすにおける二つの永久運動によって資本主義機械は成立している(流動するコードが資本主義を支えており、つまり、これは根無し草である)。そして、公理系は国家など上位の立場から発せられるコードではない。それは、コードですらなく資本主義市場(資本の循環)の内在から発せられる運動であり(根源的抑圧?)、これによって欲望を常に調整する。 この内在化された公理系はどのようにもたらされるのか。それは、家庭のオイディプス関係によってもたらされる。つまり、古代の社会機械においては、コードは神や王によってもたらされたが、資本主義においては個々の家庭によってもたらされ、また、家庭は社会を反映している。従って、個々の人間の欲望を再コード化する契機はこの資本主義機械という社会を内包しており、これを超え出ようとする契機をもたない。 ## 資本主義のスキゾ分析 ドゥルーズ=ガタリは、『アンチ・オイディプス』においてフロイト精神分析(これはすでに批判されているのだった)に代わって「スキゾ分析」において資本主義を考察し新たな『資本論』を目的とする。スキゾ分析(\*2)とはスキゾを分析するのではなく、欲望に本質と備わっているスキゾ(欲望の脱コード化の本性)を基準・方法としてあらゆる事象を分析する。資本主義において欲望はコード化されず、そこでは、欲望の“脱コード化と再コード化(公理系)”というふたつの対立する契機が存在し、この対立よって資本主義市場の欲望の散乱は内面から整流されるのだった。つまり、資本主義は、欲望を秩序付けようとする働き(パラノ)とこの秩序を破壊する働き(スキゾ)という二つの極みを内包している両義的な機械である。 ### **パラノ(妄想症、再コード化、公理系、秩序付け)** 専制君主機械において、専制君主は超コードによって既存のコードを支配し、そこにおける民衆をこの機械の手足とする。そして、この機械の部品となった民衆の欲望は、超コード化によって自らこれの部品であること、機械が円滑に動くようになることを望むように規定される。その結果、民衆は機械全体の秩序を望むようになる。つまり、散乱する欲望する機械には秩序を求める欲望(パラノ)という契機が内在化されている。パラノとは、欲望を秩序付ける働きをもつ(再コード化、公理系)。そして、この傾向は資本主義機械においては、秩序付けられた妄想として現れる。そして、**このパラノによる秩序づけられた妄想、専制君主機械の再構築という妄想が資本主義機械で現実となるとそれはファシズムとして現れる**。 ### **スキゾ(分裂症、脱コード化、秩序の解体)** しかしまた、資本主義には、脱コード化という秩序付けられた欲望を解体する働きも含まれる。欲望の脱コード化という本性(スキゾ)は、いつの時代でも体系が規定するコードの例外として現れていた。古代の社会機械はこのコードから漏れ出た欲望の流れを閉じ込めようとしてきた。しかし、コードを持たない資本主義において、この秩序を乗り越えようとする欲望の流れ(脱コード化)を積極的に利用する。また、**スキゾは、パラノに対する反動であり、ファシズムからの逃亡であるため、これは革命的なあり方といえる**。そして、資本主義の特徴としては欲望が一点に集中してそれの崩壊(恐慌、変革)を繰り返すのは、この脱コード化の本性が原因である。つまり、資本主義社会においてこの欲望の交換を破壊し不均衡をもたらすのもまた欲望である。このように、資本主義は欲望によって動かされる機械であるが、他方それを抑制するのを繰り返すというシニカルなシステムである。 --- ## 注- \*1. モースの贈与論によると、贈与することによって、送られた側はお返ししなければというある種の義務感がうまれる。そのため、贈与は交換という相互関係を形成する。ここでは、臣民はつねに贈与されるがわで、常にお返しという負債を負う。
- \*2. スキゾとはスキゾフレニーの略称で分裂症のことである(精神が分裂しているかのように誤解を招く表現のため現在では統合失調症とよばれる)。また、パラノとはパラノイアの略称で妄想症のことである。スキゾは欲望の脱コード化の本性とパラノは欲望の再コード化の本性と関連つけられて考察される。
First posted 2009/07/27
Last updated 2011/03/04
Last updated 2011/03/04