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# 認知哲学#1 機械は心を持てるか?## 認知哲学の始まり―古典的計算主義(古典主義) Computationalism 認知哲学(人間の心の働きに関する哲学)は「コンピュータは心を持ちえる」という人工知能の認知観に基礎付けを与えるために1950年代に発足した。そしてこの古典主義ないし計算主義は、人工知能の認知観、つまり「心=コンピュータ」という観点をダイレクトに受けついでいる。そして、この観点により数学者のアラン・チューリングはチューリングマシン(Turing Machine)という機械を想定することによって、「考える」という概念を明確化しようと試みた。(詳しい概要はWikipediaの「チューリングマシン」参照) つまりチューリングによる思考の定義とは、「人間と変わらない受け答えが可能であれば思考能力を獲得したと考えてもよい」というものであった。これに対しジョン・サールは強いAIと呼ばれる立場を批判し、中国語の部屋という思考実験を提案した。脳とコンピュータという全く異なるハードウェアが共通のプログラムを持つ可能性を主張した。つまりコンピュータでも心を持ちえるという古典主義本来の主張を擁護するものである。 古典主義の哲学的吟味―表象主義 Representationalism(J. Fodor) 1970年代に入り、認知科学に対し哲学的な考察が盛んになった。ジェリー・フォーダーによると、我々は心的表象を脳の内に持つという。そして古典主義者によるとこの心的表象もまた構文的構造(文法的な構造)を持っており、このすべての人間に共通する抽象的で普遍的な言語を「思考の言語 Language of Thought」とよぶ。そして思考の言語に構文的構造に基づいて変換する過程が認知過程であるとする。 ### 体系性 Systematicity フォーダーが言うには我々の思考能力にはある思考を持つことができる人はそれと関連する思考を持つこともできるという「体系性」があるという。例えばAさんがBさんを愛することができれば、BさんがAさんを愛することも可能であると考えることができる。そしてこういった体系性は、心的表象は構文的構成をもつと主張する古典主義の観点からは容易に行える。例えば”A loves B”はSVOという文法規則に従っていて、”B loves A”という文章は同じ構成規則に従いつつ順番を入れ替えただけである。 ### 生産性 Productivity 文章作成の知識を持ち、ある程度のボキャブラリーを持つ一般人は無限に近い文章を作成できる。それらの文章の多くは見たことも聞いたこともないようなものであるにもかかわらず、文章を作成できるのは文章といものが分子的構造をもち単語という原子によって構成されているからである。思考もこのように無数に展開できるのは言語のように構文構造を持っているからに他ならないとフォーダーは言う。 ## 古典主義に対する批判 ### 中国語の部屋 この思考実験は理解と記号の操作の違いを明確にし還元論的唯物論(機能主義)を批判した。詳しくは前述したこちらとこちら参照 ### フレーム問題 この「フレーム問題」こそ人工知能の最大の壁とされているものである。デネットの例:ある部屋の中に、ロボットのバッテリーがあり、その上に時限爆弾がおかれている。そのまま放置しておくと時限爆弾は爆発する。ロボットは自らのバッテリーを持ち出さねばならない。ロボットは、「部屋からバッテリーを取り出してくること」という作戦を指示された。 - 1号機(バッテリーを取り出してくることのみ入力されたロボ)→バッテリーの上に爆弾が乗っているという事態に対処できず両方とも持ち出してしまい爆発。失敗。 - 2号機(副次的な事項を考慮するロボ)→無制限に拡大する副次的事項全てに対し推論を試み硬直して失敗。 - 3号機(無関係な事項は無視するように指示されたロボ)→なにが目的に対し無関係か無制限に推論し、部屋の前で硬直。失敗。 この3号機は自らの行動の可能性を手当たりしだいすべて計算しようとしてしまったのだ。しかしその可能性は無制限であり当然爆発までに計算し終わることは不可能である。つまりフレーム問題とは人工知能が必要なことと不必要なことの判断ができないということである。端的に言うと「何を無視すべきかということを考えずに、いかに不必要な事項を無視するか」という問題である。つまりあらゆる情報とあらゆる情報の関連性、つまり無制限にある日常的知性(常識)をどのようにロボットに与えることができるかという問題に言い換えることもできる。(ドレファスによると古典主義のいう心的表象の変形という考えはプラトン以来の西洋哲学の伝統に縛られており、ハイデガー、ウィトゲンシュタイン、メルロ=ポンティらによって覆されているという。つまり我々の理解や思考というものは他者や環境に適合することではじめて獲得するものであり、形式化して与えることは決してできない。
知能は理解を要求し、理解はコンピュータに常識という背景を与えることを要求するが、その常識を成人した人間が持っているのは、彼が身体を持ち、技能を通じて物質世界と相互作用し、ある文化へと教育されるからだ[...]。 ドレイファス「コンピュータには何ができないか」加えて、人間は感情を持つため規範的な価値判断をもつことができ、それにしたがって物事に優先順位をもつことができるとも言える。目の前に時限爆弾があるのに壁紙のことを考えたりしない。もしくは少なくとも爆弾と壁紙を平等に考察したりはしない。それは恐怖心といった感情が判断に順位を与えているためである。 ## 表象主義に関する批判 ## 思考の言語に対する批判 - 表象なしの命題的態度(Dennett) チェスのAI研究者がプログラムに対して命題的態度を予測したり理解したりするが、そういった命題とトークン的な関係を持つ表象がプログラムのどこにも見つからない。 - 表象無しの命題的態度 --- ## 注 --- ## 参考文献 信原幸弘(編)「心の哲学:ロボット編」 柴田正良「ロボットの心」
First posted 2007/09/01
Last updated 2007/11/11
Last updated 2007/11/11