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# ルソーの哲学「エミール(第一遍)」 ## 教育 P23 `万物をつくるものの手を離れるとき全ては良いものであるが、人間の手に移ると全てが悪くなる`。 我々はか弱き存在であるため教育という名の助けが必要だ。 しかし、人間が生み出す社会制度は偏見、権威、必然、実例などによって我々を抑圧するため、生まれた時から人間社会の中で育つ子供は、精神的にも肉体的にも屈折し湾曲した人間になる。 ではどのような教育が子供(この子供はおもに自然から遠ざかっているブルジョア階級の子供を指す。 貧困層の子供は自然の中で育つので教育は必要ない。 それ以外でもこの本は当時(18世紀)のブルジョア階級の人を読者として想定している)を善良な人物に導くのだろうか。 教育の種類は三つある。 1. 教育は能力や機関の内部発達をつかさどる自然になるもの - それら自然の発達の仕様の仕方を教える人間の教育 - 我々の経験が獲得するのは事物の教育である ## 人間と市民 P28 しかしこれらの教育がひとつの理想を共有するなら問題はないのだが、対立するようなら「人間」と「市民」もしくは自然と社会制度という対立する人間像のどちらかを理想とするか決めなければならない。りっぱな社会制度とは、人間をこの上なく不自然なものにし、その絶対的存在を奪い去って、相対的な存在を与え、「自我」を共通の統一体の中に移すような制度である。逆に自然人は自分が全てである。 全ての価値観は自らのうちにあり社会の善は相対的なものとなる。 社会状態にあって自然の感情を持ち続けようとする人は、絶えず矛盾した気持ちを抱いて、人間と市民の間をさまよう。 これが現代の人間(18世紀のフランス、イギリスのブルジョア階級の人間)である。 必然的に対立する二つの目的から、そう反する二つの教育形態が出てくる。 一つは公共教育、もう一つは個別的な家庭教育である。 しかし、
世間の教育は二つのそう反する目的を追求して、どちらの目的にも達することが気でないのだ。 それは、いつも他人のことを考えているように見せかけながら、自分のことのほかには決して考えない二重の人間をつくるほかに能がない。ではこのような中途半端な人間にしないためにはどのようにしたら良いのだろうか。 それは二つの相反する教育の目的を一つの共通するもので纏め上げることができれば、類まれなる人物が誕生する。 それはもっぱら「自分のため」に教育された人である。 ## 人間の条件 P31 社会的秩序の元ではその地位にあった教育を施されねばならない。 その社会的地位と身分に合った教育を施されてはじめてそれは有効となが、それ以外は有害である。 また自然の秩序の元では人間は皆平等である。 その共通の天職は人間である。
私たちが本当に研究しなければならないのは人間の条件である。 私たちの中で、人生のよいこと悪いことに最もよく耐えられるものこそ、最もよく教育された者だと私は考える。 だから本当の教育とは、教訓を与えることではなく、訓練させることにある。人は子供のみを守ることばかり考えているが、それでは十分ではない。 大人になったときあらゆる苦難に耐えさせるには子供のうちそれを経験させておく必要がある。
あなた方は子供が死ぬことにならないようにと用心するが、それは無駄だ。 そんなことをしても子供はいずれ死ぬことになる。 […]死を防ぐことよりも、生きさせることが必要なのだ。 […]最も長生きした人とは、最も多くの歳月を生きた人ではなく、最もよく人生を体験した人だ。## 自然の成長を尊重 P32, P68, P92
私たちの知恵と証するものは全て卑屈な偏見に過ぎない。 私たちの習慣というものは全て屈辱と拘束にすぎない。 社会人は奴隷状態のうちに生まれ、良き、でいく。 生まれると産衣に包まれる。 死ぬと棺おけに入れられる。 人間の形をしている間は、社会制度に縛られている。しかし、一番重要なことは両親は子供の自然の成長を妨げず助長してあげるべきである。 例えば人間は子供を産衣で包んで縛り付ける。 そのほうが面倒を見やすいからである。 しかしその間子供は耐え難い苦痛を味わっている。 そしてそれらの拘束は身体に欠陥をもたらすだけでなく、その子の精神に決定的な悪影響をもたらすのだ。 なので自然のままに手足を自由にさせてやるのが肝心である。 人間は生まれたときからあらゆる事物を感覚を通して経験する。 しかし幼児はまだ理性が未熟であるため彼らを支配するのは快、不快といった純粋な感情であり、感覚を刺激するものにしか関心を払わない。 経験をすることによって身体的能力を伸ばすだけでなく、あらゆる知識も獲得してゆく。 なので大人は彼らの欲求に逆らわず体験させてあげるのが重要だ。 そうやってあらゆる感覚を学ぶのだ。 そしてものを見分けられるようになったら、何も機にせず道のものを見させなれさせると良い。 そうやってあらゆる動物を幼いころに少しずつ順を追って慣れさせてゆけばそれらに対する恐怖心はなくなる。 ## 両親のあり方 P37 自分の子供に対し関心をなくし教育を放棄するような母親は子供を育てるべきではない。 そういう母親の乳を吸うより健康な乳母の乳を吸うほうが良い。 しかし、乳母が母親同等の愛情を持った場合も他人である乳母と母親の権利をわかり分かち合う、もしくは譲らなければならないという不都合が生まれる。 これを防ぐには彼らの乳母と乳飲み子であるという身分の違いをはっきりと示しつつ関係を築かせると良い。 一番自然で善いことは、自分で自分の子供に母乳を与え育てることである。 さすれば道徳的な感情は自然に芽生えるし、夫婦の絆は深まり家庭は円満となる。 しかし、反対に自然の過酷な環境から過保護に養育しすぎると、それもまた自然の道をはずれ不健全な子供となり将来に悪影響を及ぼす。 自然はたえず子供に試練を与える。 たとえば肉体的な苦痛、病気、不順な季節、風土、環境、餓え、乾き、疲労などありとあらゆる危険が子供に襲い掛かる。 そしてこれらの体験が子供を鍛え頑丈な体を与えるのだ。 また子供は自分の要求を伝えるために泣き叫ぶ、母親が持つのはその気まぐれに従うかもしくは母親の気まぐれに従わせるかの二択である。 だから子供が最初に抱く観念は支配と服従の観念である。 罪もないのに服従させられ罰を受ける。 そうやって子供を悪い方向に押しやって行くのだ。 そしてあらゆる人工的なものごと(不必要な言葉や習慣)を教えこんだ後教師に預けさらに人工的な芽をのばす。 しかし自分自身に関することは教えないため、その子供は学問だけを詰め込まれた傲慢で虚弱な人物となってゆくのだ。 これは人工的なものを近づけ自然を遠ざけた結果である。 加えて、父親は子供の本来の教師である。 父親は人間であり社会的人間であり、市民でなければならない。 そのような義務を果たして初めて父親としての義務を果たすことができる。 ## 教師について P47 教師は金で雇うようなものであってはならず、代わりのいないような友人でなければならない。 また友人とであるならば年が近ければ近いほどいい。 そして彼は十分に教育されてなくてはならない。 ## 生徒(エミール)の想定 P52 1. 温厚な土地で生まれ育った子が好まれる。 なぜなら暑すぎても寒すぎてもそれほど理性の発達によさそうではない。 - 貧乏人は自然によって教育されるため人の手で教育する必要がない。 よって生徒は裕福であると想定する。 - 教師と生徒は常に一緒に離れられないという条件も付け足す。 距離を持つとお互い他人であることを意識してしまいお互いがやっかいになってくる。 しかし常に一緒であればお互い親しくなる必要がうまれるからである。 - 健康な子供でなければならない。 病弱だと教育よりも体の心配に気がまわってしまい、魂の教育を妨げる。 ## 医術批判 P55 医術は人間にとって有害な技術である。 医者は体の病気は治しても、それ以外の非常に有害な病気をもたらす。 臆病、卑怯、迷信、死に対する恐怖がそれだ。 我々に必要なのは人間であるが、彼らはその心を殺すのだ。 医者が繁盛するのは、自分の体の面倒しかすることのないの暇な人間が多いからだ。 医者は彼らの虚妄の慰めになる。 我々は真理に決してたどり着けないように人を治療する医術と人を欺く医術を区別できない。 なので生命が明らかに危険状態にあるとき以外医者に頼ってはならない。 そのときは医者であっても死なせる以上わるくできないからである。 また病気は治すよりも耐えるほうが子供にとって有益である。 加えて、例外的に衛生学は医学の中で唯一有益な分野である。 また伝統的な養生法が一番健康に効果的である。 ## 都会批判 P65 「人間はアリのように積み重なって生活するようにつくられていない」そして、ひとつのところに集まれば集まるほど人間は堕落する。 弱い心も悪しき心も人間がひとつの場所に集まった結果である。 「都会は人類の堕落の淵だ」。 妊婦がお産するときは都会を避け田園の田舎で行うべきである。 それが人間本来の形であるのだから。 ## 幼児の言語 P76 全ての人間には共通する言語がある。 それは幼児がまだ我々の言語を話す前に語っているものだ。 またそれは我々の言を習得することによって忘れ去られる。 また身振りや表情による言語もある。 特に表情はあらゆる感情を瞬時に表現することができる。 彼らの一番顕著なもののひとつに不満と欲求を表現する泣きごとがある。 そしてここから、人間の、彼の周囲にある全てのものに対する最初の関係が生じてくる。 ここに社会の秩序を形作る長い鎖の最初の輪がつくられる。 また彼らの泣きごとを恐怖を与えることによって抑えてはならない、例え収まったとしても、彼のうちに深い恨みと絶望を生み出し人格形成に悪影響を与える。 しかし、子供の言いなりになることと子供に逆らわないこととの間には大きな違いあることを留意しなければならない。 つまり子供の最初の泣き声は願いであるが、それはやがて命令に悪変する。 それは権力と支配の観念を生み出すことに他ならない。 ## 理性による良心 P81 ホッブスは、悪人を強壮な子供と呼んだがそれは間違っている。 「悪は全て弱さから生まれる」のだから。 子供が悪くなるのは、その子が弱いからに他ならない。 神が全能であり善であるように、強いものは悪事を働かない。 理性が我々に善悪を教える。 よって原始的で暴力を好む幼児はある程度成長し理性が発展するまで我々は善悪の観念を持たない。 (しかしこのような超越論的主観性は後にマルクス、ニーチェやフロイトなどによって批判される。 この主観性は人間の根源的原理などではなく社会関係や物質的実践あるいは無意識の中か生まれた一つの結果でしかない。 ) これ以降の数ページはおしゃぶりや離乳食などの具体的な子育ての勧めと、言語習得の過程が書かれているが省略する。 --- ## 参考文献 1. ルソー (著)・今野一雄(翻訳)、『エミール〈上〉』、岩波書店、1962
First posted 2007/05/31
Last updated 2011/02/28
Last updated 2011/02/28