# トルストイ『芸術とはなにか』
## 1. 芸術の定義
### 1.1. 芸術の定義から美を排除(形而上学的定義の否定)
芸術は美の追求であるとしばし言われる。しかし、この美とはなにか。トルストイによるとこれの定義は客観的定義と主観的定義の二つに分けられる。美の客観的定義によると、美はそれ自体で存在するもので、絶対に完全なもの(観念、精神、意思、神)の現れの一つである。これに対し、美の主観的定義によると、美とは一種の主観的な悦びであり快楽である。
そして、仮に客観的な美が存在したとしても、それから我々が主観的に感知して悦びを得るのだから客観的美は主観的美に還元しうるという。そして、悦びとは即ち快楽であるため、美は悦びをもたらすものであるということになる。これに従って芸術を定義すると、芸術とは快楽をもたらすものの追求となる。
しかし、食事の根本的な目的が快楽ではなく栄養の摂取であるように、芸術においても快楽よりもより根本的な目的があるはずである。つまり、どのような快楽が好みかという問題は個人の嗜好の問題であるが、食事における栄養といった目的は万人に共通する本質的な目的である。このように芸術の定義においても美(快楽)という嗜好性を排除して、芸術を人間生活における根本的な条件としてより本質的な定義を探求する。
### 1.2. 芸術とは感情を伝達する人間相互の交流手段である
人間は、言語によって「思想」を伝えることができ、この言語による思想の伝達によって人々はコミュニケーションをとってきた。これと同じように、人間は自らの「感情」を他人に伝えたり他人の感情を理解する能力をもつ。例えば、相手が笑ったり泣いたりしたとき、自分自身も愉しくなったり悲しくなったりするように感情は伝染する。そして、この能力の上に成立しているのが芸術である。
芸術とは、ある人が自分の経験した感じを意識的に一定の外面的な符号によって他人に伝え、他人はこの感じに感染して、それを経験するということで成り立つ人間の働きである。 (p.55)そして、芸術によって時間と空間を超えて人間同士の感情の共有が可能になり、この同一の感情によって人々は交流して彼らを結びつける。 一般に芸術というと、絵画、音楽、小説、建築、彫刻といった特定の分野を指すが、これらは上流階級によって特殊な意味を与えられた貴族芸術で大衆には無関係であり、上記の定義から芸術を見てみると芸術の範囲は普段我々が思っているものよりも遥かに拡大する。そして、それは我々の日常生活に染みこんでおり不可欠なものであることがわかる。例えば、子守唄、冗談、物真似、住居、衣服、調度類の装飾、教会の儀式、凱旋の行列などである。 --- ## 2. 芸術の堕落 ### 2.1. 原初的で真の芸術 それぞれの場所と時代にはそれぞれの宗教によってあらゆる思想が支えられてきた。そして、芸術とは元来この宗教的な思想を人々に伝播するための手段であり、これによって人々は感情を共有し社会的紐帯を形成してきた。そして、芸術の良し悪しもそれぞれの宗教的思想に基づいて判断された。つまり、宗教的思想に沿う芸術は善いもので反するものは悪い芸術であるとされた。 ### 2.2. 上流階級における快楽芸術 しかし、近代以降の西洋においては、上流階級において宗教に対する信仰が薄らぎ快楽主義が蔓延するようになった。これに従い、芸術の価値判断の基準も快楽を基準になされるようになった。つまり、より快楽を伝える芸術こそ善い芸術でとされた(この可能性を危惧してプラトンなどは芸術の禁止を主張した)。そして、この快楽芸術を正当化するために美学が設立され、これが上流階級において無批判に受け入れられた。 ### 2.3. 偽芸術(模造品)の跋扈 快楽芸術が重視されるに従って、 - (1) 思想の内容が貧弱になった。 - (2) 一部の人々のみ満足させるような排他的な内容でわけの分からないものになった(ボードレールの象徴主義やデカダン派などの新芸術)。 - (3) 金持ちの要求(快楽)を満たし報酬を得るために、芸術は元来の意味から遠ざかり技巧的になり模造品が増えた(\*1))。 このような模造品は、技巧的に凝っていたり、粉飾したり、本物の芸術を剽窃しているためある種の感動や快楽を生み出すが作者本人が経験した感情を伝達しているわけではないため偽芸術である。この模倣品が称賛される傾向は、芸術家への多額の報酬、芸術批評、芸術学校などによって強化されてきた。 --- ## 3. 芸術の優劣と善し悪し ### 3.1. 模倣品と本物の芸術の判断 芸術とは最初に定義したように作者が経験した感情を他人に伝染させて感情を共有させる手段であるため、感情の感染性というものがなければ、それがどんなに技巧がこなされていようと感動を与えようと興味をそそろうと芸術ではないのである。この感情の感染性という点において本物の芸術と模造品は区別されうる。 ### 3.2. 優れた芸術(感染性の大小) そして、この感情の感染力の大小が優れた芸術の判断になる。感染が大きければ大きいほど、それだけ優れた芸術である。感染力の大小は、3つの要因によって決まる: 1. 感情の独自性:伝えられる感情が独特なほど受ける方も深い感動を得る。 - 表現の明確性:表現が明確なほど受け入れる側は明確に感情が感染してよりいっそう満足する。 - 芸術家の誠意:芸術家は彼自身が自らの作品に感染し、その作品は彼自身の為に創られていることが重要である。これを観客が感じることによって芸術家の感情は観客にも感染する。逆に、他人の為に打算的にその作品が創られているということを観客が感じ取った場合には反感が生まれて感動はうまれない。 重要なのは3であり、残りの2つもこれに還元しうる。なぜなら、芸術家が自らの感情を表現したいという内的な欲求をもちそれに誠実であったならば、感情の独自性も表現の明確性も自然に伴ってくるからである。これらの条件を備えていれば内容(伝える感情)の善し悪しは別にしても芸術として見なしうるし、伝える感情が強ければそれだけ優れたものである(逆に上の貴族芸術における模造品は一つの条件も満たしていない)。多くの人に作者の感情が感染すればするほど優れた芸術であるといえるので、新芸術のように一部の人にしか感染し理解されないような芸術は劣った芸術である。
自分が分からないといって新しい芸術を非難するなどということは、その権利もなければ、出来もしないことであって、ただ私が言い得ることは、それ[新芸術]が分からない、ということだけである。私の認める芸術[シェイクスピアやゲーテ]がデカダン芸術に勝る唯一の長所は、私の認めるこの芸術の方が現代の芸術よりも多少は大勢の人々に分かる、という点にある。 p.111### 3.3. 善い芸術(宗教的意識という芸術の価値基準) 最後に芸術の善し悪しを決定する判断基準であるが、ここでトルストイは原点に戻る。つまり、芸術はその時代とそこにおける社会の宗教的意識によって判断されるべきであるという。そして、彼によると、現代においては、キリスト教(\*2) を基準に据えるべきであると言う。なぜならば、現代においては、芸術は、特定の国が勢力を増し繁栄するために人々を結びつけるという手段ではなく、全人類を結びつけるという手段のためにあるべきだからである。そして、キリスト教の宗教的自覚による芸術は、万人を結合せんとするものである。 このキリスト教芸術によって人々の間で共有される感情は、 次の2種類だけである(p178)。 - 人々は神の子であり、また等しく同胞であるという自覚から流れ出る感情 - 歓び・感激・元気・安らかさといったような極めて単純で日常的ではあるが誰にえも例外なく受け入れられる感情 前者の感情を伝える芸術を「宗教芸術」、後者の芸術を伝える芸術を「民衆芸術・世界的芸術」と呼ぶ。この2つの芸術が伝える感情は、万人を愛によって結び合わす。これが芸術の根幹になるべき思想であり、これを伝える芸術のみが内容において善い芸術の対象をなすのである。 --- ## 4. 芸術と科学(科学の堕落に対する懸念) トルストイによると、
真の科学は、真理、即ちその時代及び社会の人々によって最も重要とみなされる知識を研究して、それを人々の意識の中へ持ち込むものであり、一方、芸術はこの真理を知識の分野から感情の分野へと移すものである。 p.212科学と芸術は一蓮托生であり、科学が堕落すると芸術も堕落する。また、トルストイにとって「最も重要と見なされる知識」を研究する科学とは社会科学のことであり自然科学は人間の思想を混乱させる有害なものである。いかに自然科学がダイナマイトなどを生み出し人類に貢献する可能性をもっていようとも、それが戦争に使われたのでは人類にとって害悪である(\*3)。このような自然科学よりも真の科学である社会科学を重視して健全になったとき芸術もまた真の芸術に回帰するのである。 --- ## 注
- \*1. トルストイとは直接関係ないが、近代芸術の時代背景を分かりやすくまとめたものを載せておく。
- \*2. 1880年代にトルストイは道徳的転換期を経験し原始キリスト教に傾倒したため、以降(『人生論』、『復活』など)のトルストイ後期の作品もこのキリスト教の色合いが濃い。
- \*3. トルストイの科学技術や文明の進歩に対する批判的な態度は作品を通して随所で表現される。『アンナ・カレーニナ』はその典型例だろうか(ルソーの強い影響)。また、20世紀なかばまで、技術の発展がもたらす社会や環境に対する影響(公害や環境破壊、既存の価値観の破壊)は、現代的な目線で考えると軽視されていた。それに対する批判的な態度が垣間見える。
First posted 2010/10/08
Last updated 2018/04/19
Last updated 2018/04/19