<< 前へ │ 次へ >>
# クワイン「なにがあるかについて」#1 非存在の否定という問題 ## マックスの主張 クワインは、まずペガサスなどの実際には存在しない対象である「非存在」を否定する際に生じる問題(否定存在言明のパズル)を「プラトンの髭」と呼び取り上げる。その際、彼はマックス(McX)とワイマン(Wyman)(\*1)という架空の哲学者を論駁する形で論を進める。 マックスはある存在(ペガサス)を主張しており、クワインはこれの存在を否定している。しかし、クワインがマックスが主張する存在を否定する時、ある困難に陥る。それは、「マックスは認めるが私は認めないようなもの(ペガサス)がある、と私には認めることはできない」というものだ。なぜなら、私がある存在を否定するためには、その対象を一旦認めてその上で否定しなければならないからだ。また、もしこの存在を最初から認めずに何にもないものを否定したとしても、その言明は無意味である。 1. “ペガサス”という対象の存在を認める → 文「ペガサスはない」は有意味である。 2. “ペガサス”という対象の存在を認めない → 文「ペガサスはない」は無意味である。 従って、マックスはペガサスが存在すると主張する。 #### マックスの混乱 だが、彼は血肉をもったペガサスが”実際に”存在するとは考えていない。彼によると、ペガサスの“観念”が人の心の中に存在する。しかし、ここにはマックスの混乱がある。なぜなら、最初にクワインが拒否した存在は、この「ペガサスの観念」ではなかった。彼が否定したのは、「血肉をもったペガサス」である。クワインとマックスの主張は噛み合っていない。## ワイマンの主張(ペガサスは可能的に存在する) クワインは、次に別のペガサスの擁護者としてワイマンを登場させて議論する。ワイマンによれば、「ペガサスは、現実化されていない可能的存在者としてある」。つまり、我々が、「ペガサスはない」と言うとき、彼によればこれは、ペガサスは、「xは可能的に存在する」という属性を持つが、「xは現実化されている」という属性を持たない(つまり、血肉を持ったペガサスは可能的に存在する)のだ。
<ワイマンのペガサス>- **ワイマン批判1(「存在する」の常識的用法との乖離)** ワイマンは、「存在する」を「可能的に存在する」と「現実的に存在する」に区別する。そして、彼の「存在する」という語それ自体には時空的なニュアンスを含んでいない。このような「存在する」という語の使用は、日常的なこの語の使用と乖離する(これは“存立する([英]subsist)”とも言われる)。また、クワインはこのワイマンの「存在する」の用法を認めて、彼に“進呈”したとしても、まだ我々には「ある」という語が残されているため、問題にはならないという。 - **ワイマン批判2** ワイマンの宇宙は、人口過剰で美しくない。 - **ワイマン批判3(可能的存在の同一性の曖昧性)** 可能性の住み着くワイマンのスラムでは、同一律が成り立たず秩序破壊的である。例えば、その戸口に立っている可能的な太った男と、同じ戸口に立っている同様に可能的なハゲの男を考えることで次のような疑問を持つ:
A(x)=xは現実化されている
K(x)=xは可能的に存在する
ペガサス=p
$ %ペガサスはない \overset{\mathrm{def}}{=} p\not\in A\ and\ p\in K ペガサスはいない=\neg A(p)\wedge K(p) $
ここには同一の可能的な男がいるのか。クワインによると、同一性の概念は、可能的存在者に対しては恐らく適用できない。そして、同一律が成り立たない存在に対して語ることは無意味であるように思われるという。 - **ワイマン批判4(不可能なもの)** ペガサスの否定がパズルに陥らずに有意味なものとするために、ワイマンは「可能的に」という様相概念を導入した(ペガサスはない=ペガサスは現実化されていないが、可能的に存在する)。クワインはこのような様相概念の導入は、「不可能的存在」を認めざるをえなくなると主張する。まず、冒頭の問題を振り返る:
異なる二人の可能的な男がいるのだろうか。
どうやってそれを決めるのか。
その戸口には何人の可能的な男がいるのだろうか。
可能的な太った男よりも可能的な痩せている男のほうが多くいるのだろうか。
そのうちどれだけがお互いに似ているのだろうか。
それとも、互いに似ているということは、同一だということになるのだろうか。
可能的なものはどれひとつとして互いに似ていることはないのだろうか。 要引用箇所
「ペガサスがある」を前提しなければ、「ペガサスがない」が無意味となる次に、例えば、ペガサスの代わりに「丸い四角」という矛盾した不可能な対象で同様に見てみる:
「丸い四角がある」を前提しなければ、「丸い四角はない」が無意味となるペガサスとは異なりそれ自体で矛盾してる存在者である丸い四角は、現実化されていない可能者としても認めることができない。つまり、ワイマンのように様相概念の導入すると、不可能者の領域をも認めざる得なくなる。こうした不可能者の領域には多くの困難があるように思われる。 だが、ワイマンは、ディレンマのもう一方の角(下記の4)を選んで、「「丸い四角はない」と言うことは無意味である」とすることができ、「丸い四角」は無意味であると彼は言う: 3. “丸い四角”という対象の存在を認める→「丸い四角はない」という文は有意味である 4. “丸い四角”という対象の存在を認めない→「丸い四角はない」という文は無意味である このように矛盾した文は無意味であるとする立場は昔からある。しかし、これは矛盾から結論を導く背理法(正確には“爆発原理([羅]ex falso quodlibet)”か)を疑問視するといった極端な道に至る。
## クワインの解決策 クワインはラッセルの記述理論を使って固有名を述語に還元する。 #### **ラッセルの記述理論** ラッセルは「表示について」で著名な記述理論を提唱した(詳細は別記)。例えば、「『ウェーヴァリー』の著者(the author of Waverley)は詩人である」は次のように分析される: W(x)=xは『ウェーヴァリー』の著者である。 P(x)=xは詩人である。 とする。 - (i) ある『ウェーヴァリー』の著者が存在する。 $\exists xW(x)$ - (ii) 多くとも『ウェーヴァリー』の著者は一人である。$\forall x(W(x)\to \forall y(W(y)\to x=y))$ - (iii) 全ての『ウェーヴァリー』の著者は詩人である。$\forall x(W(x)\to P(x))$ この理論は、記述句を述語と量化子で分析し、これらのまとまりが十分に意味を持ちうることを示した。 #### **記述理論による指示対象の排除** マックスとワイマンは確定記述(句)が指示の機能を持ち、従って、指示対象がなければならないと考えた。その結果、ある種の形而上学的対象を措定したのだった。しかし、ラッセルの理論は、記述を述語に還元することで指示概念の消去可能性を示している。対象を“指示”するという機能は、量化子の束縛変項による“表示”によって行われる。 記述の場合は、あるということを肯定したり否定することにはもはやなんの困難もない。「『ウェーヴァリー』の著者がある」は記述理論で、(i)と(ii)の連言で説明される。これに対して、「『ウェーヴァリー』の著者は次の(i')と(ii')をそれぞれ否定した(~((i)&(ii))で説明される。つまり次の2つの選言として説明される: - (i') 『ウェーヴァリー』の著者は存在しない。 $\neg \exists xW(x)$ - (ii') 二つ以上のものが『ウェーヴァリー』を描いた。$\exists x(W(x)\wedge \exists y(W(y)\wedge x≠y))$ この選言は偽だが有意味である。また、それは、『ウェーヴァリー』の著者を名指す表現を含んでいない。「丸い四角はない」という矛盾した記述を含む文も同様の仕方で分析される。そして、マックスやワイマンが行ったような存在を想定しなくてもすむのである。この分析によって非存在を含む確定記述の文の問題は解決する。 #### **文脈定義を固有名に適用** 確定記述の文の場合は、プラトンの髭を剃り落とすことに成功したが、「ペガサス」などの固有名の場合はどうか。クワインは、固有名を述語に変換することで文脈定義を適用できるようにする。例えば、「ペガサス」だったら「ベレロフォンが捕まえた翼を持った馬」などの確定記述に書き換えてもいいし、確定記述が見つからなかったら、“ペガサスる(pegasize)”や“ペガサスである(is-Pegasus)”などのように述語で表現するのである。これによって、上記と全く同様にラッセルの理論を適用し、直接指示の対象を措定せずにすむのである。つまり、丸い四角やペガサスが“ない”と言う時、我々はそれらの存在論にコミットしなくてもよいのである。
## 述語がもつ普遍者の存在論 上記の議論によって、固有名における存在論的コミットメントは排除された。次にクワインは、属性、関係、クラス、数、関数といった論理カテゴリーに存在者を措定する必要があるのか考察する。マックスはそうした(イデア的・普遍的)存在者があると考える。属性(赤さ)について、彼は次のように言う:
赤い家、赤いバラ、赤い夕陽がある。ここまでは哲学以前の常識である。そうすると、こうした家、バラ、夕日は、なにか共通のものを持っている。そして、この共通のものが、赤の属性ということで私が意味するものにほかならない。 要引用箇所マックスは、「赤い家、バラ、夕日がある」以上に「属性がある」ことは明白でトリビアルなことなのである。なぜならば、ある人がある言明の解釈を行なう際に、この判断はその人がもつ“概念図式([英]conceptual scheme)”に基づいている。そして、概念図式は彼のもつ存在論(変項の及ぶ範囲)に基づいている。従って、その人にとって存在論的な言明は自明とも言えるようなトリビアルなことだからだ。 マックスの「属性がある」という存在論的言明も彼の持つ存在論から発せられたものであり、そのため、明白でトリビアルなことなのだ。${x\mid xは赤い}\subseteq マックスのDomain$。 しかし - マックスとは別の人の概念図式からすれば、マックスが当然とする存在論的言明が偽と判断される場合もあろう。 従って、マックスの存在論と概念図式からしたら「赤さ」の存在論がいかに明白だとしても、それは相対的なものであり実際の説得力をもっているわけではない。 - 加えて、普遍者の存在論を主張するためにそれを名前(「赤」という名前)と見なすという方法があるだろうが、上記において名前は既に述語に還元されており、この手段は使えない。 ## 意味の存在論 マックスは次に意味の存在論を主張する。彼によると、意味と指示の区別があり、かつ、述語が属性の名前でないとしても、それでも語は「意味を持つ」ということは明らかである。こうした意味は、それが指示されようがされまいが普遍的なものである。そして、この中に先に見た属性と呼ばれるものがあるのかもしれない。 これに対するクワインの応答は、「意味なるもの」を排除してしまうというものだ。マックスは意味を「持たれるもの」(抽象的な対象)として考えるのに対して、クワインはそのように物化して考えない。そのため、マックスが言うような「持たられるような意味なるもの」を排除したからといって、語や言明が有意味であることを否定するわけではないのだ。そのため、マックスの意味なるものの排除はなんの痛みももたらさないという。 #### 有意味性は有意と同義に還元できる ではクワインの意味はどのように説明するか。彼はそれを「有意」(significant)(意味の物化を避けるために有意味とは区別した語を使う)と「同義性」から説明する。ある言明に意味を与えるということは同義な表現を与えるということである。有意と同義という語に対する厳密な説明は他の論文で行われる。 --- ## 注
- *1. ワイマンのモデルはマイノングだと考えられている。しかし、プリースト(『存在しないものに向かって』)によると、彼はマイノングよりもマイノングに影響を受けていた頃のラッセル(1903)に近いという。
First posted 2008/10/08
Last updated 2012/03/21
Last updated 2012/03/21