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# クワイン「経験主義の二つのドグマ」#1 分析と総合というドグマ ## クワインによる批判 ウィーン学団の論理実証主義は多くの批判を受けたが、中でも重要なのは`クワイン(Willard van Orman Quine, 1908-2000)`の「経験主義のふたつのドグマ」(Two Dogmas of Empiricism, 1951)である。この論文は単に論理実証主義を批判するだけではなく、それが前提としている経験主義の伝統的な前提を信用するに足らないドグマであるとし、現代哲学に転換をもたらした現代哲学における最重要論文の一つに挙げられる。この論文はそのタイトルのとおり、経験主義の根本における二つのドグマを示した。 1. 分析的判断と総合的判断の区別。 2. 経験主義の還元主義。 クワインは分析性と総合性の厳密な区別による二分法(二元論)には循環があり成立しないドグマであると指摘した。そして次に、この区別の曖昧性は、経験命題と規約による分析命題を個別に取り出すことの困難さにまで及ぶ。それは個々の命題に対し検証を行うことが不可能であることを示した。すなわち、観測と科学的言明が一対一で対応しておらず、科学は「自然の鏡」ではないことを指摘した。その上で、クワインは科学理論はそれがひとつの全体として成り立っていることを主張する。そして、ここの主張はあらゆる理論の改訂可能性を内包し、その改訂可能な理論にはアプリオリな認識も含まれる。このように、最終的に認識論における伝統的な基盤であるアプリオリな知識に対し懐疑の目を向けた。## 一つ目のドグマ(分析判断と総合判断の区別というドグマ) ウィーン学団は総合判断と分析判断というふたつの判断を採用し、このふたつが明確に異なるものであるとした。総合判断は経験によってアポステリオリに判断されるものであり、分析判断は語の意味からアプリオリに判断されるものである。分析的な判断がおよぶ命題はふたつある: #### **論理的に真である分析命題**
すべての結婚していないものは、結婚していない。この命題は恒真命題という論理的真理であり、クワインもこれは問題ないものとして扱う。 #### **表現の同義性を前提とした分析命題** 次のような命題も伝統的に分析命題とされる:
すべての独身者は、結婚していない。この命題における主語には述語の意味が含まれている。つまり、「独身者」(bachelor)という表現は、「結婚していないもの」と”同義”である。そのため、置き換えことが可能で、交換すると「結婚していないものは、結婚していない」となり論理的に真となる。このように、この二つ目の分析的真理は、ふたつの語の(認知的)同義性を前提としている。そのためクワインは同義性について詳しく考察する。 ## 同義性について 定義による同義性と交換可能性による同義性。 #### **「定義」によって同義である** 「AとBが同義であるとは、AがBによって定義づけされるときである」。例えば、「独身者は結婚していないもの」と定義される場合、両者は同義である。しかし、通常、AでBを定義するということは、その定義の正確さが問題となるのであって、AがBと同義であるということはすでに前提とされている。例えば、辞書の編集者は、独身者を結婚していないもの、と定義する際、対象の語がもともと定義語と同義であったからそう定義するのである。そのため、定義によって同義性を与えると循環論法となってしまう。 #### 「交換可能性」によって同義である 「AとBが同義であるとは、AとBが真理値を変えずに交換可能なときである」。この双方の真理値を変えずに交換可能であることを`相互交換可能性」([英]interchangeability、[羅]salva veritate)`という。つまり、二つの語が交換可能であれば必ず二つは同義である。また、詩的や心理的効果の違いや、文字数などの違いは無視され、認知的同義性に絞られる。しかし、問題は、この交換可能性は認知的同義性を保障するかどうかである。この交換可能性による特徴づけは、言語の種類によって大きく異なるという欠点を持つ。例えば、「外延的言語」の場合にそれの不充分さが表れる。外延的言語とは、その言語の真理値がそれを構成する要素の外延によって決められる言語である。しかし、例えば、「心臓を有する動物」と「腎臓を有する動物」という二つの語は同じ外延を”偶然的”に共有する(医学的に心臓を持つ動物は必然的に腎臓をもちその限りであるため、同じ対象について真である)。そのため、ふたつは交換可能であるが、このふたつの述語の意味は相対的で異なっており、同義ではない。 同義ではないものが、偶然的な外延の一致によって交換可能であるとすると、意味によって真である分析的命題と経験によって真である総合判断の区別がぼやけてしまう。そこで、「必然的に」という副詞を導入した言語を想定することによって解決する。
心臓を有する動物は、必然的に、腎臓を有する動物である。この命題において、二つの語の外延は一致しているが、このような動物が必然的であるという確証はないため真ではない(心臓を持ち、腎臓を持たない動物を想定することは可能)。そのため、「必然的に」という副詞を内包する言語においては「心臓を有する動物」と「腎臓を有する動物」は交換不可能である。 このように、副詞を導入することによって交換可能性と同義性が保障されそれによって分析性が特徴付けられる。しかし、この「必然的に」という副詞の導入が分析性の意味を成すと知っているということは、すでに分析的という意味が分かっているということである。分析性を特徴付けるために同義性を求めたのに、その同義性を特徴付けるのに分析性を必要としたのでは循環論法におちいる。ここにもまた、循環があるため分析性を説明することはできない。 ## 人口言語と意味論的規則(Semantical Rules) 上のような困難は、曖昧性を多く持つ日常言語によって分析性を特徴付けようとしたからである。そのためカルナップは、こうした分析性の定義づけ特徴づけは、「意味論的規則」を備えた人口言語を導入してなされるべきであるとする。意味論的規則を特定し分析性の概念を定義する。しかし、このカルナップの分析性は、分析性を定義し一般化するのではなく、個々の人工言語それぞれにおいて分析性を定義する(規約を与える)だけの話である。例えば、「独身者は結婚していない」という命題が分析的なのは。「独身は結婚していないもの」ということが個別の規約によって決まっているからである。 しかし、そのため、「言語Lにおいて命題Sは分析的である」と規約によって定め、他方、「言語Hにおいて命題Sは分析的である」と定めたとしても、言語Lの命題Sと言語Hの命題Sの間になんら連関も共通性も見出すことはできない(そそれぞれの言語に規約をもうけるため、それぞれは”相対的”なためである)。なぜなら、もし、双方の言語に共通性があるとするならば、分析的というものの”一般的な”概念が規約を超えて確立されていることに他ならない。もしくは、相対化を逃れる形で意味論的規則を特徴付けることができなければならない。しかし、それは「意味による真理」がすでに理解(本質的理解)されていることを前提とする。 この本質的理解の否定、客観的対象としての意味の否定という意味に対する懐疑論は、翻訳の不確定性という結果をもたらす。
## クワインに対する反論(ソクラテス的誤謬) クワインはソクラテスが要求することと同じことを要求している。つまり、「Xとは何か」という質問に対し、「Xの個別の例」を認めず、「Xの本質」を回答として要求するのである。これはつまり、「Xの明示的定義」を要求していることである。しかし、明示的定義(形式的定義)を与えられないからといってXを使用してはならないということはない。これは`ギーチ(Peter Thomas Geach、1916-2013)`によると`ソクラテス的誤謬([英]Socratic fallacy)`である(飯田、p264)。ある概念Xを理解している証拠と考えることのできる要因は三つある:
- Xを適用できる事例をいくつか上げることができる
- Xを他の概念との連関で正しく用いることができる
- 出会ったことの無いケースに対しても次のいずれかの適用の仕方で判断することができる:
- a. Xが問題なく適用される
- b. Xが問題なく適用されない
- c. Xが適用できるかどうかが問題となる
First posted 2009/03/02
Last updated 2011/11/21
Last updated 2011/11/21