# アリストテレスの形而上学
## イデア批判
プラトンは、超越的な存在であるイデアが我々の感覚する世界とはべつに真実として存在すると考え自らの哲学を構成した。アリストテレスは最初に経験主義の立場からプラトンのイデア論を批判した。
- もし、ある「ソクラテスは人間である」という命題でイデアを見てみるならば、ソクラテスという主語は個物で人間という述語がイデアとなる。ということは述語がそれだけで普遍的に独立して存在するということになる。これは不合理である。
- もし、述語が独立して存在すると考えるならば、「非人間」や「非存在」といった述語に対しても対応するイデアが存在することになる。これもまた不合理である
- 人工物にもそれに対応するイデアが存在しなければならない
- もし、個物としての人間と、イデアの人間が存在するならば、さらに、その間にも類縁関係が存在することになり「第三の人間」が存在しなければならなくなる。よって、無限のイデアが存在すると想定しなければならなくなる(`第三の人間の議論([英]the third man argument)`)。
- イデアが述語だとすると、一人の人間に無数のイデアが想定されることになる「人間」「動物」「二足」など。
- プラトンはイデアと個物の関係を語っていない。
## アリストテレス形而上学の基礎
### 形相と質料([希]eidos, hyle)
プラトンのイデア論を批判的に検討することより、イデアといった超越存在が個物から離れて存在するのは不合理であるとアリストテレスは結論する。
そして、アリストテレスは師プラトンとは反対に今我々が経験しこの現実にある具体的なものこそ判断の基準であるとしそこから自身の哲学を構築した。
アリストテレスは現在の存在は流れ去るが、それぞれが持つ`本質([希]to ti en einai, [英]the what it was to be)`そのものは永遠で不変であるという点はプラトンに同調したが、彼はプラトンがイデアと称したものは、個物の外側に超越的に存在するのではなく個物に内在すると考えた。
そして、彼はプラトンのイデア論が「述語主義」であるのに対し、「主語主義」であり、つまり、もっと具体的な主語である`実体・基体([希]ousia)`を最初に求めた。
アリストテレスによると一番具体的な実体である第一実体は形相と質料が統合された`個物([希]tode ti)`であり、その個物の本質を形成する形相を第二実体と呼ぶ。
家で例えるならば、家を個物だとすると、それの設計図が形相で、木材などの材料が質料である。そして、アリストテレスは家が材料と設計図によって初めて成立するように、形相と質料も単独では成立せず、個物に統合されて初めて「実体」となる。
### 第一実体: 個物(tode ti)
形相も質料も単独で存在できないが、それぞれが結合することによって、個物として存在する。個物とは「これ」と名指せるもの。独立して存在するもの。主語にしかならず、他のものの述語にならないもの(例、ソクラテス、「この」コップ、など)。そのため個物は独立して存在する唯一の存在であり、よってアリストテレスはそれを第一実体とする。
### 第二実体: 形相([希]eidos, [英]Form), 種(species)
形相(本質)は各個物の普遍的な特徴である。
例えば、馬の形や走りが速いという特徴であったり、蜘蛛が巣をつくることであったり、鶏が卵を産むことである。
また、これは「人間」などの述語になりうるもので、独立して存在するものではなく(プラトンはそう考えたが)、二次的な意味での実体であり、第一実体に依存している。
形相により事物の「本質」が与えられる(形相因)。(プラトンに反発して、彼は具体的な実体のみを求めたが、結局はイデア論的な観念である第二実体に到る。)
ちなみに、eidosは伝統的に形相と訳されるが、古代ギリシャ語ではイデア(idea)と異語同義である。プラトンのイデアとの根本的な違いは本質(イデア)がある対象に外在的か内在的かの違いである。
### 実体と付帯性
アリストテレスにとっての実体は霊魂が属するものに限られるため、いくら主語にできても人工物や鉱物は自然本性的な形相をもたないため、第一実体ではない。
人工物は例えば、この本は私の「持ち物」である、このコーヒーは「飲まれるもの」である、といったように述語で解釈された。
生物以外のものは実体に帰属するか、もしくは`付帯する([希]symbebekos)`(=偶然的に生じる)ものと考えた。
つまり、第一実体と第二実体を隔てるのは`霊魂(psyche)`に依存する。
このように、アリストテレスは霊魂実体論を採用する(彼の著書はアラブの文化を通って西洋に伝わったため、偏見が混入している可能性もある)。
### カテゴリー論(kategoria)
命題とは、主語と述語で形成されるが、主語は特定の個物を指示するだけであるため、実質的な命題の意義は、様々な存在規定をあらわし固有性と付帯性に分類される述語(第二実体)で明確化、決定される。よって、知識の実質は述語にあるといえる。
それをまとめたのがカテゴリー論(範疇論)である。
カテゴリーは述語付けを意味しており、述語付けに異なったカテゴリーが現れる。
||||
|:--|:--|:--|
|(1)実体|(5)場所|(9)能動|
|(2)量|(6)時|(10)受動|
|(3)性質|(7)姿勢||
|(4)関係|(8)所持||
述語はこの10個のうちどれかに帰属する。つまり、基体(第一実体・主語)を述べる述語は、この基体が「何であるか」(1)や「どれほどあるか」(2)などの付帯的なありかたでもって、なんらかのカテゴリーに分類され存在の仕方を表現できる。そして、これが中世ヨーロッパに受け継がれ、近代科学を形成する土壌となった。
## 目的論的世界観
### 四原因説(形相因、資料因、作用因、目的因)
アリストテレスは自然界の因果関係についても特異な考えを提示している。まず家を例に取ってみると、立てられるべき家の構造ないし形体が「形相因」、木材が「資料因」、労働力が「作用因(動力因・始動因)」そして、住むという目的が`目的因([英]telelogy)`ということになる。
そして、彼はこの`四原因`を自然過程にも当てはめて考えた。
各生物の目的は、それぞれの生物としての完成(完全現実態)である。
彼のこの世界観はプラトンの世界観と比較すると、
プラトンの二元論的世界観では現実と理想が並行的であるのに対して、アリストテレスの目的論的世界観によると、あらゆるものはある始まりから目的(終点)を目指して運動しているのであるため、直線的な世界観と言えよう。
目的因はしばし批判の対象となる。つまり、雨が降るのは草木が生長する“為”であり、人間や動物が飢えない“為”に食料として植物が存在する、といった具合に自然に対しても目的因を絡ませたからである。
この目的因によって自然現象は、アリストテレスによって生き物並みに使命か目論見があるように割り振られたようにみえる。
これは偏狭な人間中心主義と批判される場合があるが、しかし、彼のこの主張は政治学の一部で語られているのみである。
### 可能態、現実態、完全現実態
アリストテレスは世の中のあらゆるものをまず「物質」と「生物」の2つに分けた。自身を変化させる可能性を持たないものが「物質」で、変化する可能性を持つものが「生物」である。(そして動物はこのほかに、周りの環境を感じ取り、自然の中を動き回る能力を持っている。人間はさらに考える能力、つまり感覚で捉えたことを分類する能力(理性)も持っている。)
では物質と生物を隔てる`運動([希]kinesis)`ないしは変化とはなにか。その前に、可能態と現実態という用語を紹介しておく。
- `可能態([希]dynamis)`とはいまだ形相が潜在的であって、その可能性を発揮していない状態を言い、
- `現実態([希]energeia)`とは形相が自らを発揮している段階を言う。
現実態や可能態といった概念は、「事物は形相と質料の結合体」であるという自身の形而上学によって基礎づけられている。
そして、運動とは`可能的なものの可能的である限りにおける現実態である`(もしくは「変化しうるものの変化しうる限りにおける現実態」)と説明される。
例えば、事物における運動を種と木で見てみる。植物の種は潜在的に木であるが、その形相はまだ発現していない可能態である。しかし、自己を発揮するにしたがって、芽となり、そして木という現実態になる。つまり、事物における運動とは、質料における形相の実現の程度である。
このように、アリストテレスの運動とは、(種→芽→木)といったふうに可能性が実現するプロセス(→)を示す。
つまり、運動(→)には明確な目的(種の場合は成木)があって、その目的を自己の完成とした。
この自己の目的が完全に実現された状態を`完全現実態([希]entelecheia)`と呼ぶ。
## 神学
### 第一起動者・不動の動者
あらゆる働きが求めているのは、完全現実態であり、その極みには完全なもの、つまり神的なものがある。
アリストテレスが考える世界には終わりも始まりもなく、一定の質料と形相が不変に存在し永遠に続くとされる。しかし、質料や形相がすでに在ったものだとしても運動変化を引き起こす`原因(aitia)`、世界のスイッチを押すものがいなければならない。そして、第一の原因は`第一起動者`もしくは`不動の動者(to kinoun akineton)`である神が、世界を動かした。アリストテレスによると、神は一番外側にある天体を最初にスタートさせ、順じて地上(月下世界)と自然界を開始した。
また神自体は決して動かされることはなく、可能態を含まない純粋な現実態である。それゆえ神は全ての点で完全で永遠な存在である。また、神は完全な自己同一性をもち、純粋な知性そのものであるため、その認識ないような自己の完全な存在そのもの以外にない。神は「思惟の思惟」である。
蛮勇はこの超越的な究極目的をそれぞれの仕方で追求する中で、この`一(to hen)`なる目的を原理として成立する世界の秩序におのずから参与し、適合するのである。[1, p.112]
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## 参考文献
1.
アリストテレス (著)・出隆(翻訳)、『形而上学〈上〉』、岩波書店、1959
1.
リーゼンフーバー, K. (著)・村井則夫(翻訳)、『西洋古代・中世哲学史』、平凡社、2000
First posted 2008/10/01
Last updated 2011/02/28