# 古代哲学史#5 ヘレニズムの哲学
(\*1)
## ヘレニズム(前323-前31)
アレクサンドロス3世(前356-前323)通称、`アレクサンドロス大王(Aléxandros ho
Mégas)`の東方遠征と諸外国の征服の結果、エジプトとインドにいたる全オリエントはギリシャ文化と結びつけられギリシャ文化とギリシャ語が主導権を握った。そして、この様々な文化の融合によって、人々は`ポリス(地方都市国家)`からより大きな`コスモポリス(国際都市国家)`に属しているという意識が強くなった。
そして、その多様な価値の混合(現代風に言えば、グローバリズム)により、
民衆の間で大きな価値観の変革を迫られた時代である。
この、アレクサンドロス大王の在位(前336年)の治世からプトレマイオス朝エジプトが滅亡するまでの約300年間を、一般に、`ヘレニズム期(Hellenism)`と呼ぶ[1]。ヘレニズムという混乱の時代背景において、この時代の哲学は前時代の哲学を土台としつつ「新しい時代にどう生きるか」という通俗的な問いに答えるべく倫理学的な色合いが濃くなった。
この人々の価値観の変化はこの時代の幸福を意味する言葉の変化にも見られる。つまり、それ以前の時代では幸福はギリシャ語でエウダイモニア(善く生きる)やエウプラッテイン(善く行動する)で表現されるが、ヘレニズムにおいてはエウプラッテインの代わりに`アタラクシア(心の平穏)`、`アパテイア(不動心)`といった受動的な幸福観が台頭するようになる。これは激動の時代をなんとか耐えんとする大衆の心理が反映されているようである[10,
p178]。
---
## 1 エピクロス派
これは`エピクロス(Epikouros,
前341-前270)`が、デモクリトスの影響のもとに創始した立場であり、`最高の善は快楽で、最大の悪は苦痛`だとする快楽主義を標榜した。この学派の教説における中心的な次の4つのテーゼは、`四療法`と呼ばれる[10, p63]:
1. 神(アトム)はそのものが煩わされることも、他のものを煩わせることもない。
2. 死はわれわれにとって何物でもない。
3. 快楽の大きさの限度は、苦痛のすべてが取り除かれることである。
4. 肉体の中では、大きな苦痛は長続きしない。
四療法という名称にも見られるように、この立場は心身の健康を重視した。ただし、それを宗教で
はなく唯物論から基礎づけた。唯物論、経験主義。
唯物論と死
この立場は、デモクリトスの唯物論を理論的基礎に据えており、そのため、死後の世界を認めない。つまり、死後、人はアトムとケノンに分解され後には何も残らないである。これにより、この立場は死の恐怖を否定した。これがテーゼ2の言わんとする事であり、また、これは`私たちが存在する間、死は存在しないし、死が現れるや私たちは存在しない`とも表現される。そして、このような唯物論から、この立場は死後の世界ではなく、現在を重視し快楽主義へと向かった(ただし、彼らの形而上学と快楽主義には必然的な繋がりはない[5,
p32])。
欲望を避ける快楽主義
この立場の快楽とはキュレネ派のような放埓で瞬間的な''欲望の充足''ではなく、''苦痛が除去された状態''である。そして、この立場は欲望を大きく次の二つに区別する:
- 必要な欲望:生存や心身の健康のための欲望。これを満たすのは容易である。
- 空しい欲望:健康に必要とされる以上の欲望。満たすのが困難で空虚な妄想に囚われるもの
(\*2)
。
後者の欲望は、快楽よりもさらなる苦痛をもたらす。そのため、彼らは禁欲によって空しい欲望を避け、これから開放された静的な快楽、`平静な心境(ataraxia)`、を求めた。この点において、快楽を区別していなかったキュレネ派と大きく異なり、また、あらゆる快楽を禁止するキュニコス派とも一線を画すのである。
自然学
基本的にデモクリトスの原子論を引き継いでいるが、元の原子論と異なる点は、この立場は原子の運行に`逸れ(clinamen)`という考えを導入した点である。これは原子論から帰結する機械論的決定論に対して、偶然の契機を導入するためであり、それによって、自由意志を擁護した。
---
## 2 ストア派
ヘラクレイトス、キュニコス派、メガラ派などの影響の元、`ゼノン(前335頃-前263頃)`が創始した。ストアという名称はゼノンが柱廊(ストア)に人を集めたことに由来する。そして、第二代学頭`クレアンテス(Kleantes,
前331-232)`、第三代学頭`クリュシッポス(Khrysippos, 前280-207頃)`らがこの思想を継いだ。ストア派は学問を論理学、自然学、倫理学の大きく3つ分けた。
さらにこの区別は次のように細分化される。この別々の領域に共通するのは理性(ロゴス)の概念であった。
- 論理学
- 自然学
- 自然科学(受動的な自然学)
- 神学(能動的な自然学)
- 倫理学
ストア派は、物体主義を標榜していた。プラトンのイデアやアリストテレスの能動知性などのアプリオリな認識能力を否定し、それ自体は真っ白なキャンパスのように空虚なものであるとした。よって、全ての情報は外的物質の感覚的認識に由来し、感覚知を集積することで知性が形成されると考えた。しかし、ストア派は客観的な真理基準というものを放棄したのではない。彼らの真理基準は、把握可能な表象であり実在の表象を保障する言語に他ならなかった(原初の分析哲学のような思想)。物体主義、汎神論。
### 論理学
ストア派の`論理学(Logika)`は、今日の論理学よりも広い意味で用いられ、認識論などをも含んで
いる。また、狭義の論理学、すなわち、今日の意味での(形式)論理学は、命題論理として発展させた。ここでは、狭義の論理学は扱わず認識論を概観する。
`ストアのカテゴリー`:
ストア学派の世界観は、基本的に物質主義で世界の基本は、
- **(ア)物質**(基体hypokeimenon、実体ousia)であり、アリストテレスの形相やプラトンのイデアなどの形而上学的な対象ではない。そして、これらの物質の「あれ」、「これ」などと指示することを可能にするのは、それぞれが
- **(イ)性質**を有していなければならない。さらに、これらの性質をもち他と区別される物質はそれ自体の
- **(ウ)様態**と、世界との外的な関係の内にある
- **(エ)関係的様態**をともなっている。
これら(ア)から(エ)は、ストアのカテゴリーと呼ばれ、パルメニデスに見られるようなギリシャ哲学の根幹にある不生・不動・不滅・不分割の世界における変化を説明するものである。さらに、これらのカテゴリーは、それぞれ(ア)は冠詞/指示子、(イ)は名詞、(ウ)は動詞、(エ)は接続詞という言語表現と対応しているとして、カテゴリーの区別を言語の区別に還元したのである。
`存立(hyparchein)`:
ストアの存在の規定によると、存在するものは物質という「時空のうちに存在するもの」であった。しかし、この時空は存在なのであろうか。そうだとする、時空も時空に包括されていなければならず、無限後退に陥る。この問題に対処するために彼らは「空間」、「時間」、「空虚」、「語られうるもの/レクトン」という認識論の基本概念に対して、存立するという特別な存在形態を与えた[10,
p119]。そして、存在対象と存立対象の上位概念として「何か(ti)」を位置づけた。まとめると次のようになる
(\*3)。
- 何か(\*4)
- 存在するもの/物質的なもの(例: 基体、性質、様態、関係的様態)
- 存立対象/非物質的なもの(例: 空間、時間、空虚、レクトン)
- 何でもない(例: 概念などの普遍者)
`レクトン(lecton)`:
ストア派の出発点は物質であり、例えばテーブルが世界に存在するためには時間、空間、空虚と
いう枠組み、存立対象が必要である。さらに、彼らによると「言明」もまた存在しており、そして、これもテーブルなどと同様に意味(フレーゲの意義,
Sinn)を持つ。そして、この言明の意義を成り立たせているのがレクトン、つまり、命題である(命題が言語行為を伴って言明となり、これが空気の振動以上のもの、つまり、意義という存在を有している)。
`表象(phantasia)`:
レクトンの前段階なのが表象である。アリストテレスが表象を、「直接経験に代わって志向性
を受け止めその対象を思考可能にするもの」と考えたのに対して、ストア派は表象をいわば「世界を自動的に対象化」する能力として広範な意味合いで捉えていた。そして、ゼノンによると、把握可能な表象(phantasiakataleptike)(実在対象の直接知覚による認識とそれと推論によって得られる知識のことだと解釈できる)とそれをもたらした物質は`因果的に実在的な結びつき`(セクストス・エンペイリコス:
SVF, II,
54)があるとし、表象からそれを与えた対象の真偽の判断を行えるとした。これに対して、懐疑論は、そのような判断は不可能であるため、表象への判断は`保留(epoche)`するのが望ましいとした。そして、議論がその後も展開された。
### 自然学
ストア派の自然観は、唯物論的で全ては物質に還元可能である。魂も`息(pneuma)`といった質
料(ピュシス)の異なる側面であるとした。彼らの唯物論的自然観は無機質で機械論的なものではなく、能動的で生き生きとしたものである。そして、彼らは、ヘラクレイトスに習ってこの唯物論的世界を「火」と呼んだ
(\*5)。つまり、この世界の全ては`原初の火(pyr
technikon)`に由来し、これが時間の経過と因果の連鎖によって世界は成立したと考えた。この火は、精神であり理性(ロゴス)そのものであり、いわば神そのものである(全てに浸透している汎神論的な神
(\*6))。そして、人間の内にも神・ロゴスは内在しており、これを`種子的ロゴス(spermatikos
logos)`という。つまり、人は、自己のうちにあらゆる法則と秩序を規定する神を持つ。神あるい火は、生成と消滅の連鎖の果てにそれ自身`炎化(ekpyrosis)`し、また自らのうちに帰還するという永劫回帰の運命にあるという
(\*7)。そして、真理基準である論理はこの内面的ロゴスに由来する。
### 倫理学
人間もまたロゴスという根源的法則に支配され、また自らのうちに普遍的ロゴスを持つとした。`自然に従って生きる(homologoumenos tei physei
zen)`というのがストア派の道徳原理であるが、この自然が意味するのは普遍的で神的なロゴスである。人間はこのロゴスが内在しており認識できる(?)、そして、ソクラテスの主知主義(悪を知りつつそれをなす人はいない)を受け継ぎ[10,
p158]、このロゴスに従うことが徳であり善であり、また従わないことが不徳であり悪であるとした(また、人間が作る法は極めて不完全なものだと考えた)。
ストア派は魂が暴走した状態が`感情(pathos)`であるとし、これをネガティブに捉えた。そして、この感情を抑制した状態を、ロゴスと一致した状態として`不動心(apatheia)`と呼んだ。そして、これがストア派における人間の理想的な状態であった。また、この立場が前提する決定論とも相まって、不動心とは、あらゆる不幸や苦痛をも必然として受け入れた状態であるとし、そしてこの状態に到達した人を賢者と呼んだ。しかし、これは非人間的であるとして批判される。
彼らは、徳との一致を善、不一致を悪とし、それ以外の全て(健康・病気、美・悪、快・苦etc)は、彼らにとっては`無関係なもの/どうでもいいもの(adiaphora)`である
(\*8)
。徳の所有こそ最上の道徳原理である。これはキュニコス派と近いが、ストア派の人々はキュニコス派とは違い同時代の文化を受け入れ、人間の社会を論じ、政治に関心を寄せた。加えて、彼らが目指すのは徳であって幸
福ではない。ここにエピクロス派との明らかな相違点がある。また、エピクロス派は無神論である
が、ストア派は有神論であるため、後に一般的な人気を獲得し傑出した人物を多数輩出した。
代表的なストア派の人物/政治家
- `エピクテトス(Epiktetos, 50年頃-135年頃)`: 不動心(アパテイア)を得るには、心像(パンタシア)を正しく用いると主張。著書の『語録』、『提要』は一般に広く読まれストア派を普及させた。
- `アントニヌス(Marcus Aurelius, 121年-180年)`: 第十六代ローマ皇帝。`生きるとは戦いなり`をモットーとした哲人皇帝。
- `キケロ(Marcus Tullius Cicero, 前106年-前43)`: `人間中心主義(ヒューマニズム)`という概念を提唱。カエサル・ポンペイウス・クラッススの第一回三頭政治に反対した。
- `セネカ(Lucius Annaeus Seneca, 前1年頃-65年)`:
人間は人間にとって神聖だと説き`人文主義`のスローガンになった。ネロの教師にして為政のブレーンであったが、後にネロの帝位剥奪の陰謀に加担したとされ自殺を命じられた。
---
## 3 懐疑学派
### ピュロン主義(古懐疑派)
懐疑派は`ピュロン(Pyrrhon, 前365頃-前270頃)`が創始し、`ティモン(Timon, 前320頃-前230
頃)`
(\*9)や`セクストス・エンペイリコス(Sextus Empiricus,
2世紀-3世紀)`が伝える。ちなみにピュロンはアレクサンダー大王の東方遠征に参加しており、東洋の思想に触れている。この東洋思想が彼の懐疑論に影響を与えたと考えられている
(\*10)
。
彼らは上で見たようなアタラクシアやアパテイアといった心の平安が幸福であるという考えを同じく採用するが、ストア派やエピクロス派がそれらの主張を自然学で根拠付けたのに対し、懐疑論派は、どのような知識も反論可能であるし、そうであるならば真理とは言いがたい、と知に対する懐疑的、諦観的な見かたをした。また、それゆえ、心の平安が得られる唯一の道は真理の認識を断念する`判断停止(epoche)`にあるとした。
### 新アカデメイア派
アカデメイアの学頭`アルケシラオス(Arkesilaos,
前315年頃-前240年頃)`はプラトン哲学に懐疑論を導入した。これにより懐疑論は意義深いものとなった。彼はソクラテスのように著作を残さなかったがセクストスの言及によると、ある論題に対して賛否両方の議論を行った。そして、結局はそれらのどちらも説得力を有しており、そのどちらかに決定することができないという結論を目指した。それによって、あらゆる判断は停止(epoche)すべきであるとした。後のセクストスもこの懐疑論の方法論を受け継いている[10,
p236]。彼の立場は、プラトン前期の対話篇
(\*11)
におけるソクラテスの思想を受け継いたものであり、プラトン哲学からの影響は薄い[5]。ちなみに、アルケシラオスのようにソクラテスを懐疑論者と解釈するか、(ストア派がそうしたようにまた現代で一般的に受け入れられているように、)彼を無知から新たな認識を得ようと努力している者、と解釈するかは今なお議論されている。
ストア派との論争
ストアは、把握的表象(つまり、直接知覚による世界認識)を知識の基盤としていた。これに対して、アルケシラオスは、そのような表象の把握は不可能であるとした。それは、直接知覚であっても誤りうるし、把握の承認は命題を介した間接的なものであるからだ。ストア派の把握的表象の見解は次である:
- (i) 存在するものに由来する([10, p219]では、''存立''を使っている)。
- (ii) 存在するものその通りに刻印、押印される。
- (iii) 存在しないものからは生じえないような表象である。
**(ii)をめぐる議論**アカデメイア派は把握的表象を狂人などのものを含めているため違うものでも全く同じ把握的表象をもたらすとかんがえる。しかし、これに対して、ストア派は把握的表象を技術的な仕方、現代で言う科学的検証にまで厳密化して捉える。これにより、違うもので全く同じ把握的表象をもたらすものはあり得ないと反論した。
**(iii)をめぐる議論**ストア派の学頭`クリュシッポス(Chrysippus,
前280年頃-前207年頃)`は、これを擁護するが、アカデメイア派のカルネアデスは、存在しないものからも把握的表象(直接知覚)と同様の表象を得ることが可能である(例えば、デカルトが言うような夢や狂人の判断)。そのため、この立場は(iii)を否定する。
行為不可能論
アカデメイア派に対する、ストア派の別の反論は、判断保留を行ったら行為ができなくなる、というものである。これに対して、理性に依る判断がなくても、表象とそれに対する衝動だけで行為は成り立つ、とする。しかし、この行為は動物的なものに限定されるため、ストア派は納得しないであろう。別の反論としては、`理に適ったもの`(幸福への道、ストア派が言う徳の順守)に従うことで、判断保留しつつも行為は可能である。しかし、ストア派にとって`理に適ったもの`(また、これに根拠付けられた正当行為)は真偽がきっちりきまったものではなく、言わば80パーセント真実であるなど蓋然的ものである。そのため、まったく理に適ったもというはあり得ないのである。
### 新アカデメイア派のその後
- `カルネアデス(Karneades, 前214年-前129年)`は、アカデメイアの学頭で懐疑論はであるにもかかわらず、ある対象の説得性を論じた。彼も著作はないが弟子のクレイトマコスによると、それは次のような三段階が提示されている:
- 対象それ自体が持つ説得性。
- (1+)逸らされない。(ある対象を取り巻く諸要因との整合性)
- (2+) 十分吟味されている。(対象を把握する条件(距離、大きさ、明瞭さ)の検証)
つまり、彼の議論は、対象の吟味によって対象の確実性(蓋然性)が増す、という立場である
(\*12)。
彼の議論は、懐疑論というよりストア派に近づいていた
(\*13)。
- `ピロン(Philon, 前158年頃-前84頃)`は、アカデメイアの学頭でプラトンの思いなしと知識の区別
と重ねて支持した。
- `アイネシデモス(Ainesidemos, 生没年不詳)`は純粋に懐疑論を受け継ぎ新懐疑論派を興した。
### 新懐疑派(ピュロン派)
ギリシャ哲学が衰退した時代に、`アイネシデモス`と`アグリッパ(Agrippa)`がこの本来の懐疑論を
新懐疑学派として復活させた。そして、ピュロンの言説を補強しアパテイアを得るにはエポケー以外ないとした。また、資料に乏しいため、詳細は不明であるが、彼らは、背理法や無限後退、ドグマ的な仮定、循環論法(など)の指摘による論敵の論駁方法の定式化を行ったという。この3つは`ミュンヒハウゼンのトリレンマ`の前身として`アグリッパのトリレンマ`と現在では知られている。
---
## 4 新プラトン学派(Neo-Platonism)
三世紀ごろから六世紀にわたる古代ギリシャ最後の哲学学派である。`アンモニオス・サッカス(AmmoniusSaccas, 生没年不詳)`と弟子の`プロティノス(Plotinos,
205年頃-270年)`が創始した。この立場は、プラトンの思想を神秘主義的に解釈し、また、新ピュタゴラス学派・新アリストテレス学派・ストア派などの学説も取り入れた。当時のプラトン主義者において共有されていたのは、`多に先立つ一がある`という見解を共有していた。プロティノスもまた、イデア論を公理のように受け入れていた。
プロティヌスと対立していたのは、`グノーシス主義`であり、これは`世界は悪しき神から作られたとする世界観(pessimism)`を採る立場である。これは、`世界は完全なる神によって作られたとする世界観(optimisum)`を採るキリスト教の主流と対立した。
魂について
魂は、感覚世界と知性世界の両方にまたがるものであり、その両方を行き来できる。意識(言語)の根底には知性が広がっているとした。プロティヌスは、人間の無意識的活動を魂で説明し、また、自然世界の変化も魂によって説明しようとした。魂は、万有(世界)の魂と個別的な(人間個人の)魂に分けられる。それぞれには、上下の部分があり、上位の部分は知性に近く、下位の部分は(プロティヌスの階層における)自然に近い。
|純粋な魂|||
|:--|:--|:--|
|万有の魂|-上位の部分||
|下位の部分(自然界)|-個別的魂|-上位の部分|
|下位の部分|||
上位と下位の複合である魂は、(下位部分が)世界を感覚できるし、感覚にイデアを見出し探求する
ことで魂の上位の部分を上昇させることができるとした。
知性とイデア
神秘体験による知性の理解は、通常の推論や言語を介した理解(魂による理解)を超越したものであり、それよりも遥かに明晰で広大(時間を超越したもの)である。知性は常に現実(洞窟の外側)に活動(認識)しているものであるため、イデア(思惟されるもの)と知性(思惟するもの)は常に一致している同一ものである(プラトンではイデアは「対象」であり、知性は「活動」であるため、これらが同一であるというためには、「活動」かつ、「対象」というものを認めなければないのでは?)。また、イデアと知性は完全な実在であり、これらは完全な「生命」でもある。イデアと知性は、同一であり、かつ、`思惟されるもの`、`思惟するもの`という二面性をもつ。しかし、それにはどちらが先に成立したかという前後関係は存在しない。
一者(to hen)
プラトンは現象界とイデア界(英知界)を区別したが、プロティノスはイデア界の更に上の存在を
想定した。それは存在をまったく超越する神である`一者(to
hen)`である。そして、この一者から数々の存在段階が`流出(emanatio,ekrhein)`することによって世界は創造される。一者から遠ざかるにつれ、知性、魂、自然、質料の順に存在の完全性の度が減じる。
- 一者(tohen): 自己充足する完全な存在。
- 知性(nous): 思惟存在。思惟するということは他との区別があるということであるため、完全ではない。しかし、永遠なる存在でこれによりプラトンがイデアとよんだ英知界が成立する。
- 魂(psyche): 知性の具体的なありかた。これ自体はイデア界に属するが下位的存在で、同時に感性界にも関わる。英知界と感性界の仲介者。
- 自然(Physis): 霊魂の観照によって生み出される。イデア界の形相を質料において実現する世界。模倣。
- 質料(hyle): 一者の光がとどかない闇であり。質料は神の絶対否定として非存在・悪である。
一者との結合(ekstasis)
人間は、英知界に属する霊魂とさらに不完全な質量的身体を持つ。そして、人間精神の究極目的
は身体を離れ英知界に帰還し更には一者へと至り`結合/合一`することであるという。まず英知界に生きながら至るには、禁欲し思惟を徹底することによってなされる。そして一者との合一は更に完全な存在である「一」との合一であるため思惟(区別を生み出すもの)すら捨てなければならない。そして、それが成された時、光による充足に満たされるという(瞑想による神秘体験)。
新プラトン主義と古代ギリシャ哲学の終焉
この学派の思想は`プロクロス(Proklos, 410頃-485)`、`ボエティウス(Anicius Manlius Torquatus Severinus Boethius,
480年-524年頃)`らを通して、中世のキリスト教神学、また神秘主義に多大な影響を与えた。しかし、それと同時に、キリスト教と対立したためボエティウスの死後の529年にユスティアヌス帝がアカデメイアの閉鎖を命じた。これが古代ギリシャ哲学の終焉とされる。
---
## 注
---
## 参考文献
1.
Wikipedia. ヘレニズム. (最終アクセス 2013/08/26)
1.
岩崎武雄 (著)、『西洋哲学史』、有斐閣、1975
1.
岡崎文明ほか (著)、『西洋哲学史 理性の運命と可能性』、講談社、1997
1.
加藤信朗 (著)、『ギリシャ哲学史』、東京大学出版会、1996
1.
熊野純彦 (著)、『西洋哲学史 古代から中世へ』、岩波書店、2006
1.
シュヴェーグラー (著)・谷川徹三ほか(翻訳)、『西洋哲学史〈上〉』、岩波文庫、1995
1.
セドレー, D. (著)・内山勝利(翻訳)、『古代ギリシア・ローマの哲学』、京都大学学術出版会、2009
1.
山内勝利 (編集)、『哲学の歴史〈2〉帝国と賢者』、中央公論新社、2007
1.
矢島羊吉 (著)、『空の哲学』、日本放送出版協会、1983
1.
リーゼンフーバー, K. (著)・村井則夫(翻訳)、『西洋古代・中世哲学史』、平凡社、2000
1.
ロング, A. A. (著)・金山弥平(翻訳)、『ヘレニズム哲学-ストア派、エピクロス派、懐疑派』、京都大学学術出版会、2003
First posted 2008/10/08
Last updated 2012/03/21