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非合理主義的傾向#2-3 実存哲学(フランス)

マルセル(Gabriel Marcel, 1889-1973)

マルセルはキルケゴールから影響を受け現代の実存哲学の先駆者とされる。彼はキリスト教徒の哲学者で、その実存哲学も宗教的色彩に彩られている。マルセルは存在の源泉を、主体である我([仏]je)に求め、そして、存在を神秘として、この対象的思考を超えた神秘は実存的に思考しなければならないという。つまり、「我」を問うことによって存在論的神秘([仏]mystere ontologique)にアプローチする。しかし、これは単なる主観主義にとどまるのではなく、「我」は「汝」と出会い交わることによって「我々」という高次のうちで存在という神秘が現れるという。

  • 著作
  • 『形而上学的日記』Journal métaphysique (1927)

サルトル(Jean-Paul Sartre, 1905-1980)

サルトルはフッサールやハイデガーにつよく影響を受けつつ自らの哲学を展開する。彼以前の実存哲学は宗教的傾向が強く、「存在」を超越的・神秘的なものとして捉えていた。しかし、サルトルは、この傾向から一転して自ら無神論的実存哲学を標榜する。彼は存在を無意味なものと規定し、神聖なものから嘔吐を催させるものへと存在の価値を転換する。しかし、存在の価値の否定というニヒリズムから、彼はペシミズムには向かわず「実存主義とはヒューマニズムである」と肯定的に捉える。

即自存在([仏]être-en-soi) 彼は『存在と無』において、現象学的存在論を展開しこれが彼の哲学の基盤となる。それによると、彼はまず存在そのものを「即自存在」と呼ぶ。すなわち、存在はそれがあるところのものである([仏]L'etre est ce qu'il est)。存在は、自己そのものであり、自己において無限に充足している。そのため、いかなるものからも導き出すことができず、つまり必然性に帰すことができない。したがって、即自存在は「不条理」である。サルトルは『存在と無』で不条理に対する不安から逃れるために神に頼るのは「自己欺瞞」であるとし、この意味のない不条理な世界に意味を創造する能力を人間精神の内に見出そうと試みた。

対自存在 即自存在とはマロニエの根であり公園のベンチであるが、我々人間はどうだろう。人間は意識をもつ。そして、サルトルの意識はフッサールのそれを踏襲しており、すなわち、意識とは「なにものかについての意識」(志向性)である。従って、意識をもつ存在は存在について”問うことができる。このような特徴をもつ存在を対自存在([仏]être pour soi)と呼ぶ。この志向性という能動性は、自らで充足する即自存在を否定することが可能である。このような否定作用を無化([仏]néantisation)もしくは「無の分泌」という。対自はそこらじゅうに無を分泌しながら存在する。そして、対自存在は自らを即自存在でないもの、つまり自らをも無化する。そのようなことから、自らが無であること、純粋否定であることが対自存在の根本的な存在規定でなければならない。

即自
être-en-soi
それが在るところのものであり、それが在らぬところのものであらぬような存在
l'etre qui est ce qu'il est et qui n'est pas ce qu'il n'est pas
対自
être pour soi
それが在るところのものであらず、それが在らぬところのものであるような存在
l'etre qui n'est pas ce qu'il est et qui est ce qu'il n'est pas

実存は本質に先立つ このように、対自存在すなわち人間は、自らを問うことができるため、即自存在として存在することは不可能である。そして、自らを無化することによって、自分自身から自らの「本質」を切り離すことができる。つまり、人間は脱自的に存在してる(絶えず自身を乗り越え超越している)。サルトルはこのような存在のあり方を「実存する」([仏]exister)という。
そして、このような対自の規定により、実存は本質に先立つ([仏]l'essence précède l'existence)というテーゼが導かれる。伝統的な世界観である本質形而上学によると、「本質が存在に先立つ」とされた。それによると、ペーパーナイフは職人がもつそれの本質に従って作られたように、人間も神(デーミウルゴス)が本質を先に形成しており、その本質に従って存在しているというものである。サルトルはこの視点を逆転させ、人間が自らの本質を切り離し、その本質に向かって自らを未来へ企投([仏]projet)してゆくのであり、本質が先にあるのではなく、実存が自ら切り離した本質へと成ってゆくのである。 私は未来の私自身を待っている。未来において私は、自分自身との待ち合わせをある日、ある月、ある時間の向こう側で約束しているのだ。 人間は死の瞬間まで自らを企投し実存し続ける。人間はいつまでも未完成で、即自になれず、そのため無限の可能性が横たわっている。すべてが私に許されている([仏]tout m'est permis)

(伝統的な視点)神→本質→人間
(サルトルの視点)人間→本質→人間(*1)

自由とアンガージュマン このように、対自存在である人間は自らを無化することによって本質を切り離し、それに向かって自らを企投してゆく。人間は神がいた地位に自らが居座るため、自身の可能性を自身で選択する不断の自由の内に生きている。そのため、人間は、頼るべくものもなく未来に対する不安([仏]angoisse)と孤独の内に、自らのすべての行動に責任を負わなければならない。人間は自己を拘束([仏]engager)しなければならない(自由を放棄することは「不誠実」であり「自己欺瞞」である)。そのため、「人間は自由という刑に処されている」という。

そして、その無限の自由において積極的に自己を拘束することをアンガージュマン([仏]engagement、自己拘束)という。積極的に自己を拘束することは、主体的人間のあり方であり、自己実現でもある。そのため、アンガージュマンは、ある側面においてはデガージュマン([仏]dégagement、自己解放)であるといえる。また、自己を拘束するということは、他者にも影響を及ぼす。他者も彼自身を拘束することによって私に影響を及ぼす(対自と対他存在の関連)。このような個々のアンガージュマンの総体が社会における義務であり、つまり、それは神においてではなく個々の人間が積極的に自己拘束することにおいて形成される。そのため、私が私をアンガジュするということは、全人類をもアンガジュするということであり、そのためアンガージュマンは政治問題や社会問題に参与するという意味も持つようになる。サルトルは、この自身の哲学の実践的帰結から、戦後にマルクス主義に向い社会問題・政治問題に参与してゆくことになる。

対他存在 では、この私と相互に影響を与え合う「他者」とはどのような存在なのか。ここに即自存在・対自存在に続く第三の存在領域がある。それを対他存在([仏]etre-pour-autriui)と呼ぶ。それは、私が在る対象を「彼はひとりの人間である」と認めるときにあらわれる。彼が人間であると認めるということは、彼には私と同じように意識があり、すなわち、私にはどうすることもできない「彼の世界」があることを認めることである。そして、彼のまなざし([仏]regard)によって私は対象化され、そして自由を剥奪されひとつの事物と化す。これは、私にとって脅威である。そのため、地獄とは他人のことだ([仏]L'enfer, c'est les autres)とサルトルは、自らの戯曲「出口なし」([仏]Huis clos, 1944)の主人公に言わせるのである。このように『存在と無』における他者・対他存在は、私・対自存在と根源的に対立関係にあり、絶え間ない緊張関係がある。しかし、この他者との悲観的な見方は、後に緩和され他者と自己の自由との共存が目指される。 サルトル「存在と無」

最後のヘーゲル主義者 こういったのはフーコーであるが、サルトルの哲学は伝統的な主体性の捉え方を前提としている。これは、レヴィ=ストロースの構造主義によって批判される。構造主義へ

  • 著作
  • 『嘔吐』La Nausée (1938)
  • 『存在と無』L'Être et le Néant (1943)
  • 『実存主義はヒューマニズムである』 L'Existentialisme est un humanisme (1946)

メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty, 1908-1961)

彼はフッサールの現象学を独自に摂取し、それをゲシュタルト心理学と連関させつつ独自の現象学的実存主義を展開する。サルトルやマルセルといった同時代のフランス実存哲学者からも強く影響を受ける。

身体的実存 彼の実存哲学の最大の特徴として、彼は実存をいわば「受肉」させ、それを「身体的実存」として捉えた点にある。彼はデカルト的心身二元論やサルトルの即自・対自の二元論を超えて、主体とはそのどちらに還元できない、「両義的」([仏]ambiguïté)な存在である身体([仏]corps)であると弁証法的に帰結する(彼は両義性の哲学者と呼ばれる)。我々はこのような身体を介して世界を志向する身体的実存であるという。彼はこれを、幻影肢や脳を損傷した患者の症状を用いて例証する。身体は習慣によって、それの身体図式を拡張したり縮小したりしうる(身体図式([仏]schéma corporel)の組み換えと更新)。

生活世界への帰還 身体的実存は、ハイデガーの言葉でいうと世界内存在([仏]etre au monde)であり、本来これは近代の科学などがもたらした客観的世界観(上昇飛翔的思考)の手前にあり、いま現前する「生活世界」に生きている。メルロ=ポンティによると、この生活世界こそが「事象そのもの」である。フッサールは現象学的還元によって超越論的自我を事象そのものとして見出した。これに対し、メルロ=ポンティの生活世界は「あまりに自明であるため気づかれない」ものであり、それを見出すために現象学的還元は、一歩後退することによってこの現前する世界に気づくことを目的とする。

表現としての言語 加えて、メルロ=ポンティは、『知覚の現象学』で言語行為([仏]parole)についても言及する。それによると、言語とは、身体的実存の世界内存在としてのひとつの表象である。彼によると、言語とはたんなる対象の空虚な標識ではなく、意味(概念的意味)をもちそれを運搬する。そして、言語行為の概念的意味の基底には「実存的意味」あり、これを支えていると考えた。つまり、世界内存在として言語共同体に組し、そこにおける習慣によって実存的意味が身体図式のごとく拡張ないし縮小し、これが言語の意味を支える。また、後期においてはソシュールの言語学を摂取し、構造主義に接近する。

  • 著作
  • 『行動の構造』La Structure du comportement (1942)
  • 『知覚の現象学』Phénoménologie de la perception (1945)

  • *1. 人間は自分が何になるかは自分で決めることができる自由をもつ。これは神の地位に人間が立つという、人間中心主義(ヒューマニズム)である。このような人間中心主義は、後にレヴィ=ストロースやフーコーなどの構造主義者に批判される。フーコー「人間の終焉」。

参考文献

  1. 岩崎武雄 (著)、『西洋哲学史』、有斐閣、1975
  2. 岩崎允胤ほか (編集)、『西洋哲学史概説』、有斐閣、1986
  3. 岡崎文明ほか (著)、『西洋哲学史 理性の運命と可能性』、講談社、1997
  4. 茅野良男 (著)、『実存主義入門―新しい生き方を求めて』、講談社、1968
  5. 佐々木一義 (著)、『実存哲学入門』、関書院出版、1957
  6. 杖下隆英ほか (編集)、『テキストブック 西洋哲学史』、有斐閣、1984
  7. 原佑ほか (著)、『西洋哲学史』、東京大学出版会、1955
  8. ヒルシュベルガー, (著)・高橋憲一(翻訳)、『西洋哲学史〈2〉中世』、理想社、1970
  9. 松浪信三郎 (著)、『実存主義』、岩波書店、1962
  10. 峰島旭雄 (著)、『概説 西洋哲学史』、ミネルヴァ書房、1989

First posted   2009/05/29
Last updated  2012/02/07

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