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# 非合理主義的傾向#2-3 実存哲学(フランス) ### マルセル(Gabriel Marcel, 1889-1973) マルセルはキルケゴールから影響を受け現代の実存哲学の先駆者とされる。彼はキリスト教徒の哲学者で、その実存哲学も宗教的色彩に彩られている。マルセルは存在の源泉を、主体である`我([仏]je)`に求め、そして、存在を神秘として、この対象的思考を超えた神秘は実存的に思考しなければならないという。つまり、「我」を問うことによって`存在論的神秘([仏]mystere ontologique)`にアプローチする。しかし、これは単なる主観主義にとどまるのではなく、「我」は「汝」と出会い交わることによって「我々」という高次のうちで存在という神秘が現れるという。- 著作
- 『形而上学的日記』Journal métaphysique (1927)
être-en-soi | それが在るところのものであり、それが在らぬところのものであらぬような存在
l'etre qui est ce qu'il est et qui n'est pas ce qu'il n'est pas | | 対自
être pour soi | それが在るところのものであらず、それが在らぬところのものであるような存在
l'etre qui n'est pas ce qu'il est et qui est ce qu'il n'est pas | 実存は本質に先立つ このように、対自存在すなわち人間は、自らを問うことができるため、即自存在として存在することは不可能である。そして、自らを無化することによって、自分自身から自らの「本質」を切り離すことができる。つまり、人間は脱自的に存在してる(絶えず自身を乗り越え超越している)。サルトルはこのような存在のあり方を「実存する」([仏]exister)という。
そして、このような対自の規定により、`実存は本質に先立つ([仏]l'essence précède l'existence)`というテーゼが導かれる。伝統的な世界観である本質形而上学によると、「本質が存在に先立つ」とされた。それによると、ペーパーナイフは職人がもつそれの本質に従って作られたように、人間も神(デーミウルゴス)が本質を先に形成しており、その本質に従って存在しているというものである。サルトルはこの視点を逆転させ、人間が自らの本質を切り離し、その本質に向かって自らを未来へ`企投([仏]projet)`してゆくのであり、本質が先にあるのではなく、実存が自ら切り離した本質へと成ってゆくのである。 私は未来の私自身を待っている。未来において私は、自分自身との待ち合わせをある日、ある月、ある時間の向こう側で約束しているのだ。 人間は死の瞬間まで自らを企投し実存し続ける。人間はいつまでも未完成で、即自になれず、そのため無限の可能性が横たわっている。`すべてが私に許されている([仏]tout m'est permis)`。 || |:--| |(伝統的な視点)神→本質→人間| |(サルトルの視点)人間→本質→人間(\*1)| 自由とアンガージュマン このように、対自存在である人間は自らを無化することによって本質を切り離し、それに向かって自らを企投してゆく。人間は神がいた地位に自らが居座るため、自身の可能性を自身で選択する不断の自由の内に生きている。そのため、人間は、頼るべくものもなく未来に対する`不安([仏]angoisse)`と孤独の内に、自らのすべての行動に責任を負わなければならない。人間は自己を`拘束([仏]engager)`しなければならない(自由を放棄することは「不誠実」であり「自己欺瞞」である)。そのため、「人間は自由という刑に処されている」という。 そして、その無限の自由において積極的に自己を拘束することを`アンガージュマン([仏]engagement、自己拘束)`という。積極的に自己を拘束することは、主体的人間のあり方であり、自己実現でもある。そのため、アンガージュマンは、ある側面においては`デガージュマン([仏]dégagement、自己解放)`であるといえる。また、自己を拘束するということは、他者にも影響を及ぼす。他者も彼自身を拘束することによって私に影響を及ぼす(対自と対他存在の関連)。このような個々のアンガージュマンの総体が社会における義務であり、つまり、それは神においてではなく個々の人間が積極的に自己拘束することにおいて形成される。そのため、私が私をアンガジュするということは、全人類をもアンガジュするということであり、そのためアンガージュマンは政治問題や社会問題に参与するという意味も持つようになる。サルトルは、この自身の哲学の実践的帰結から、戦後にマルクス主義に向い社会問題・政治問題に参与してゆくことになる。 対他存在 では、この私と相互に影響を与え合う「他者」とはどのような存在なのか。ここに即自存在・対自存在に続く第三の存在領域がある。それを`対他存在([仏]etre-pour-autriui)`と呼ぶ。それは、私が在る対象を「彼はひとりの人間である」と認めるときにあらわれる。彼が人間であると認めるということは、彼には私と同じように意識があり、すなわち、私にはどうすることもできない「彼の世界」があることを認めることである。そして、彼の`まなざし([仏]regard)`によって私は対象化され、そして自由を剥奪されひとつの事物と化す。これは、私にとって脅威である。そのため、`地獄とは他人のことだ([仏]L'enfer, c'est les autres)`とサルトルは、自らの戯曲`「出口なし」([仏]Huis clos, 1944)`の主人公に言わせるのである。このように『存在と無』における他者・対他存在は、私・対自存在と根源的に対立関係にあり、絶え間ない緊張関係がある。しかし、この他者との悲観的な見方は、後に緩和され他者と自己の自由との共存が目指される。 サルトル「存在と無」 最後のヘーゲル主義者 こういったのはフーコーであるが、サルトルの哲学は伝統的な主体性の捉え方を前提としている。これは、レヴィ=ストロースの構造主義によって批判される。構造主義へ
- 著作
- 『嘔吐』La Nausée (1938)
- 『存在と無』L'Être et le Néant (1943)
- 『実存主義はヒューマニズムである』 L'Existentialisme est un humanisme (1946)
- 著作
- 『行動の構造』La Structure du comportement (1942)
- 『知覚の現象学』Phénoménologie de la perception (1945)
- \*1. 人間は自分が何になるかは自分で決めることができる自由をもつ。これは神の地位に人間が立つという、人間中心主義(ヒューマニズム)である。このような人間中心主義は、後にレヴィ=ストロースやフーコーなどの構造主義者に批判される。フーコー「人間の終焉」。
First posted 2009/05/29
Last updated 2012/02/07
Last updated 2012/02/07