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非合理主義的傾向#2-2 実存哲学(ドイツ)

次に見るのは第一次大戦の敗戦という社会的不安がもたらしたドイツにおける実存哲学である。その代表者としてハイデガーとヤスパースが挙げられる。

ハイデガー(Martin Heidegger, 1889-1976)

ハイデガーは、師フッサールの現象学とディルタイの解釈学を受け継ぎ「存在」を探求する。そして、この探求へいたる道程として「実存」を現象学的手法を用いて研究する。彼の哲学の主題は「存在」に関するものであるが、「実存」をそれに至るまでの通路とするために実存哲学の代表者とされる。

存在に対する問い 日常生活において我々が存在と呼ぶものは、机や本といった物体である。しかし、ハイデガーは、これを存在者(das Seiende )と呼び、この存在者を存在させている根拠を「存在」(Sein)と区別する。そして、一般に存在者が存在を規定すると考えられていたが、ハイデガーによるとそこには「存在論的差異」があり、存在が存在者を規定し、そして、存在は存在者を媒介して現れる。
存在を探求する際にハイデガーは、「存在とはなにか?」といった従来の存在論的な問の立て方はしない。そうではなく、「何かが存在するとはどのようなことか?」と問う。これは認識の対象ではなく、認識する主体に着眼点を置いた現象学的手法を踏襲している(*1) 。そして、ハイデガーにとっての「事象そのもの」とは「存在」であり、そのため、彼にとって現象学とは存在論であった。

現存在を介した存在の探求 そして、フッサールの現象学が事象そのものを考察する際に注目したのが「現象を認識する主体」(=人間)であったように、ハイデガーもまた、存在を探求する際に考察したのが自分の存在を了解し、存在了解(Seinsverstandnis)、それに態度決定をしていくということで特徴付けられる現存在(Dasein)(=人間)である。現存在の存在を「実存」と呼ぶ。そして、実存の本質的諸構造を解明する現存在の実在論的分析論が、基礎的存在論(Fundamentalontologie)と呼ばる。そこにおいては、この現存在が自然にもつ存在了解を括弧にいれ、深層に隠蔽されていた「存在そのもの」を暴きそれを分析し解釈するという解釈学的現象学を用いられる。

フッサール 存在そのものには到達できない
→現象を認識している主体を探求
→我々に現前する現象における偏見を括弧に入れる
→事象そのものへ
ハイデガー 存在そのものには到達できない
→存在を了解している主体を探求
→我々が了解している存在を括弧に入れる
→存在そのものへ

現存在(Dasein) デカルト以来、近代の主観哲学においては、主観性(コギト)を世界から切り離してこれに絶対的地位を与え、これによって世界を基礎付けようとしてきた。しかし、ハイデガーによると人間は世界から切り離されてなどおらず、また世界も認識の総体などではない。人間は客観的に世界と関わる前に用具性という仕方で世界と関わっている。つまり、世界を信頼し、世界の住み、そして、無意識的に慣れ親しんだ道具を使用するように世界の内に存在する。彼は、このように、現存在の根本的あり方を世界-内-存在(In-der-Welt-sein)と規定する。現存在の分析で重要となるのが本来的自己(Eigentliche Selbst)と真の自己を失った非本来的自己(Uneigentliche Selbst)の関係である。

非本来的自己への没落 日常的な世界内存在としての自己は、平均化された非本来的自己で、それは世界の中に投げ込まれている被投的存在(Geworfensein)である。この日常の世界は、他者と出会う場でもあり、共同の世界でもある。この公共の場においては、私と他者は現存在するところの共存在(Mitsein)である。ここにおいて現存在が共存在であるということは、現存在は他者や道具に対し関わりをもっているということである。これを、気遣い・憂慮(Sorge)という。現存在は他者と出会うから共存在なのではなく、現存在は本質的に共存在であるため他者に出会えるのであり、共存在は他者と出会える根拠なのである。そして、日常的な現存在は共存在に埋没することによって自己を理解する。なぜなら、他者の「あそこ」によって自身の「ここ」という存在が開示されるからである(他人によって自身を知る)。このように、自分自身に対する問いを避け、世間へ服従し、平均化され、そして非本来性にある現存在を、ひと・世人(das Man)と呼ぶ。このような、世人へと頽落・没落(Verfallen)した現存在の特徴として、他人が楽しむように楽しみ、他人が見るように世界を見る。彼等は、おしゃべりをし、次から次に好奇心を移し、物分りがよく、表面的で、すべてに曖昧な態度をとる。

本来的自己への目覚め しかし、現存在が本質的に共存在であり、共存在が没落へ導くため、現存在は構造上没落への宿命が含まれている。そのため、この非本来的自己へ没落した状態が日常における現存在の基本的なありかたである。そして、ハイデガーによるとこの非本来的自己から真の自己である本来的自己への目覚めが問題であるという。現存在の没落という非本来性から本来性への目覚めは自身が「死」への存在であることに対する不安(Angust)がきっかけとなる。死とは他の誰でもない私という現存在にとって避けることのできない可能性である。非本来的自己に没落する世人おいては不安をもたらす死を考えようとしないが、しかし、この死という可能性を先立って捉える態度を死への先駆(Vorlaufen Tode)とよび、これが本来的自己を実現する可能性を開示する。

死への先駆は良心(Gewissen)によって示される。良心とは超越的な呼びかけであり、この良心の要求に従うことによって、現存在は自らを負い目を持つもの(Schuldigsein)と思い知らされる。この負い目を受け入れ良心に従う意思を「決意性」(Entschlossenheit )という。そして、良心は死という最大の負い目をも、現存在に示す。このような良心を受け入れる決意性を先駆的決意性(vorlaufende Entschlossenheit)という。この死への不安を克服すること(死への先駆)によって、本来の自己が開示され回復する。

時間性 加えて、死を先駆する先見的決意性は、現存在における時間性(Zeitlichkeit)を明示する。ここにおける「時間」とは単に過去・現在・未来と経過する物理的時間ではなく、現存在において過去・現在・未来と相互に媒介する根源的時間である。つまり、現存在は来たるべく未来を先駆し、また、過去の自己に立ち返りながら、現在において決意する。このように既在しつつ現成化する到来という統一的現象をなす時間性こそが、本来的な気遣いを可能にする。そして、そのため、時間性こそが現存在の存在の意味であるとする。

詩作的思索(後期ハイデガー) このように、『存在と時間』の上巻において現存在の存在を時間性において解明した。これにより、当初の目的である、存在の探求に移る予定だったのだが、その試みは未完に終わる。それは、彼の思索が「転回」(Kehre)したからである。彼は後期の哲学において、「基礎的存在論」を介してではなく、「存在そのもの」を「詩」というより豊かな言語で直接問おうとする。これは、存在神秘主義などとよばれる。

この後期の思想において、実存は実-存(Ek-sistenz)として捉えなおされた。それは、存在の明るみの中に立つもの(Lichtung des Seins)とされる。そして、この存在者を規定する存在のさらにまた奥に、あらゆる固有のものを送り届ける「性起」(ereignis)を想定する。しかし、これと同時に、この性起を隠す働き(enteignis)もあり、そのため人間は存在者に目を奪われ存在の真理を見失うという「存在忘却」に陥っているとする。そして、ハイデガーは、プラトン以降の主体を中心据える全形而上学(これを批判したニーチェを含む)を存在忘却に陥っているとして批判する。そして、ソクラテス以前の哲学者や詩人に立ち戻り存在の真理捉える、詩作的思索存在への追憶(Andenken)を主張する。

  • 著作
  • 『存在と時間』Sein und Zeit (1927)
  • 『形而上学入門』Einführung in die Metaphysik (1953)
  • 『同一性と差異』Identität und Differenz (1957)

ヤスパース(Karl Jaspers, 1883-1969)

非合理主義的とされがちな実存主義において、彼は理性を擁護する。彼の哲学は存在そのものの探求であり、それは、世界(Welt)、実存(Existenz)、超越者(Transzendenz)へと挫折を経て段階的に進む。

哲学的世界定位 彼は存在探求の初段階として世界はどのように定位するか(世界定位)を問う。定位とは方向を見定めることであり、世界定位とは世界を探求する過程を方向付けることである。世界定位にはつの側面がある 研究的世界定位(forschende Weltorientierung)。 これは科学的な知識で、公理と経験を根拠に世界を探求する。しかし、科学において、価値判断は無視されておりそれらを纏め上げ世界を統一的に把握することは不可能である。

哲学的世界定位(philosophische Weltorientierung) ここで実証主義や観念論によって世界の統一的・普遍的像の把握が試みられる。この哲学的世界定位もまた、完結することのない世界認識である。なぜならば、普遍的・統一的な世界像の獲得には世界に関する思考を秩序付け体系化しなけらばならないからだ。 世界定位は上記のように秩序付けする。しかし、人間の思考は絶えず流転している(キルケゴール、ニーチェ)。つまり、人間は「実存」的に思考するのだ。このような限界において世界定位には「挫折」が示され、そして、「世界」から「実存」へ超越することになる。

実存照明(Existenzerhellung) ヤスパースの「実存」は、ハイデガーのとは異なり、決して客観とならない思考や行動の源泉である。実存は客観化できないため、いかなる科学によっても探求しえない。また、生命や意識一般として捉えることもできない。そのため、この非対象的な実存は、認識するのではなくそれを照らすことによって捉えるという。これを「実存照明」という。実存照明とは、対象領域を超えて実存という指示できない非対象的なものへと超越することである。すなわち、自己自身を意識することである。実存照明は、罪、闘争、苦悩、死といった自身が克服できない限界状況(Grenzsituation)という契機によって促される。そして、この限界状況に直面することで自らに絶望し挫折する。これと同時に、非対象的な超越者へと目を向ける。そして、次に超越者という形而上学の領域が開ける。

形而上学(Metaphysik) 実存は本質的に超越者と緊密に関係している存在の根拠であるが、しかし、あらゆる現存在は「存在そのもの」ではない。存在は非対象的であり隠されている。ヤスパースの形而上学は、可能的実存からこの存在そのものである超越者、すなわち神、を問うことである。彼は、この存在の全体を包括者(das Umgreifende)と呼ぶ。我々が対象としうるさまざまな現象はこの包括者を起源とする。彼は実存を全包括者の地盤とし、理性をその紐帯とし、また、理性を擁護する(?)。包括者は暗号(形而上学や存在論)によって自らを表す。そのため形而上学を超越者を理解する唯一の言語であるとする。

  • 著作
  • 『哲学1 哲学的世界定位』Philosophie I, Philosophische Weltorientierung (1932)
  • 『真理について』Von der Wahrheit (1947)

  • *1. 現象学は、それまでの哲学が試みてきた客観的な「存在そのもの」と認識は不可能であると認める。そして、客観的対象がありそれを主体が認識しているという従来の発想を逆転させて、まず認識する主体がありそれによってすべてのものが現象として表れると考える。そして、現象とは人間の意識に表れる世界のことである。そのため、現象学は、「存在とはなにか」、ではなく、「現象はどのように成立しているか」、つまり、認識する主体である人間を考察する。

参考文献

  1. 茅野良男 (著)、『実存主義入門―新しい生き方を求めて』、講談社、1968
  2. 佐々木一義 (著)、『実存哲学入門』、関書院出版、1957
  3. 松浪信三郎 (著)、『実存主義』、岩波書店、1962

First posted   2009/05/26
Last updated  2012/05/08

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