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# 非合理主義的傾向#2-1 実存哲学(19世紀) ## 実存哲学(Existenzphilosophie) 実存哲学とは、人間を抽象的な本質的存在として把握(人間の本質は理性である、人間の本質は生である、などと人間を一義的に把握)するのではなく、実存(現実に存在しているもの)として捉えようとする哲学である。 人間の合理性によってさまざまなものを本質的に把握することにより科学文明が発展したが、人間そのものをも本質的・一義的に把握する傾向により人間の機械化・抽象化・主体性の喪失をもたらした。 さらには、そのような狭量で画一的な世界観は、二つの世界大戦という危機的状況を導いた遠因であるとも考えられる。 実存主義は当時の時代背景に跋扈した漠然とした「不安」に対する応答として始まったそれまで*個としての人間性の回復*を目指す哲学である。 この立場は、自分とは他人と共有できぬ実存であることを強調する。 さらにこれは、時代の不安に対し社会革命によってそれを解消しようとするマルクス主義とは反対の立場である。 実存哲学の源流は、キルケゴールと生の哲学者のニーチェといった19世紀前半にまで遡る。 そして、実存主義の第二世代として、第一次世界大戦と敗戦という不安に直面したドイツでハイデガー、ヤスパースらが現象学を摂取しつつ発展させた。 第三世代においては、第二次大戦の後のフランスでサルトル、メルロ=ポンティらによって受け継がれてゆく。 --- ### キルケゴール(Søren Aabye Kierkegaard, 1813-1855) 後期シェリングから影響を受けた。実存哲学の祖。 主体的真理と実存 キルケゴールは、次のように言う。「私がそれのために生き、そしてそれのために死ぬことができるような真理を見出すことが重要である」。これは後に、「真理とは主体性である」という命題へ集約される。つまり、キルケゴールにとって真理とは、ヘーゲルにおけるそれのように客観的で思弁的なものではなく、人が自らの生を支えうるものとして信じることのできるような主体的なものこそが真理である。そして、たとえそれが客観的な視点からは矛盾を含み不条理を含む非真理であったとしても、自身が真に情熱を傾けることができるか否かが問題なのである。つまり、真理とは自らの内面にある。
このように、自らの内面性を自覚し一般的理念的規定を超えて内面的に自らを規定する生き方を`実存(existenz)`と呼ぶ。実存においては、私という主体は人間一般としてではなく、個として生きる。つまり、この生き方においては、ヘーゲルのように「あれもこれも」と綜合するのではなく、「あれかこれか」という選択し決定することが問題である。 実存の三段階 キルケゴールによると、実存には次のような三段階がある。現時点における矛盾に突き当たり、それから「質的弁証法」によって上の段階へ飛躍する。 1. **`美的実存(Ästhetische Existenz)`:** この段階における人間の生き方は快楽主義的で享楽的なものである。この種の快楽には、キュレネ学派的な肉体的快楽から芸術などによる知的な快楽も含まれる。しかし、この刹那的でドン・ファン的な生き方には、倦怠と退屈が付きまとい、また健康・富・名誉に関してはそれらの喪失に対する不安が付きまとう。そして、このような矛盾を内包する段階において人は不安に苛まれペシミズムに陥る。そして、このような対立から理性の目覚めによって次の段階に移行する。 2. **`倫理的実存(Ethische Existenz)`:** この段階は最初の段階とは対照的であり、ここにおいて人間は、主体的真理に従う倫理的段階である。この段階は最初の段階とは明確に対照的で、快楽を貪る美的実存が外的世界に対し受動的であるのに対し、この倫理的実存は自らの行為を選択し動機付ける能動性(主体性)を持つ。そして、この段階に生きる人間が選択する行為は、理性によって自らに課した厳格な倫理的義務と一致する。しかし、この段階の人間は自己の倫理的完成を有限なものである自身には到達し得ないことに気づき絶望する。自らの生に絶望することを、`死に至る病(Sygdommen til Døden)`と呼ぶ。このように、有限者としての自身が求める自己の完成・絶対化という対立(絶対的逆説)が存在する。この対立から第三段階へ飛躍する。 3. **`宗教的実存(religiöse Existenz)`:** 美的段階・倫理的段階においては真理を主体的なものとして自身に帰属させている(官能や理性)。しかし、キルケゴールによると、自らの主人を自らとすることは罪であり、そのため先の二つの段階のいずれにおいても絶望に突き当たった。そこで、最後の段階においては、信仰による神との関わりによって自らの支配を神に譲渡する。たとえば、アブラハムが神の命令に従い息子イサクを生贄にささげたように、主体的真理による倫理に背き絶望に突き落とされようがそれでも神に服従するのが信仰である。また、無限な神が有限な現世に現れるという逆説を甘受しそれでもなお信じることが信仰であるという。そして、信仰に自らの生の根拠をすべて依託する生き方が宗教的生き方であり、真に人間的な生き方であるという。そして、これによって、死に至る病という自身に対する絶望を癒すことができる。 このような不確実で逆説的なことに対する情熱的な信仰を選択することが(`不条理なるがゆえに信ず`)、宗教的実存であり誰もこれを奪うことはできない。このように、キルケゴールは、自己や個性の喪失という来るべき時代において、むしろ「単独者」として神の前にたった一人で立つ人間こそが真の実存であると主張する。このような、主体性と実存に対する追求が、極端な個人主義・主観主義と結びつき20世紀に大きな潮流となる実存主義を成立させるにいたった。
  • 著作
  • 『あれかこれか』Entweder–Oder (1843)
  • 『人間行路の諸段階』Stadien auf dem Lebenswege (1845)
  • 『死に至る病』Sygdommen til Døden (1849)
--- ### ニーチェ(実存主義的に再解釈) 実存哲学のもうひとつの源流は、ニーチェに見られる。ニーチェの哲学は生の哲学の項目ですでに触れた。ここでは、ヤスパースとハイデガーによるニーチェの実存主義的解釈に触れる。 #### ヤスパースによる解釈 ニーチェは、道徳・神・理性・文化・キリスト教といったものをすべて破壊した。そして、彼の哲学は、絶対的否定性の哲学であると同時に、不断の自己超克の哲学である。そのため、ニーチェは自身の無神論にも固執せず、絶えず自己を超克しなければならない。そして、その結果、彼は「実存」しなければならない。彼は絶えず、自分に先んじなければならない。限界に果敢に挑み、限界に挫折する。この不断の努力において、思考と生はひとつとなっている。ヤスパースはこのようにニーチェを「挫折の概念」において解釈し、彼を実存哲学者として解釈する。 #### ハイデガーによる解釈 ヤスパースのニーチェ解釈に対し、ハイデガーはニーチェを「ニヒリズムの概念」において解釈する。そして、ニーチェをあくまで形而上学者として見る。そして、もちろん、ニーチェの形而上学は反形而上学・反プラトン主義である。この反形而上学が彼のニヒリズムを導く。つまり、彼は既存の価値を破壊するために、新たに形而上学によって価値を設立した。単なる存在者から得られた閉塞的な諸概念からの開放を実現することは、自分のいう存在にして初めて可能である。いまこそ存在は自己自身に収斂することができ、そして、ニーチェがともかくも始動とはなったが、成功しなかったところの充足が到来しうる(ヒルシュベルガー, p117)。 --- ## 参考文献 1. 茅野良男 (著)、『実存主義入門―新しい生き方を求めて』、講談社、1968 1. 佐々木一義 (著)、『実存哲学入門』、関書院出版、1957 1. ヒルシュベルガー, (著)・高橋憲一(翻訳)、『西洋哲学史〈4〉現代』、理想社、1978 1. 松浪信三郎 (著)、『実存主義』、岩波書店、1962
First posted   2009/05/17
Last updated  2012/02/07
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