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# 非合理主義的傾向#1-3 生の哲学(ドイツ) ベルクソンは機械論と目的論を排除し生の躍動によって進化を説明する。しかし、生の躍動というまったく動的なものでは、形相のような秩序を生み出せず相対主義に陥る。つまり、生の哲学は次の段階として、単なる「生以上の生」を探求する必要に迫られる。それに対する応答として先に見たブロンデルに加え、ドイツ哲学者のディルタイ、ジンメル等の哲学がある。 --- ### ディルタイ(Wilhelm Dilthey, 1833-1911) ディルタイはドイツを代表する生の哲学者である。彼は歴史学の基礎付けを試みる。その試みは、新カント学派(西南学派)においてすでに試みられているが、ディルタイはそれのように歴史の因果関係を形而上学的に特定するというものではなく、「生」によって「生」を理解(解釈)する、つまり、「生」それ自体を記述する記述心理学の立場から歴史学の基礎付けを試みる。 歴史理性批判 ディルタイは、歴史を超越的に規定する合理性や神の存在を否定し、生という非合理性を歴史の主体に据える。このように、彼は自らの哲学をその生における認識論的基礎を探求することからこれをカントに習って`歴史的理性批判(Kritik der historischen Vernunft)`と呼ぶ。彼にとって生とは人間の全体的連関であり、生の全体的連関において意味の連関・客観的精神がうまれる。そして、全体の連関を考察することは過去を包括的に考察することであるため、ディルタイにとって生とは個々人の生というより歴史的生である。そのため、彼の生に対する考察は歴史哲学となる。しかし、ヘーゲルの絶対精神のように歴史を規定する超越的存在を立てないため相対主義に向かわざるをえない。そして、相対主義は生の哲学の根本問題としてある。 歴史的解釈学 また、この歴史的に生を理解するには「解釈学」という方法論が必要となる。解釈学とはもともと聖書解釈などに使用されてた方法論であり、ディルタイ等によって哲学的に深化される。それは、なにかしらの表現(文字表現など)に固定された生の表出を全体的連関において理解・解釈する技術である。たとえば、ゲーテの作品において、ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』における若くして死んだ恋人の死体に防腐処置を施しガラスケースに入れ身近に置く場面がある。そのシーンは彼にとって美しいシーンとして書かれるが、われわれからは不可解である。しかし、彼の生の全体的連関を理解することによって、その生の表出であるこの表現を美しいもの・高潔なものとして理解・解釈することが可能である。ディルタイにとって生の表出とは歴史であった。そこで、彼は、この歴史を全体的連関において理解・解釈を試みる。これを歴史的解釈学という。また、`解釈学(Hermeneutik)`はガダマー、ハイデガーらに受け継がれ現代哲学におけるひとつの潮流となる(分析哲学においてもデイヴィドソン、サール等が影響を受ける)。- 著作
- 『精神科学における歴史的世界の構成』Der Aufbau der geschichtlichen Welt in den Geisteswissenschaften (1910)
- 著作
- 『歴史哲学の諸問題』Die probleme der geschichtsphilosophie (1892)
- 『社会学』Soziologie (1908)
- 著作
- 『生の意味と価値』(Der Sinn und Wert des Lebens, 1908)
- 著作
- 『西洋の没落』Der Untergang des Abendlandes (1918)
- 著作
- 「魂の敵対者としての精神」Der Geist als Widersacher der Seele (1929)
First posted 2009/05/12
Last updated 2009/05/17
Last updated 2009/05/17