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# 非合理主義的傾向#1-2 生の哲学(フランス) ### ベルクソン(Henri Bergson, 1859-1941) 時間と空間を「持続」の概念をもとに峻別し、それを基盤に独自の進化論を提唱する。彼の哲学は形而上学的で実証主義的形而上学などと呼ばれる。 #### 1. 「時間と自由」Essai sur les données immédiates de la conscience 純粋持続 ベルクソンはまず「生」(感覚・欲望・感情など)という人間の内面的本質を「時間」という概念において説明する。その時間とは、時計によって計量され分断可能な公共的な時間ではなく、不断に流れる意識である。この生の本質である主観的な時間において過去・現在・未来は分断されず、そして、過去は現在を現在は未来を支える。それらはまるで切れ目なく続くメロディのように私の意識において相互に浸透している。この時間を`純粋持続(durée pure)`と呼ぶ(フッサールの未来把持と過去把持に類似?)。 このように時間をメロディのように質変化する意識の純粋持続として捉え、空間的に分断可能な客観的な時間と区別する。そして、この時間における現在の意識とは常に非空間的な過去を参照しその過去が現在に侵食しているため、常に質が変容し新しいものとなる。すなわち同じ意識の現出はありえない。そのため、この常に変容する時間は計測できず予測不可能かつ非因果性(自由)という性質をもつ。このように、相互浸透や予測不可能性という特徴を持つ純粋持続を生の根源的本質に据える。 #### 2. 物質と記憶(Matière et Mémoire) 先に時間とは純粋持続であり、それは過去・現在・未来が相互に浸透する非因果的意識として解明された。次に、ベルクソンは「物質と記憶」において、純粋持続の本質を物質(イマージュ)との連関において解明する。 イマージュ ベルクソンにとって「物質」とは`イマージュ(image)`の総体である。そして心身をイマージュという同一の地平で取り扱うためデカルトの心身問題を乗り越えれると考える。「イマージュ」とは、事物の「純粋知覚」(記憶を除いた純粋な現在の知覚)と「記憶」(内的な過去の記憶)とあわせたものである。 記憶 では、イマージュの主張構成要素のひとつである記憶とはなにか。ベルクソンは、記憶を大きく二つの異なる記憶に分ける。ひとつは、`習慣的記憶(mémoire-habitude)`であり、もうひとつは「精神的記憶」または`純粋記憶(mémoire pure)`である。前者は、私の身体において習慣化され無意識にする日常の振る舞いであり、また、直接的で無意識的であるため時間的位置づけを持っていない。これに対し、後者は、現在から切り離され個別的に保存される記憶(夢においてリアルに想起される記憶)であり時間的位置づけを持つ(小学校の記憶、中学校の記憶など)。そして、この純粋記憶を追憶しイマージュを再形成し過去を再現前することによって得られる記憶を「心像的記憶」と呼ぶ(無意識に沈む純粋意識の意識化)。 記憶は脳に局在するのではない 身体的記憶は身体の運動機能のうちに刻印され無意識化されている。そして、また純粋記憶も脳に保存されているのではないとベルクソンは失語症の分析を通して主張する。脳は、無意識化された記憶を有意識化する機能を持つに過ぎない。記憶は何者かの中にあるのではなく、無意識化され深く眠り脳によって意識化されるのを待つ。眠れる記憶と脳の関係をベルクソンは洋服と鉤に例える。それは、鉤に掛かった洋服のように記憶も記憶(洋服)は鉤(脳)をおおきくはみ出しているが、鉤が洋服を支えるように脳は記憶を意識化するのに不可欠なものである。そして、この無意識化された純粋記憶は身体の行動によって脳が機能し有意識へと喚起される。また、その意識化された記憶は心体の行動に影響を与える(心身の連関)。 #### 3. 創造的進化(L'Évolution créatrice) ダーウィンやスペンサーの進化論に影響を受けたベルクソンは、この第三の著作において進化論を主題とする。 目的論と機械論に対する批判 ダーウィンの進化論において生命の進化とは自然淘汰の結果であるため、進化はすべて外的な要因に依存する。しかし、これだけで人間などの高度な生命体はなぜ生まれたのかというアポリアが存在する。これに対し、古典的な説明として、 進化論の目的論的説明と機械論的説明がある。一方は、古くはアリストテレスが主張する立場で、進化の過程にはあらかじめ目的が与えられているというものである。もう一方は、生命の進化は原因と結果からすべて成り立っている。しかし、これら二つの説明は、ともにあらかじめ進化の全過程があたえられ完全な調和をあたえられているため先に見た生の本質である純粋持続としての「時間」が無視される。そのためベルクソンはこれらの説明を跳ね除け、この過去・現在・未来の不断の持続という生の本質を宇宙全体・生命全体に適応し、それによって生の躍動という不調和を含む独自の進化論を提唱する(ベルクソンの進化論は目的論的説明に近いが、彼は従来の目的論を機械論と同一視しそれとは明確に区別する)。 エラン・ヴィタール ベルクソンによると生命は自身をより高度なものへと発展せしめようと持続する内的衝動が存在するとする。これが、`生命の躍動」(élan vital)`である。そして、生命の躍動とは、過去を参照し未来を絶え間なく創造してゆく持続である。すべての生命は唯一の同じ根源的躍動を基点としそれが各々の「傾向」によって分離・拡散する。これが無数の進化の過程を生む。(\*1) 生命とは、自らに内在する躍動(時間)を顕然せしめるため物質(空間)を媒介する。この生命が物質に働きかけることを物質的「傾向」と呼ぶ。このように生命の進化は、生命が物質に働きかける傾向によって分岐する。そして、生命の進化はアリストテレスがいうような段階的・直線的ではなく分岐的である。つまり、例えば、植物・動物・人間といった三つの分類は進化の段階を意味するのではなく、無数に拡散する生命の躍動から拡散した三つの飛沫にすぎない。そのため、人間の知性(ベルクソンによると知性とは道具を作り出せる能力)は他の生物の特性(\*2)とおなじように生命と物質との妥協の結果もたらされたものでありひとつの傾向性を表すに過ぎず、これは人間が(知性的動物という狭い領域においては確かにもっとも進化したものであるが)、決して全生命において最も進化し優れた地位にあるということを意味するのではない。 分析的知性の批判と直感 このように、「持続」を生の本質としこれを宇宙全体の進化論に適応する。それゆえ、恒常的に変化し不調和を含む動的な時間(持続)の真の姿を捉えるには科学などの断片的・計量的な分析的方法・悟性ではかなわない(分析的知性の否定)。それをなすには、いわば実在そのものの内的な経験における「直感」(intuition)こそが生命の本質に接近できるものとする(直感主義)。 #### 4. 道徳と宗教の二源泉(Les Deux Sources de la morale et de la religion) 先に見たように、ベルクソンは人間の知性というものは進化の過程で物質に対する傾向ゆえに獲得したものであり、それは植物の葉緑素やクモが網を張る能力と変わらない。つまり、人間の知性が進化の帰結といったものでもなく、生命において優劣は存在しない。どれもが生命の躍動を物質と折り合いながら媒介し顕然しているにすぎない。しかし、知性においては意識が伴いまたそれによって観念を取り扱える。そのため、人間は「閉じた社会」にのみ留まらず「開いた社会」にも目を向けることができるという。このように、ベルクソンは第四の著作において、これまで生の哲学を基盤に道徳哲学・社会哲学を展開する。 閉じた社会と開いた社会 進化した生命はその特徴として「社会」を形成する。ベルクソンはまず道徳と宗教の二源泉として`閉じた社会(la societe close)`と`開いた社会(La Société ouverte)`という社会のふたつの傾向を提示する。前者は、昆虫に代表されるように集団の構成員がそれの属する社会を維持するために完全に役割が振り分けられており、そこには秩序と統一性のみがある。そして、この閉じた社会に分類される社会は閉鎖的で、この社会における道徳は「静的道徳」と呼ばれ、それは、自らが属する社会への忠誠と他の社会に対し無関心、攻撃的、防御的といった傾向を要求する。また、この社会の宗教においても同じように`静的宗教(religion statique)`と呼ばれるものであり、この宗教は`仮構機能(fonction fabulatrice)`であり、この役割もまた社会的秩序を強固なものとするために、個人の恐怖を抑制するという機能を担う。そして、個人の自らが所属する社会に対する愛着は、自己愛の延長に過ぎにない、なぜなら、その共同体の損益が自身の損益に直結するためである。 しかし、他方、人間は閉じた社会にのみ生きるのではない。そのもうひとつの社会を「閉じた社会」に対して、「開いた社会」という。それは、社会を自らに属する社会(国家、家族、故郷など)に限定するのではなく、人類という全体にまで社会の概念を拡張する(単に人員の大小といった量的差異ではなく、有限と無限という質的な差異)。この社会に生きるということは人類愛に満ちた社会に生きるということであり、自己への執着を捨てることである。これは`愛の躍動(elan d'amour)`と呼ばれ、`動的道徳(la morale dynamique)`・「開いた道徳」の根本的な理念である。そして、この社会における、「開いた宗教」においても、この過去の賢者や聖者に体現されるように、すべての人類を愛によって包括する宗教である。そしてこのような全体に対する愛は、対象をもたないため愛そのものである。この愛の躍動、生命の躍動そのものに回帰する宗教は、神秘主義(Mystique)であるとベルクソンはいう。- 著作
- 『時間と自由』Essai sur les données immédiates de la conscience (1889)
- 『物質と記憶』Matière et Mémoire (1896)
- 『創造的進化』L'Évolution créatrice (1907)
- 『道徳と宗教の二源泉』Les Deux Sources de la morale et de la religion (1932)
- 著作
- 『行為』L' action (1893)
- 『パンセ』La pensée (1934)
- \*1. 生命の分岐の説明の前に生命と物質を持続の「緊張」と「弛緩」によって分類する。物質は持続が弛緩しており生命は緊張しているという。
- \*2. たとえば、植物は自身の機能によりエネルギーを自らのうちに蓄えることができるため、動く必要がなく彼らの意識は眠っている。動物は、自らのうちでエネルギーを産出できないため動いて摂取する必要があり、動きには意識が伴うことになる。そして、動物の生は理性的生と本能的生へと分岐する。
First posted 2009/05/08
Last updated 2012/02/07
Last updated 2012/02/07