# 現代哲学史#2-3 実証主義的傾向:ドイツ(ヘーゲル左派)
フランスとイギリスのコントに由来する実証主義的傾向と並行して、ドイツにおいてはヘーゲル学派内でヘーゲルの思弁性に反発した唯物論的傾向が湧き上がった。その急進派はヘーゲル左派と呼ばれる。
## ヘーゲル左派
ヘーゲル哲学においてドイツ観念論の帰結として、絶対者=神を体系の中心にすえるという思弁的形而上学に至った。しかし、それはカントの形而上学批判以前の哲学に逆戻りしていると考えることができる。このような傾向は、ヘーゲルの存命中から批判されていた。例えば、ヘルバルト(Johann Friedrich Herbart)の実在論的立場、`ベネケ(Friedrich Eduard Beneke, 1798–1854)`、`フリース(Jakob Friedrich Fries, 1773- 1843)`らの心理学的立場、`サヴィニイ(Friedrich Carl von Savigny, 1779–1861)`らの`歴史学派(historische Schule)`などの対立する立場から反論される。しかし、外部からの批判だけでなくヘーゲルの死後ヘーゲル哲学を受け継ぐ学派の内部における議論(特に宗教と政治)が激化しさまざまに分裂することになる。
シュトラウスは、その分裂を神学的な基準によって分類した。イエス・キリストのうちに神性を認め哲学と神学を結合する保守的な学派をヘーゲル右派(老ヘーゲル派)、反対に、神性を全く否定しイエスを人類の一人に位置づける(哲学を宗教から分離した)急進派をヘーゲル左派(青年ヘーゲル派)とし、加えて、その中間に位置する学派を中央派とした。そして、哲学的意義をもつのは左派であった。今日で左派に分類される人物たちは、シュトラウスの神学上の対立による分類を超えて、法哲学や歴史哲学などの対立をも含んだものとなっている。左派に分類される人は、シュトラウス、バウアー、フォイエルバッハ、ルーゲ、ラッセール、ヘス、シュミレット、ハイネ、マルクス、エンゲルス等が挙げられる。
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### シュトラウス(David Friedrich Strauß, 1808-1874)
ヘーゲル学派の分裂を決定的なものとしたのは、シュトラスの『イエス伝』であった。これにおいて、シュトラウスは、ヘーゲルのいう絶対者は無限者のうちに有限者を含むという汎神論的側面が強く、超越的な神を前提とするキリスト教とは、ヘーゲルが考えるようには、相容れないとした。また、彼はキリスト教における奇蹟や神話を創作物であると否定した。これが宗教批判の土台となる。しかし彼自身はキリスト教徒にとどまったためフォイエルバッハに批判される。
- 著作
- 『イエス伝』Das Leben Jesu (1835)
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### フォイエルバッハ(Ludwig Feuerbach, 1804-1872)
フォイエルバッハは無神論者の宗教哲学者で、シュトラウスの神学的急進主義を受け継ぎ唯物論的傾向から宗教批判を展開する。彼はまず『ヘーゲル法哲学批判』においてデカルトからヘーゲルまでの伝統的哲学は感性的直感を否定して絶対者などの思弁哲学を構築してきたことを批判した。彼は、ヘーゲル哲学は合理的な形で表現した神学であると述べる。そして、フォイエルバッハは、逆に、その思弁性を退け感性を信頼し現実を重視した。「新しい哲学は愛の真理に、感覚の真理に支えられている」(実証主義的傾向)。この現実と観念を比較し、観念が本当に現実を表しているのかを批判的に検証する必要があるとする。そして、この批判的な視点を宗教に適応することによって、彼の宗教に対する批判的な見解が『キリスト教の本質』にて表れる。
キリスト教の本質
フェイエルバッハによると、人間にはもともと肯定的な本質が備わっている。例えば、「愛」である。しかし、利己的でもある人間は、なかなか自らの肯定的な本質(理想)を実現できない。ここには理想と現実のギャップがある。そこで、人間は無意識にこの肯定的本質、理想を自らから切り離し対象化する(投影する)。これが神(キリスト)である。つまり、神とは、自らの自らに対する愛・理性・意志などの肯定的な諸資質が、自らから切り離され対象化されたものである。自らの本質を`疎外(Entfremdung)`する。 すなわち、宗教とは、この客体化された自分自身に対する態度である。
しかし、その態度は、フォイエルバッハによると、疎外され転倒した態度である。なぜなら、人間の肯定的な資質(愛、理性、意志力)は全て神に奪われ、人間には無という否定しか残らず、宗教に依存する人間は罪深いものとして抑圧される。「生が空虚であればあるほど、神はますます豊かに、ますます具体的になる。現実世界の貧しさと神の豊かさとは表裏一体をなす。貧しい人間だけが豊かな神を持つ」。
フォイエルバッハはこのように宗教を批判することによって、人間が自らを対象化した理想、疎外化した自身の片割れをもう一度人間自身のうちに取り戻そうとした。つまり、神学を人間学(Anthropologie)に転化しようとする(宗教における超越性の否定という唯物論的傾向)。哲学を神学的立場から切り離し、人間的立場から論じる。換言すると、主語と述語を逆転させる。つまり、神が愛なのではなく、愛が神なのである。これが「神学の秘密は人間学である」や`人間が人間にとっての神である(homo homini deus)`が意味することである。これはまたアリストテレス以来の人間の本質を理性とする抽象的なものから、感性的なものとする実証主義に傾くことを意味する。
自然宗教の本質
キリスト教的宗教の本質は自らが自らにとる態度、もしくは依存であった。では自然宗教における自然に対する宗教的意識はどのようなものなのか。フォイエルバッハによると、それもまた、人間の依存感情からくるものである。自然とは人間に生きるための恵みをもたらすためそれに依存するが、それと同時に死の恐怖をもたらすため畏敬の念が生まれ神聖なものとなる。従って、自然宗教においてはふたつの利己主義が働いている。ひとつは、人間の自分自身の生の為の利用対象として自然をとらえる利己主義。これを形而上学的利己主義と呼ぶ。もうひとつは自分自身の利益のために力を持つものを崇拝するという道徳的に批判されるべき利己主義である。
- 著作
- 『キリスト教の本質』Das Wesen des Christentums (1841)
- 『ヘーゲル法哲学批判』Zur Kritik der Hegelschen Rechtsphilosophie (1844)
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### マルクス(Karl Heinrich Marx, 1818-1883)
ヘーゲル左派は、フォイエルバッハでみたように、自然や感覚に立脚する唯物論の立場からキリスト教を批判し宗教と哲学を切り離した。そして、ヘーゲル左派(フォイエルバッハ)の影響のもとマルクスとエンゲルスは、次に、このような宗教批判という「天上の批判」から「地上の批判」に移行する。つまり、宗教を歴史、政治、社会などから切り離しそれらが人間によって作られたものであるとして考え、また、それに対し批判を展開する。
唯物論的弁証法(dialektischer Materialismus)
ヘーゲルの歴史展開は観念論的である。それよると、歴史は人間によってつくられるが、歴史の理念は人間から切り離され超越的で神秘的なものとされる。マルクスは自らを逆立ちしたヘーゲル学徒と呼ぶように、ヘーゲルの観念論的な歴史観を逆転させ、歴史を唯物論的に考察する。彼はまず、ヘーゲルの弁証法を発展の法則として唯物論の観点から踏襲する(「唯物論的弁証法」)。この唯物論的弁証法には、量から質への転化という法則がある、つまり、水においてこれの温度を量として、その量が100度に変化した際、水自体が水蒸気に質変化するというようなことである。この弁証法は、自然から社会といったあらゆるものに適応できると考える。そして、ヘーゲルの観念論的な歴史観を離れ、この唯物論的観点から歴史を捉えようとした。これが唯物史観、`史的唯物論(Historischer Materialismus)`である。
唯物史観
ヘーゲルの観念論的歴史観によると、歴史とは絶対精神が段階的に実現されてゆく過程であると考えるが、マルクスはまったくこれを逆転させ、歴史とは物質的な基礎、つまり経済的な生産関係によって形成されると考える。このような生産形式は社会の「下部構造」と呼ばれ、また、この上に政治・法律・哲学・芸術といった「イデオロギー」(諸観念)という上部構造が構成される。イデオロギーとは、社会の下部構造によって制約され規定された偏った観念形態である。このイデオロギーが人間の意識を決定する(下部構造という物質形態が観念を形成する。ヘーゲルとは反対)。「人間の意識が人間の存在を規定するのではなく、逆に人間の社会的存在が人間を規定するのである」(『経済学批判』)。
労働力の疎外と社会革命
唯物史観によると歴史はこのような上下の構造によって規定されている。そして、歴史の発展は、唯物論的弁証法に従って、社会内部における量から質の変化が行われるときそれはなされる。つまり、労働者の労働力と生産物の間に矛盾の量が増えると、やがて、それは革命という質変化を引き起こす。
格差の広がるイギリス
(\*1)を観察したマルクスは、フォイエルバッハの「疎外」の概念を社会に適用し、現状を描写する。つまり、労働者が生み出した商品は彼ら自身からは「疎外」されており、資本家のものとなる。また、過酷な労働は人間と労働力それ自体を分離し疎外する(`疎外された労働(entfremdete Arbeit)`)。そして、労働者が働けば働くほど労働者が生きるのに必要な範囲の労働を超える。そして、この剰余した労働力は金銭に変換され資本家のものになる。つまり、自分達に必要以上の労働は`剰余価値(Mehrwert, surplus value)`として搾取される。そして、資本家に価値が集中すればするほど、労働者の価値は相対的に下がってゆく。このような矛盾が行き着く果てに、革命がある。社会における質変化である革命とは、被支配者層である`労働者階級(Proletariat)`が、支配者層に対する闘争という形で行われる。マルクスは、『共産党宣言』において「すべてのこれまでの社会の歴史は階級の闘争の歴史である」と結論する。このような唯物史観からマルクスは`エンゲルス(Friedrich Engels, 1820-1895)`と共に資本主義は共産主義に移行すると考えた。マルクス主義へ
- 著作
- 『ドイツ・イデオロギー』Die deutsche Ideologie (1846)
- 『共産党宣言』Das Kommunistische Manifest (1848)
- 『資本論』Das Kapital: Kritik der politischen Oekonomie (1867)
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## 注
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## 参考文献
1.
岩崎武雄 (著)、『西洋哲学史』、有斐閣、1975
1.
岩崎允胤ほか (編集)、『西洋哲学史概説』、有斐閣、1986
1.
岡崎文明ほか (著)、『西洋哲学史 理性の運命と可能性』、講談社、1997
1.
杖下隆英ほか (編集)、『テキストブック 西洋哲学史』、有斐閣、1984
1.
原佑ほか (著)、『西洋哲学史』、東京大学出版会、1955
1.
ヒルシュベルガー, (著)・高橋憲一(翻訳)、『西洋哲学史〈2〉中世』、理想社、1970
1.
峰島旭雄 (著)、『概説 西洋哲学史』、ミネルヴァ書房、1989
First posted 2009/04/11
Last updated 2012/02/07