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# 前期ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」#7 語りえぬもの:倫理 以下、W=ウィトゲンシュタイン ## 8. 語りえぬもの:倫理 これまでの論理哲学の考察から一転して、6.4から倫理に関する考察が始まる。この論理と倫理の連関をどのように捉えるかは、『論考』において最も重要なことであり、最も悩ましいことのひとつである(\*1)。まず確認しておきたいのは、Wはトルストイの福音書解釈(\*2)に影響を受けて以来トルストイズムに傾倒しているという点である。倫理におけるトルストイの影響力は、論理におけるフレーゲ並であるとさえ考えられている([7, p.131])(そして、おそらく言語の理論のほうにも影響を与えている)。また、トルストイ自身はルソーとカントの実践哲学に強く影響を受けている。 従って、Wはトルストイを介して18世紀の啓蒙主義思想の影響を受けており、Wは論理におけるアプリオリ性とは異なる倫理における語りえぬアプリオリ性(神秘主義的倫理)を肯定的に容認していると考えることができる。 また、倫理は論理と同じく世界の条件であるという(「草稿」 in [7])。ここで言われる、「倫理を条件とする世界」とは、先に見た「論理を条件とする世界」とは異なる世界でなければならない。後者のうちに価値は存在しない。そして、前者は後者の世界を土台とし超越論的な倫理を本質的条件とし倫理に彩られた世界である。これをここでは生の世界とよぶ。
世界と生はひとつである。(5.621)
### 1. 価値は超越論的である 世界は自らで充足する存在であるため、実在的世界そのものの中にいかなる価値もない。そのため、世界の像である命題群、実在世界の経験の総体である「私の世界」、また私のすべての可能性を内包する論理空間の中にもなんらかの価値を見出すことは不可能である。
世界の中には価値は存在しない
(6.41) 倫理学の命題も存在しえない (6.42)
倫理や価値は事実の写像である命題では表すことはできない。 しかし、だからといってWは「世界に価値はない、よって価値は存在しない」と結論せず、価値は世界の内にあるのではなく超越論的(\*3)な「語りえぬ」ものであると位置づける。
[価値]は世界の外になければならない。
(6.41) 命題は[倫理という]より高い次元を全く表現できない
(6.42) 倫理は超越論的である
(6.421) 例えば可能な科学の問がすべて答えられたとしても、生の問題は依然として全く手付かずのまま残されるだろう。これがわれわれの直感である。 (6.432)
私にはここにWの啓蒙主義的な特徴とトルストイの影響が感じられる。この倫理(価値)の超越論的な特性はトルストイの著書『人生論』[14]のなか、頻繁に見出せる。例えば次である。
理性的な意識の発生について己に問う時、[...]時間的にも空間的にも自分には全く無縁な、時に何千年前も前に世界の向こう端に生きていたような理性的な存在の意識と一つに融け合ったものとして意識するのである。 [14, p.56]
何世紀もたって、人々は今や、天体からの距離を知り、その重さを測定し、太陽や星の成分を知っているのに、個人の幸福の要求と、その幸福の可能性を排除する世界の生命とをどのように調和させるかという問題は、大多数の人にとって、五千年前の人にとってと同様、いまだに未解決のまま残されている。 [ibid, p.99]
トルストイは、この超越論的な倫理を「理性」と呼び、これがアプリオリで普遍的な倫理的指標であると説く。トルストイはこの倫理的な理性に従うことで、動物としての生を離れ人間として真に生きることが可能になると主張する。この理性はまさにルソーを含む啓蒙主義者の理性である。『論考』に「理性」という単語は見られないが、Wが示唆する超越論的で語りえぬ倫理はこの神秘的な理性と一致し、また、この倫理的理性はWが戦場で祈った「霊」や「神」であり、そして「人生の意味」と同一視できると思われる。 ### 2. 倫理的理性と幸福 倫理的理性(価値、神)は、理性的な快苦という形で私の行為それ自体のうちに介入する。
ある種の倫理的賞罰と言うものは、あらねばならないのである。ただし、それは当の行為それ自身のうちにあるのでなければならない。(そしてまた、賞が快であり、罰が不快であらねばならないことも、明らかである。)(6.422)
また、私にとって快楽は善であり苦痛は悪である。倫理的理性と私の善はトートロジーの関係にある。(倫理的理性→倫理的快楽)→私の善。そのため、この倫理的理性に私の「意志」(\*4)は影響を受ける。なぜなら、「私の意志」は私にとっての善を求め、かつ、この倫理的理性がその善を啓示するからである。このアプリオリな倫理に従い、自らを「義務」づけることによってこの善に至る。また倫理的理性という普遍でアプリオリな善によって倫理的命題(「~を為すべし」)は基礎付けられ意義を得る。 #### 私の意志 ここで初めて登場する「私の意志」とは、世界を変化させるものである(6.43)。しかし、論理空間に手を加えて直接変化させるということではない。意志とは「生きる意志」[12, p.265]である。この意志によって、いわば無色な私の世界を彩ることによって変化させる。ここで「生」をふたつの意味に区別しなければならない。つまり、「動物的な生」と「理性的な生」(トルストイが言う「動物的個我」と「理性的意識」)のふたつである。ふたつの生は対立しており、これを自覚することによって「やりきれない自己矛盾」[14, p.52]や「自分が二つに分裂」[ibid, p.51]したのを感じるのである。「動物的な生」とは、人間に根源的な「生きる意志」である。戦場で砲撃を受けるWが「私はもっと生きたいとこんなにも思う」(MS103 in [7, p.144])と表現するものである。しかし、これは同時に「「罪」であり、分別のない生であり、偽りの人生観である」[ibid, p.145]。この動物的な意味で生きる意志は、人間であることから遠ざかるため「悪しき意志」であると言える。しかし、人間は倫理的理性がもらす理性的快楽を知ったとき、初めて「理性的な生」を知る。そして、この理性に従い人間として生きる意志こそ「善い意志」である。 #### 幸福に生きよ この倫理的理性を指標にした善き意思によって彩られた私の世界が私の「生の世界」である。また、このように、私のこの世界において自由と幸福を得る。しかし、逆に、倫理的理性という光に逆らって対立する動物的な生という悪しき意志で私の世界を彩ることは、人間としての生から遠ざかりすなわち不幸である。二つの世界は、同じ世界を土台としていても全く異なる意志で彩られている。そのため:
幸福な世界は不幸な世界とは別物である(6.43)
このようにWにとって生きることとは倫理的理性という超越論的価値に照らされて初めて成立する理性的に「人間」として生きることに他ならない。このように、Wの倫理学は全体的に宗教的、神秘的な特色を持っている。そして、それは次の言葉にまとめられている。
幸福に生きよ!「草稿」 in [7, p.157]
### 3. 永遠の相の下に現れる理性という神秘 倫理的理性は、私の世界に超越論的に倫理的快苦をあたえるだけなので、志向することも語ることもできない。しかし、私の意志が倫理的理性にしたがっているならば、その善い意志で彩られた私の倫理的世界のその細部にいたるまで倫理的理性という神秘が遍く覆っている(ここにスピノザ的な汎神論的精神を感じる。)。そのため、世界の中をいくら眺めてこの神秘を把握することはできない。それは、地面を這う人間が地球を球体だと把握できないのと同じである。
世界がいかにあるかは、より高い次元からすれば完全にどうでも良いことでしかない。神は世界のうちには姿を表しはしない。(6.432) 神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。(6.44)
Wは世界全体を捉えることを、「永遠の相のもと」(6.45)(\*5)に世界を捉えると表現する。 永遠の相の下に世界を捉えるとは、世界を全体として捉えることに他ならない。限界付けられた全体として―限界付けられた全体として―世界を感じること、ここに神秘がある。 このように、自らの世界そのものを対象化しひとつの芸術作品のごとく全体を眺めることによって([7, p.155])、生の世界の本質的条件である神秘、つまり倫理的理性は現れる。これは、倫理的理性もしくは神という「超越存在」そのものではないが、私の意志を通して間接的に現れる神に他ならない。 ## 最後に Wにとって、哲学とは、命題を分析することによって命題を明晰化し無意味なものと有意味なものに分けるという「運動」である。そのため、哲学とは言語批判である、というのである。ここまでで、論理空間という可能性のすべてを包括する、思考の限界とそれに内包される有意味な命題をみた。そして、この論理空間に包括されぬ命題は語り得ぬ神秘的でナンセンスなものである。それは、自我、論理、倫理であり、自我と論理はなにかを語るための条件であるがために語りえず、そして倫理もまた生の世界の超越論的な根本条件であるために語りえない。この結果、当初の目的である、「語りえるのもの」と「語りえぬもの」の峻別は終わった。 そのため、謎は存在しない(6.5)。そして、次の有名な句で『論考』を締めくくる。
語りえぬものについては、沈黙せねばならない(7)
以上により、『論考』は論理空間を確定することでその空間の外側である神秘や倫理の領域にアプローチした。そしてこの否定神学的な方法論によりそれらを「語りえぬ」領域として確保したのである。 しかし、すでに少し触れたが、『論考』には要素命題の相互独立性という決定的な誤謬が含まれている。加えて、操作の反復適用が無限を意味する($fa\wedge fb\wedge fc\cdots$)というドグマも含む。この誤謬やドグマに自ら立ち向かうことで言語ゲームや家族的類似性といったWの後期の哲学が始まる。 ## 注
  • \*1. Wの倫理には、それぞれの解釈者がどれも異なった解釈を示しておりここでも独自の解釈になっている。
  • \*2. トルストイの福音解釈は、既存のキリスト教における常識を真っ向から批判するものである。たとえば、現実では到底考えることができないような奇跡はすべて虚偽であるとし、また、キリストが意図していない儀礼はすべて教会の権威付けのために存在するものと非難する。トルストイは、これらの形式はすべて否定し、宗教の本来の意義を抽出する。それはつまり、人生に意味をあえるものとしての宗教の重要性を説く。
  • \*3. このtranszendentalの訳し方は解釈者によってことなる。通常、transzedentalは超越論的と訳し、また、野矢[12]の訳でも超越論的と訳す。 他の多くの解釈者は、論理におけるtranszedentalと倫理におけるtranszedentalを明確に区別する。それは、論理においては、示しえるが語りえないものであるため「超越論的」であるが、倫理においては示すことができず語りえないものであるため「超越的」である。しかし、倫理的快苦によって超越論的に私の世界に介入してくるものと考えそのため、ここでは超越的と訳さずそのまま超越論的と記す。
  • \*4. 私とは私の世界だった。私の意志とは私の世界全体がもつ意志である。そのため、私の世界について語りえなかったように、私の意志についても語りえない(6.423)。
  • \*5. sub specie aeternitas 。これはスピノザの言葉である。
--- ## 参考文献 1. Wikipedia. Wittgenstein on Russell's Paradox. (最終アクセス 2013/09/03) 1. Stanford Encyclopedia of Philosophy. Wittgenstein's Logical Atomism. (最終アクセス 2013/09/03) 1. Thompson C. 1997 'Wittgenstein Tolstoy and the meaning of life' Philosophical Investigations、20(2) 97–116 1. 飯田隆 (編集)、『ウィトゲンシュタイン読本』、法政大学出版局、1995 1. 飯田隆 (著)、『言語哲学大全〈2〉意味と様相 (上)』、勁草書房、1989 1. エイヤー, A. J. (著)・信原幸弘(翻訳)、『ウィトゲンシュタイン』、みすず書房、1988 1. 鬼界彰夫 (著)、『ウィトゲンシュタインはこう考えた-哲学的思考の全軌跡1912~1951』、講談社、2003 1. 黒崎宏 (著)、『ウィトゲンシュタインと「独我論」』、勁草書房、2002 1. 竹尾治一郎 (著)、『分析哲学入門』、世界思想社、1999 1. ダメット, M. (著)・野本和幸(翻訳)、『分析哲学の起源―言語への転回』、勁草書房、1998 1. 永井均 (著)、『ウィトゲンシュタイン入門』、筑摩書房、1995 1. 野矢茂樹 (著)、『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』、筑摩書房、2006 1. フォン・ヴリグト, G. H. (著)・服部裕幸 (監修)・牛尾光一(翻訳)、『論理分析哲学』、講談社、2000 1. トルストイ (著)・原卓也(翻訳)、『人生論』、新潮文庫、1975 1. ウィトゲンシュタイン(著)・野矢茂樹 (翻訳)、『論理哲学論考』、岩波文庫、2003
First posted   2009/02/04
Last updated  2009/03/12
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