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# 後期ウィトゲンシュタイン「哲学探究」#2 クリプキのウィトゲンシュタイン ## ウィトゲンシュタインのパラドックス (クリプキによる解釈) ## 懐疑論的問題(Sceptical problem) ウィトゲンシュタインは『探求』の(§185)においてある奇妙な数列の問題を提示する。ある教師が 2,4,6,8...という数列を 教えていた。しかし、ある生徒が 100 を超えてから、100,104,108...という法則と異なった数列を言い出した。そして、 彼にとって、生徒も 100,104,108...という数列が「自然」であり「規則的」なのであるという。この例が示すことは、この生 徒に彼がどのように誤っているのか、そして、また、我々が自然と感じる数列の正しさの根拠を説明できないということ である。我々は、生徒の奇妙な数列とは異なり、100,102,104...という数列を自然であると感じるがなぜそのように感じ るのだろうか。 クリプキもクアスという常識(プラス)とは異なった加法法則を想定することによってこのパラドックスを表現する。我々は 通常 57+68 の答えが 125 であるということに確信を抱き、通常の加法法則(プラス)に従うことに何ら疑問を抱かない。 しかし、クリプキはまた⊕ (クアス(Quus)と呼ばれる)によって記号化される別の規則を仮定した。それによると、x ⊕ yは、 x と y がともに 57 未満のときは x + y、そうでないときは常に 5 に等しい。いま、ある人が 57 と 68 の和を一度も計算し たことがないと仮定しよう。クリプキはこの仮定から、その人の心的事象や過去の行動はいずれも、彼が実際にその 足し算を行う前に、彼がどちらの規則に従うかを決定しないと結論した。 $$ x⊕y::= \begin{cases} x+y & \text{if}\ x,y < 57 \\ \cr 5& otherwise \end{cases} $$ 数列問題を生徒にも自分にも説明できないということは、またプラスが正しくクアスが間違っていると根拠付けられない ならば、そもそも正否の基準である規則 (真理条件)というものなど始めから存在しないのではないかという懐疑論的 結論に達する。教師が正しいのは彼が多数派で生徒が少数派だからであり、つまり 我々は、他者が従っている根源 的な規則(e.g. 奇妙な数列)を規則があるかどうかさえ本質的に知ること(解釈すること)はできないのである。クリプキが 言うには「何らかの語で何らかのことを意味すると いうようなことはありえない。」という自己破壊的な懐疑論的結論に 至るのだ。我々のパラドックスは、ある規則がいかなる行動の仕方も決定できないであろうということ、なぜなら、どのよう な行動の仕方もその規則と一致させる ことができるから、ということであった。その答えは、どのような行動の 仕方も規則と一致させることができるのなら、矛盾させることもできる、ということであった。それゆえ、ここには、 一致も矛盾も存在しないのであろう§201## 懐疑論的解決(Sceptical solution) ウィトゲンシュタインは(クリプキによると)この懐疑論的問題に懐疑論的解決によって答えようとする。懐疑論的解決と は例の生徒にについての何らかの事実 を見出そうという考えを放棄し、プラスが真理条件(truth-condition)であると いう事実が存在しないことを認め、その代わりに彼は、これら が同様な場合に主張され、またこれらがどのような役割 や有用性を持っているのか(主張可能性の条件(assertability-condition): この条件の下、人は文章の意味を真実と判 断する)を問わなければならないという。 我々は通常の加法法則や数列が正しいという根拠付けを十分にできないのにも関わらず、それらになんら疑問を抱 かない。しかし、原因をその結果の間に存在す るとされる必然的結合は我々の心理的習慣に根ざすものに過ぎない のである。そして、そのような結合が恒常的ありつづける論理的保証がないにもかかわらず (帰納法批判) 、それに対 する我々の信念を我々の習慣によって根拠付け、かつ擁護する(ヒュームと類似する見解)。 なぜ我々が一般的な数列や加法の法則に従うことが正しいということを判断するのかというと、それらの使用は共同体 の中でずっとそのように教え、伝えられて きたのであり、これが我々の知る唯一の使用法だからである。そしてその共 同体の一致が習慣となり、やがてそれが正しいという規範性を獲得したのだ。そして すべての個人の言語の使用法 はそれが正しいかどうかを共同体によってチェックされる。(「意味を理解しているならば、言葉を正しく使う」をその対 偶「言葉 を誤って使うならば、意味を理解していない」に転倒し、審査される) そしてクリプケンシュタインは個人間での言語の使用は有り得ないという、§243 以降で繰り広げられる私的言語批判は実はここで提示されていると言う過激 な結論を主張する。
「それなら君は、何が正しくて何が誤っているかを決定するのは、人間たちの一致だというのか」――― 正し かったり誤っていたりするのは、人間た ちが語ることだ。しかし、その言語において、人間たちは一致してい る。それは意見が一致するということではなく生活形式が一致するということなのである。§241ウィトゲンシュタインの解釈とクリプキの関数解釈は異なるものである。そのため、別の哲学とされ、ウィトゲンシ ュタイン解釈では無視された。 --- ## 参考文献 1. McDowell J. 1984 'Wittgenstein on Following a Rule' Synthese 58:325-364 1. エイヤー, A. J. (著)・信原幸弘(翻訳)、『ウィトゲンシュタイン』、みすず書房、1988 1. 鬼界彰夫 (著)、『ウィトゲンシュタインはこう考えた-哲学的思考の全軌跡1912~1951』、講談社、2003 1. 永井均 (著)、『ウィトゲンシュタイン入門』、筑摩書房、1995
First posted 2008/10/08
Last updated 2012/03/21
Last updated 2012/03/21