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# 後期ウィトゲンシュタイン「哲学探究」#3 規則に従う ### クリプキ批判と「規則に従う」の発見 しかしクリプキの主張をみてみると、§201 の後半をまるまる無視していることが分かる。それを見てみるとクリプキが言及するような懐疑論的パラドックスや懐疑論的解決など主張しておらず、逆にウィトゲンシュタインは明確にそのパラドックスは「誤解」を基としていると言い、その考えを排除している。しかし「此処には、一致も不一致も存在しない」と言うとすれば、そこには、ある誤解がある。このことは、我々はその思考過程において解釈に次ぐ解釈をしていると言うことの中に、すでに示されている。このことを通して我々が示すことは、こうである:規則のある把握があるが、それは、規則の解釈ではなく、規則のその都度の適用において我々が「規則に従う」といい「規則に反する」と言うことの中に現れるものである。§201このようにクリプキが言うパラドックスやそれの解決法などはウィトゲンシュタイン自身が主張しているものと異なると多くのウィトゲンシュタイン研究者は考える。違う言い方をすればクリプキの解釈は懐疑論的結論を根底に置き、そのためにクリプキのウィトゲンシュタインは真理条件の代わりに正当化を可能にする主張可能性の条件を我々の理解と意味づけのために探していると言うのである。しかし、McDowellによると、ウィトゲンシュタインは実在論的な我々の理解の根底となる客観的価値の存在に否定的である。しかし、それはクリプキが言及するような懐疑論的パラドックスを容認するための議論ではない。」(McDowell 1984)。McDowellが言うにはそのパラドックスの正しい解決法はクリプキのように懐疑論的根底を認めたうえで解決するのではなく、そのパラドックスを成立させる根底そのものを解体することであるという。つまり、規則のある把握があるが、それは、規則の解釈ではなく規則に従うことであるのだ。 ここで、我々の言語を規定する基盤が姿を見せる。我々は、自然と思うような数列を規定する規則を自ら信じて意図的に従っているのではなく、盲目的に規則に従い実践しているのである。我々はこのような盲目的に規則に従うことを自然で規則的であると感じ、これに反することに違和感を感じる。このように、ある規則を志向しそれを意図的に選択するのではなく、盲目的に規則に従いそれを疑うということが考えられないほど無意識に前提とされていることを、「規則に従う」という。
「規則に従う」ことはひとつの実践である。そして規則に従っていると信じていることは、規則に従っていることではない。だから、人は規則に「私的に」従うことはできない。さもなければ、規則に従っていると信じていることが規則に従っていることと同じことになってしまうだろうから。§202
「いかにして私は規則に従うことができるのか」-もしこれが因果関係に関する問いでないのなら、それは私が現にこのように規則にしたがっていることを正当とする根拠の問いである。正当化の根拠を尽くしたとき、私は固い岩盤に突き当たってしまい、私の鋤は跳ね返される。そのとき私はこう言いたくなる、「ただ私はこのようにやっているだけなのだ§217
人は規則の働きをどれだけ記述できるのだろうか。規則をマスターしていないものに対して私は訓練することしかできない。しかし私は自分自身に対して規則がいかに働くかをどのように説明できるのだろうか。ここで難しいのは根底まで掘り下げることでなく、われわれの前に横たわっている根底を根底として認めることである。数学の基礎: part6, §31「規則に従う」は我々の言語ゲームを支える根底であり基盤である。我々がごく自然に従っている言語の規則に関して、我々は説明することができない。なぜなら、我々は、盲目的に規則に従っているだけだからである。そのため、数列を間違える生徒のように、我々とは異なった「規則に従う」をもつ人物に対して、説明ではなくただ訓練することによって我々と同じ規則に従わせるほかないのである。 ### 規則に従うとはなにか このように、ウィトゲンシュタインは、数学や論理学などの厳密性を反自然史的観点(プラトニズム)においてではなく自然史的観点において捉える。つまり、数学や論理学などを支配する規則であっても、ある普遍的な規則が人間を導いたのでも、誰かが取り決めた規約に意図的に従っているのではない。規則が我々の言語ゲームに先んじて存在しているのではなく、共同体において言語ゲームが実践として成立しているという事実がメタ規則として存在し、そして、我々は、それにただ従っているのである(規則とゲームの逆転)。「そして、また、異なる共同体における「規則に従う」を獲得することはできないとすることによって、数学や論理学がもつ必然性と規範性を確保するのである。」[鬼界, pp.291-295] ### クリプキ擁護 近年、クリプキ解釈を見直そうという動きも見られる。George Wilson はそれらクリプキ擁護者の一人である。彼の議論を簡単に記述すると、Wilsonは、クリプキのウィトゲンシュタインが二つの異なったパラドックスの解決法を主張しているという。それは基本的な懐疑論的解決(basic sceptical solution)―これが意図するのは私に関する正誤判断を生む事実は何もないということ―と、過激な懐疑論的解決(radical sceptical solution)―これによると今まで誰も何も意図したことはなかったということ―である。Wilsonによると、クリプキは基本的な懐疑論的解決を認めていたが、過激な解決法のほうは除外している。そして、クリプキ批判者は『哲学探究』を読み違えていると言う。 --- ## 参考文献 1. McDowell J. 1984 'Wittgenstein on Following a Rule' Synthese 58:325-364 1. エイヤー, A. J. (著)・信原幸弘(翻訳)、『ウィトゲンシュタイン』、みすず書房、1988 1. 鬼界彰夫 (著)、『ウィトゲンシュタインはこう考えた-哲学的思考の全軌跡1912~1951』、講談社、2003 1. 永井均 (著)、『ウィトゲンシュタイン入門』、筑摩書房、1995
First posted 2008/10/08
Last updated 2012/03/21
Last updated 2012/03/21