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# 後期ウィトゲンシュタイン「哲学探究」#4 私的言語批判 ### 一般的な言語概念 我々は一般的に言語とは記述/記号であると考える。デカルトは内面と外面、つまり心と体をはっきりと区別する。そして内面にアクセスできるのは本人だけである(私秘性)。我々は「痛み」を内的に経験し「痛み」の概念を知る。そして「痛み」という獲得した概念を用いて事態を記述する。言語は感情または感覚を表現する道具である。また「私は痛い」と「彼は痛い」の違いは直接的記述と間接的推測の違いであると考える「痛み」とは自分の直接的体験の名称である。 ### ウィトゲンシュタインによる言語概念(「規則に従う」) 私的言語とは我々の言語から逸脱したものであるのだから、まず我々の言語とは何という問題を明確にしておきたい。ウィトゲンシュタインによる言語とは共同体の制度・規則の下行われて始めて意味を持つ。(親が子に命名するというのが規則だから親は命名することができる。しかし他人は命名できないのは規則に反するからである。)言語とは共同体の一致によって生まれる制度であり、どのような状況でどのような人間がどのような対象に命名でき、その後どのように使用されるか規則によってあらかじめ決定されている。そして、それらの制度の外で行われる行為は意味を持ち得ない(共和国での戴冠式、右手から左手への現金の受け渡し§268)我々はこの原規則ともいえるものを共有しているため、言語理解を共有でき、また言語ゲームを行うことができるのである。 ### 私的言語の定義 (§243) しかし、私が言わんとすることは、そのことではない。私が考えている言語(私的言語)の語は、話しては、自分だけに生じる特有の感覚を指し示そうとして独自の表現を使うのだが、その表現が他人には伝わらない。(§243) この「話しては、自分だけに生じる特有の感覚を指し示そうとして独自の表現を使うのだが、その表現が他人には伝わらない」と想定された「私的言語」といったものは果たして可能なのだろうか。 ### 私的言語の想定1 表出なき「痛み」の言語ゲーム(天才児の例) 私的言語の可能性を考察するためにウィトゲンシュタインは§257で内的感覚として、「痛み」は存在し自分でそれに名前を付けるが外的表出を行わない天才児を想定する。「仮に人間が痛みを表出しない(うめかない、顔を歪めないなど)としたならば、どうであろうか。その場合には、「歯痛」という言葉の用法を子供に教えることはでき名だろう。」 ――それでは、その子供が天才児で、自分でその感覚に対する名前を発明すると、仮定してみよう ――しかしその場合、もちろんその子は、その言葉を使うとき、相手に理解してもらうことはできない。§257実はこの“感情を表出しないが、自分で感情に名前を付ける”という天才児を想定すること自体成立しない。なぜなら「私は痛い」という発話は状態の記述ではなく、痛みの「表出」であるからだ。(ちなみに「痛かった」は過去の記述であり表出ではない。)我々は他人の感情をその「表出」から知るのであり、また感情は表出を伴うことを言語の前提としている。つまり我々は自己の状態を他人に知らせるために、(赤ん坊がするように)泣いたり、叫んだりする自然的表出が備わっている(またそれが偽りではないということを言語の基礎としている「乳飲み子は微笑を偽装しない」(§249))。ウィトゲンシュタインによると我々が「痛い」と発話するのはその自然的表出の代わり(もしくは発展したもの)であるという。「私は痛い」という発話において、痛みの感覚、自分の状態の認識、訴える態度、そして言葉と身振り、これらは一体のものとして存在する。例えば言葉を覚える以前の子供は、「痛み」を感じているかどうかを、他人だけが知ることができ、自分は知ることができない、という場合があり、その逆の場合はない。大人は子供の置かれた脈絡と表出から「私は痛い」という語を覚える。このように自分の内的常態を他人が知っており自分が知らないという段階があったのであり、子供は自分の状態を他人から教えられて学ぶのである(§244)。ウィトゲンシュタインはゲーテを引用してこう主張する:反応が言語ゲームの起源であり、原始的形態である。より複雑な形態はそこからのみ成長する。言語とは精錬である、と私は言いたいのだ。
はじめに行為ありき §290そのため、感覚を持っていながら表出を行わないという人々を想定することは間違っている。なぜなら彼らは我々とは根本(感情に「表出」が伴うか否か)から異なっているため、我々にとっての「痛み」と彼らにとっての「痛み」が一致するすら不明であり、宇宙人を想定し考察するに等しく言語ゲームは成り立たない。よって表出のない「痛み」という想定自体無意味なものであるのだ。よってこれを私的言語の想定とするならば、それは不可能である。 ### 私的言語の想定2 我々の言語から逸脱した感覚(「感覚日記」の例) ウィトゲンシュタインは次の説で天才児の例よりも我々の言語からの逸脱の度合いを掘り下げた「感覚日記」というものを想定し私的言語に迫る。
次のような場合を想像してみよう。私はある種の感覚が繰り返し起こることについて、日記をつけようと思う。私はその感覚に記号「E」を結び付け、その感覚を持った日には、カレンダーに「E」を書き込む。この想定における感覚「E」は我々の言語に属していないので、先の天才児の想定よりも突っ込んだ想定であるといえる。 ### 「感覚日記」の客観性欠如による私的言語の否定 この「感覚日記」は「私的言語」の典型とみなされ、その不可能性を指摘される。それはこの私的言語「E」は記憶と直感的判断によってでしか過去の「E」と統一のものか判断することはできず(自己正当化)、客観的な基準が欠如し、その結果、正誤の区別がないというものである。言い換えれば、これは私的言語が規範性を持たないことであり、言語とは呼べないと言うことを意味する。(§258) このように私的言語が自分の判断を自分で正当化するという、客観性を欠いた無意味なものであることは、新聞の記事を確かめるために同じ日の新聞を何部も買ったり(§265)、橋の強度実験(§267)を想像において行うことに等しいと主張する。よっていかにそれが私的感覚「E」であろうとも、私的言語における命名(e.g. 感覚「E」)は共同体から逸脱しており、規則の土台である「規則に従う」を共有していないため命名ではなく滑稽なパロディになってしまう、 ### 「感覚日記」=「私的言語」という捉え方に対する批判(「感覚日記批判」批判1) 上の「感覚日記」批判は「感覚日記」は「私的言語」であると言うことを前提としているが、この想定における感覚「E」(我々を共有しない感覚の名称)でさえも我々の言語の枠組みから逸脱していない。つまりいかに「E」であろうとも、それが感覚であるという想定を否定することはできず「感覚」という規定は我々の言語に属する。よって「感覚日記」が「感覚」日記であるかぎり「我々の言語」の圏内にあり「私的言語」ではない。 よって「感覚」の文法に従えば「感覚」とは本質的に私的(主観)なものであり、他人と共有できない(ペイシェンスの例§248)、よって「E」が痛みやかゆみなどの現存する感覚に当てはまる必要はなく、全くの特殊な感覚であをうとも「感覚」という前提を持つ限り「私的感覚」では有り得ない。これは我々の言語における感覚の言語ゲームの拡張である。 「E」を感覚の名前だと呼ぶことには、いかなる根拠があるか? つまり、「感覚」というのは私たちの共通言語の語であって、私だけが理解できる言語の語ではない。ゆえに、この語を使うには、全ての人が理解する正当化が必要である。 ―― それゆえまた、「『E』は感覚である必要はない」とか「彼が『E』を書くとき、彼は確かに何かを持っている ―― ただ、私たちにはそれが何であるかまでは言えない」などと言っても、何の役にも立たないであろう。そう言ってみたところで、「持っている」とか「何か」という語もまた、私たちの共通言語に属しているのだから。 ―― そのため、哲学する際、ついには分節化されていない不明瞭な音声だけを発したくなる段階まで到達するのである。 ―― しかしそのような音声は、特定の言語ゲームの中においてのみ、一つの表現になる。今や、その言語ゲームが記述されなくてはならない。 (§261) ### 言語ゲームの無根拠性(「感覚日記批判」批判2) 加えて「我々の言語ゲーム」とはもともと「規則に従う」(メタ規則)を基にしているのであった。そしてこの「規則に従う」も心理的一致や恒常性を本質としているのだから、感覚「E」となんら変わらないのではなかろうか?つまり感覚「E」の無根拠な恒常性を批判するのなら、それは「我々の言語ゲーム」にも言えることなのである。 ### 私的言語はあるか 上の想定と議論によって、それぞれの仮定は我々の言語に回収されるか、全く無意味なものであるかのどちらかに振り分けられるということが分かった。このことは我々は「私的言語」にたどり着けないないことを意味している。よってそれを明確に否定することも肯定することもできないのである。しかし我々は「私的言語」の想定を繰りかえしすることよって、たどり着けない「何か」があることをおぼろげながら知るのである。そしてその「何か」とは「私的言語」にほかならないのではなかろうか。 --- ## 参考文献 1. 入不二基義 (著)、『ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか』、日本放送出版協会、2006
―― [ウィトゲンシュタイン] まず私が言いたいのは、この記号の定義を述べることはできないということである。
―― [対話者] だがそれでも、私は自分自身に対しては、その定義を一種の直示定義として与えることができる!
―― [ウィトゲンシュタインが言う。] どのようにして? 私はその感覚を指し示すことができるというのか?
―― [ある人が言う。] 普通の意味ではできない。しかし、この記号を言うか書くかする際に、この感覚に注意を集中することによって、いわば、内面に向って指し示すことによって。
―― [ウィトゲンシュタイン] しかしそのような儀式は何のためにあるのか? というのも、それは儀式としか思えないからだ! 定義というのは、記号の意味を確定することに役立つものだ。
―― [ある人が言う。] いや、それこそ注意を集中させることによってなされるものだ。というのも、それによって私に記号と感覚との結びつきが刻まれるのだから。
―― [ウィトゲンシュタイン] だが「私に刻み込まれる」が意味しうるのは、次のことでしかない。つまり、この過程の作用によって、私は将来においてその結びつきを正しく思い出す、ということだ。しかし今の場合、私は正しさの規準をもっていない。人はここで言うだろう。私にとって正しいと見えるものは何であれ正しいのだ、と。そしてそれは、この場合「正しい」ということについて語ることはできない、ということに他ならない。 §258
First posted 2007/04/01
Last updated 2009/01/28
Last updated 2009/01/28