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# ウィーン学団の哲学#1 検証原理と還元主義による基礎付け ## 1. 検証可能性(verifiability) マッハから実証主義の精神を継承しつつウィトゲンシュタインから論理的な方法論を取り入れたウィーン学団の論理実証主義者たちは、緒科学がもつ命題群に対し論理的厳密性を要求した。 そして、それによって科学を峻別することを目的とし形而上学の排斥を目指した。 論理実証主義は、まず、理論を構成する命題を分析、つまり命題の論理構造を解明し原子命題(要素命題)に分析した。 そして、この個々の命題の真偽の検証(verification)を行えて初めて当初の命題は有意味なものであると主張した。 この検証を行う原子命題を`プロトコル命題(protocol sentence)`または観察命題と呼んだ。 つまり、この命題の真偽の`検証可能性(verifiability)`が有意味な命題の条件であり、逆に、真偽の検証が不可能な命題は無意味である(「検証可能性のテーゼ」「検証原理」)。 また、このナンセンスな命題には、判断を行えないため学問の領域ではないとし切り捨てる。 このように、論理実証主義は、検証を行えぬ領域に対し不毛な議論を展開するのではなく、それは“経験的に無意味”なものとするところに特徴がある。 そして、ナンセンスとする命題には形而上学、美学、神学、倫理学などの命題が含まれる。 例えば、ある科学のにおいて主張される言明をAという論理式に変換する。このAは、(p & q → r)という形をしているとする(p,q,rは原子命題とする)。Aの真偽の判定は、原子論理式の真偽を検証が必要である(ただ、例えばrが真の時やpが偽の時など、Aの真偽判定に必ずしも全ての原子論理式の検証が必要とは限らない)。 ### 総合判断と分析判断 命題に対し真偽判定の可能性を要求する検証可能性理論は、論理実証主義の代名詞といってもいい屋台骨である。 真偽の検証方法は二種類ある。 それは伝統的な分類で、`アポステリオリな総合判断`と、`アプリオリな分析判断`である。 なお、カントが主張する第三の判断であるアプリオリな総合判断は認めない(ヒュームに回帰)。 - アポステリオリな総合判断とは、現実世界の経験によって命題の真偽の判定を行うものである。 これは、自然科学が採用する手段であり、仮説を立てて実験によって帰納的に実証する方法である。 これによって仮説(命題)は真となり法則が確立される。 - 他方、命題には無条件で真偽の判断が行える分析判断というものがある。 それはトートロジー(恒真命題)と矛盾(恒偽命題)とよばれる。 トートロジーは、例えば(A&B→A)などの推論する側(A&B)が推論される側(A)に含まれているため、常に真となる命題であり、そして、矛盾はこれの否定であり常に偽となる命題である。 言い換えれば、命題は語が持つ意味(規約)を明晰化することによって真偽の判定を分析的に行うことが可能である。 例えば、「独身者は結婚していない者である」はトートロジーであるため必然的に真である。 なぜならば、「独身者」という述語の意味には「結婚していない者」という意味が“規約”によって含まれているからである(\*1)(\*2)。 日常言語は非常に曖昧で多義的であるが、論理実証主義者たちは、**語に与えられる意味を厳密に分析(意味論的分析)することによって命題の真偽の判定をおこなえる**という理念(幻想であったが)を持っていた。 ### 哲学の役割(言語批判) 命題を区別する手順として、まず命題を分析することによってそれに含まれる混乱や誤解を除去した理想言語(概念記法、一階述語論理)に還元する。 そして、それが、(C)変装した経験によって判断できる命題であるばらならば総合命題で、(D)もしそれが変装したトートロジーもしくは矛盾であるならば経験的判断を介さずに無条件に真偽の判定が可能である分析命題となる。 そして、その何れでもない命題は、(B)検証できない命題であるため無意味な命題として切り捨てられる(この切り捨てるというところがウィトゲンシュタインとは大きく異なる)。 このように、検証可能性というリトマス試験紙によって命題を区別し、その命題を担当する(A)科学と(B)非科学を峻別する。 そして、検証できる命題群において(C)総合判断による真偽の判定は、自然科学の領域においてなされ、経験できない形而上学的命題は排斥される。 そして、二つ目の(D)分析判断はトートロジーや矛盾によって真偽を判定するため、これは論理学の任務となる。 そのため、哲学に残された仕事は、判断ではなく命題の分析であり、つまり、言語を明晰化し曖昧性を取り除き、この分析された命題をB,C,Dのいずれかに振り分ける運動・活動であるという。 これは、ウィトゲンシュタインがいう「すべての哲学は言語の批判である」が意図することであるとウィーン学団は解釈した結果である。 ただ、このような論理実証主義者の極端な発想は、ウィトゲンシュタインの『論考』に由来するが、本来、倫理的・神秘的な領域として守りたかった検証不可能な「語り得ぬもの」の領域を無意味として切り捨てるこの哲学運動にウィトゲンシュタインは批判的な態度をとっていた。 ### 意味の検証理論 上に見たのは主に、科学の区別や物理主義という論理実証主義の科学哲学の側面である。 そして、検証可能性説は、科学の峻別だけでなく、命題の意味を明らかにするという言語哲学の側面ももつ。 シュリックが主張するところによれば、「個々の命題の意味は、その命題の検証条件と同一視される」である。 これは、実際、命題の意味を見分ける便利なテストである(このテーゼもまた『論考』に由来する)。 命題の意味は語(名)の意味の複合体であり、命題の意味を把握するには語の意味を把握していなければならない。 そして、語の意味は、`言語的定義(verbal definition)`によってもたらされるか`直示的定義(ostensive definition)`によってもたらされるかのいずれかであり、そして、**根源的には直示的定義に由来する**。 言葉を知らない子供に語を教えるのは対象を直接指し示し教えるしかない。 そのため、語の意味は経験によって与えられ、従ってそれの総体である命題も経験によって与えられるということである(\*3) 。 ## 2. 論理実証主義の還元主義による基礎付け 論理実証主義は、命題を構成する原子命題に分析してその分析された個々の原子命題を取り出し、それに対し検証を行うのだった(語の根源的な意味は指示(ostensions)によってもたらされるからである)。 しかし、具体的に「検証を行うための原子命題」(観察命題・プロトコル命題)とはどのようなものか、という基本的な問題がある。 例えば、エネルギーや月の裏側、などは直接観察できず検証することができないため(月の裏側はその後の宇宙開発を通して観測されたが)、これを含む物理学や天文学の理論は無意味なものとせねばならない。 しかし、それでは科学を擁護する論理実証主義には不都合である。 それに対し、ウィーン学団は、還元主義の立場をとって、検証可能な命題の体系(構成体系)に科学的な命題をすべて還元することにより、間接的に(エネルギーなどを含む)科学的命題も検証可能であるとし、この問題を解決しようと試みる。 ### 現象主義的基礎付け(カルナップ) カルナップは「世界の論理的構成」(1928)において、ラッセルの感覚所与説(sense datum)を導入し、外的世界についての言明・理論をすべて感覚所与命題に還元しようとする`現象主義`を採用する(還元主義はマッハ主義の影響)。 つまり、外在的な知識を感覚という内在的な知識に翻訳しようとした。 具体的には、「ここに鉛筆らしいものがある」といった感覚所与に直接言及するような感覚の総体(「基本経験」)をプロトコル命題とする。 このように、あらゆる外的な知識が還元される体系に感覚的基礎、すなわち現象学的基礎(自身の心理学的基礎autopsychological basis)を据える。 これはつまり、“外的な知識を内在主義的に基礎付ける”という300年来誰も達成できずヒュームが不可能と判断した試みに、カルナップは、現代論理学、文脈定義、集合論の助けを借りて試みたのである。 しかし、この感覚所与は、無限の多様性を含んでおり、それに対応する無限の原子命題を作り出すことは不可能であるため、理想言語に還元することができない。 加えて、感覚所与は主観的で相対的であるため独我論に陥る。 カルナップはこの独我論から抜け出すために、論理的行動主義に頼った。 つまり、他者の外形的な行動から他者の内面を論理的に帰結できると考えた。 しかし、もちろんこの心の哲学の初期の理論では「他者」という深淵な問題を解決することができず、カルナップは独我論から抜け出せていない。 したがって、カルナップの感覚所与命題を用いた内在的な基礎付けという野心的な試みは、間主観性を前提とする科学を体系付けることができず失敗に終わる。 ### 物理主義的基礎付け(ノイラート) ノイラートはカルナップとは全く異なる方向から基礎付けを試みる。 それは、すべての科学は時空秩序への言及を含むのだから、物理学の言語を原子命題とし、これにすべての学問の命題を還元する試み、`物理主義(physicalism)`、である。 このように、物理言語という理想言語を用いて、すべての科学の体系的統一した「統一科学」(unified science、 Einheitswissenschaft)を目指した。 この客観的な言語においては、他者と私は対照的であり、また間主観性が保持される。 カルナップも後にこの物理主義による基礎付けに同調するように。 これは、先のカルナップの方法的独我論から方法的唯物論への180度の転換に見えるが、ウィーン学団は、形而上学的に中立の立場をとるため(唯物論、観念論などはもともと同じものであると考える。 中立一元論)、彼らにとっては大転換でもなんでもなく、ただ適合する方法手段に変更するだけのことである。 しかし、この試みもまた大した成果も得られず失敗に終わる。 (しかし、この研究はサイバネティクスや行動科学理論に継承された。 ) ## 3. 論理実証主義の後 論理実証主義はその過激さゆえにさまざまな分野から反感をかった。 そして、実際多くの問題を内包していたため数多くの批判を受けることになる。 しかし、それだけ批判を受けるということは、それほど無視できない存在であったのも事実である。 そして、彼らに対する批判もまた重要な役目をなしてより精錬されてゆく。## カルナップ「世界の論理的構成」(メモ) 物体を意味する語(物体語)を含む文脈を感覚所与を意味する語(センスデータ語)を含む文脈に翻訳する(明示的にではなく文脈的に翻訳する)。 つまり、辞書のように語の意味を翻訳するのではなく、物体語を排除しつつ命題全体の意味を変えずに感覚所与語で補い翻訳する。 翻訳的還元。 センスデータの総体が「基本経験(要素的体験)」であり、この基本経験は不可分な全体である。 それゆえ我々は分析によって基本経験をえることはできない。 /擬似分析には、同一性記憶という基礎概念があればよい。 同一性記憶とは、我々の記憶がふたつの基本経験の間に何らかの類似を認めるとき、両者の間において成立するところの概念である。 赤い風船と赤いリンゴの内に類似する性質は赤であると記憶のうちに見出す。 同一性記憶はこの二つの領域が共有する境域の集合であり、「同一性領域」として総括される。 これが基礎概念とする。 これが擬似分析である。 このように同一性記憶によって概念世界を再構成できると考える。 --- ## 注
- \*1. このアプリオリ性を規約に帰する立場は規約主義と呼ばれる。 ウィトゲンシュタインの論理のところで少し触れている。
- \*2. クワインの「2つのドグマ」で批判される。
- \*3. この主張は、原始的意味論と分子的意味論を混同しているため不当なものであると批判された(cf. [1. p.100])。
First posted 2009/02/22
Last updated 2011/03/04
Last updated 2011/03/04