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# 構造主義#3 拡散する影響(ラカン、アルチュセール) レヴィ=ストロースの構造主義が導いた主体性の解体という考え方は、同時代のフランスに拡散する。そして、次の世代の構造主義の代表者は、フロイトの心理分析を構造主義的に見直すことによりコギト解体の傾向を押し進めたラカン、マルクスを新しく構造主義的に読み解き人間主義を排除して解釈したアルチュセール、構造主義に影響を受けてそれの記号学を文学をはじめさまざまな文化的要因に展開するバルト、そして、知の考古学と現代における権力論を展開するフーコーである。彼等のいずれもが自らを構造主義者と名乗るわけではないが、しかし、構造主義の影響を受けているものまた事実である。そして、彼等は、ただ構造主義を単純に受け入れるわけではなく、それの限界を示しポスト構造主義に向かいつつあるのも特徴的である。 ### ラカン(Jacques Lacan, 1901-1981) #### 構造主義的精神分析 構造主義の「自らは自らの主人ではない」という基本的なテーゼの源泉のひとつに、人間は「無意識」に規定されているとするフロイトの精神分析がある。そこで、ラカンは、「フロイトに帰れ」をモットーに構造主義的立場からフロイトの精神分析を再考した。つまり、彼は自我の心的状態をパロールと考え、これを考察することによって、無意識に沈殿しこの有意識を規定する共時的なものであるラング(構造)を取り出そうとする。そして、その私の心的状態というパロールを規定するラングは、「他者」であるという。「私」は「他者」によって規定される。 #### 鏡像段階(stade du miroir) ラカンはこの他者によって自己が形成される生後6ヶ月から18ヶ月の時期を鏡像段階と呼ぶ。まだ生後間もない乳児は、あらゆる感覚がバラバラに拡散しており、秩序のない混沌とした世界(現実界)に生きる。そこにおいては、自分の身体さえもバラバラにちらばる感覚に含まれており、自己というものを認識できない。つまり、乳児はコギトのような自我を持たない。そして、乳児に最初に自己を知らしめるのは、鏡に映った自分の姿(外化された自己のゲシュタルト)である。つまり、意識を形成する最初の段階として、「鏡のうちにある自分」を「自分」として認識することである。この鏡のうちにある自分とは、「母親(他人)の指示する自分」の比喩であり、母親によって指示された自分の外にある自分を発見し、これと一致することによって初めて自分を獲得する。この世界を「想像界」と呼ぶ。このように、自分というものは、デカルトのコギトのようなものではなく、最初から他者によって規定され構造化されているのである。鏡の中の自分と自分を同一視するように、「自分とは、他者(母親)が指示する自分である」という段階において、自分とその自分をもたらす母親との区別がついていない。乳児における理想的な状態とは、母親との一体化である。しかし、母親の欲望は父親に向かっている。このことに気づいた乳児において父親は絶対的な存在となる(ラカン版オイディプス・コンプレックス)。それとともに、母親と一体化を望む乳児(エス)にとって父親は妨害者(超自我)となる。この絶対的妨害者の登場により乳児は母との一体化を断念せざるを得なくなり、代わりに父親の絶対的法のもとに母親と関係を結ぶようになる(自我の形成)。ここに家族の三角形が成立する(シェーマL)。 ||| |:--|:--| |現実界:|(混沌の世界、バラバラに散らばる感覚)| |想像界:|(母親に指示された自分に自分を一致させる。感覚が統合される)| |象徴界:|(父親という絶対的存在のもと言葉を獲得し、同時に秩序ある世界に入る)| #### 他者の言語が主体性を規定する そして、この法の保持者である父親は乳児に言葉を教える。世界を秩序付けるのは言語であるため、言葉の獲得によって乳児は、想像の世界から秩序ある外の世界の住人となるのである。この世界を象徴界と呼ぶ。この段階でようやく他人とおなじ主体性を獲得する。それは、つまり、表象界の秩序(構造化された言語)に無意識化で規定されることによってはじめて主体性は獲得されることを意味する。そして、無意識を支配する表象界の秩序は他人(父親)の言語によってもたらされるのである(なぜなら、乳児と母親との一体化を妨害する父親は、乳児にとって絶対的な存在者で法の所持者である)。そして、ラカンの次のテーゼが表れる:
「主体における無意識的なものは、他者の言説(ディスクール)である」このようにラカンは人間を規定する「無意識の構造」(他者の言語)を解明した。それは、フロイトを構造主義的に読み、反コギト主義をさらに押し進め主体性を解体に導くものであった。また、彼の哲学は、精神分析を土台としているため、そこから見出される構造には時間的変化が伴う。これは、構造を不変とするレヴィ=ストロースとは対立する立場であり、この影響はドゥルーズ=ガタリやクリステヴァといったポスト構造主義者に受け継がれる。
「私がパロールの中に捜し求めるのは、他者の答えである」
- 著作
- 『エクリ』(Écrits)1966
- 著作
- 『資本論を読む』(Lire le Capital)1965
あらゆるテクストは、作者の意図を超えてテクストの構造に支配されている。それは、パロールは、ラングという構造に支配されていると考える、ソシュールの構造言語学と同じ考えである。このように、作者の意図を超えたテクストの意味を読み取る方法を記号論という。レヴィ=ストロースがいうように、文化とは記号の集合である。それを用いる人は必ずしもその意味を意識しているわけではないが、その記号に常に支配されている。バルトはこのような記号論を整え構造主義的に展開する。
- 著作
- 『零度のエクリチュール』(Le Degré zéro de l'écriture)1953
- 『神話操作』(Mythologies)1954
- \*1. そのまま文章を繰り返し読むのではなく、そこに潜む微かな気配を読み取るような読み方を、徴候的読解という。それが『資本論を読む』が意味することである。この方法は弟子のフーコーにも影響を与えた。
- \*2. アルチュセールは、物事の単純化を避け複雑なものを複雑なまま捉えようとした。そして、不変の構造を見出そうとした構造主義もまた物事を単純化しているといえ、そのため、アルチュセールの哲学はすでに構造主義という枠組みを抜けているとも言える。
First posted 2009/06/17
Last updated 2011/03/04
Last updated 2011/03/04