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# 構造主義#4 構造なき構造主義 (フーコー) ### フーコー(Michel Foucault, 1926-1984) フーコーは、アルチュセールを師に持ちニーチェやハイデガーから影響をうける。彼もまた自ら構造主義者と名乗るわけではないが、彼の著書である『言葉と物』は世間で流行し、そこにおける「人間の死」といったフレーズがもととなり(サルトルなどに)構造主義者というレッテルを貼られる。確かに、前期の彼の哲学は人間の背後に人間を規定するものを想定するという点で構造主義的であるが、それらは、可変で実体を持たない存在である。そのため、彼の哲学は、構造なき構造主義などと言われるようになる。また、中期から後期においては、西洋思想を成立させているものの基盤(「権力」)を歴史的に遡り固定的であると思われいるものを突き動かすという解釈学的な試みをする。そのため、こういった中期以降の思想はポスト構造主義に分類される。 --- ### 前期フーコー(知の考古学) 前期のフーコーは知識と理性を規定する知の基盤の探求である。彼はまず、理性を取り巻く社会的要因からその理性を成立させる基盤を見出す。例えば、狂気はかつては神聖視されていたが、人はやがて集団生活になじめない人たちを非理性的・狂人であるとして彼等を沈黙に追いやり排除するようになる。そして、「理性」または「正常」という概念は、このように社会的平均に適合できない人たちを排除することによって成立している。つまり、理性的な人は、非理性的ではない人であると規定される。そして、また、この恣意的な理性という基準をもとに狂気を判断する心理学(臨床医学)などの知識体系も成立しているのである。つまり、理性・正常・知識といったものは、それぞれの時代において異なる可変な知的基盤の上に成っている。 エピステーメー(episteme) 次に、フーコーは『言葉と物』において、社会的要因は無視して諸科学の文献を徴候的に読解することによって、これら諸科学に内面的に共通する隠れた知的基盤の抽出を試みる。あらゆる時代における諸科学は、それぞれの科学を規定する「無意識的な構造」(思考様式・規則)がありこれに支配されている。この時代を支える知的基盤を「エピステーメー」といい、また、このような、知の発掘を、「知の考古学」(archeologie du savoir)と呼んだ。このそれぞれの時代において知識を規定するエピステーメーは、この社会的文化的要因によって人間が規定されていると考える点でレヴィ=ストロースの構造と共通しており構造主義的である。しかし、このエピステーメーは不変の構造とは異なり時代において変化する相対的なもの(気まぐれな断絶)である。西洋史においてエピステーメーは3つに分けることができる。 1. 16世紀(ルネサンス期)におけるエピステーメー:「類似」 何か似ているものがあればそれらの間に秩序が見出された。例えば、クルミは脳と似ているため、頭部の治療に用いられた。またこの時代は、言語と物が同列に置かれこれらの間にも類似関係が成立した。しかし、類似関係を真剣に受け止めるドン・キホーテを喜劇の主人公とすることからも見たられるように、人々は新たな知的基盤に移行する。 2. 17・18世紀(古典主義時代)のエピステーメー:比較による「分析」 この時代において、学問は類似ではなくものごとを比較し分析すること(AはBである)を知的基盤とする。フーコーは言語学、博物学、富という三つの知の領域に触れ、それらが分析という基盤の上になっていることを示す。言語は物事の分類方法(AはBである)を規定し、博物学は生物の構造を比較・分析して分類(「鯨は哺乳類である」など)し、富に関する学は事物の“価値”を比較・分析することによってそれらを分類する。この時代の分析という知的基盤は、言語を世界を表象する記号として扱うため、前時代の言葉と物を同列に扱うことからは離れているが、言葉と物の透明な関係を前提としている。この時代においては言語が透明な理性の世界を表し、そこに人間が介在する余地はない。 3. 近代(19世紀以降)のエピステーメー:「人間についての学」 富に関する学・博物学・言語学を深化することによって、経済学・生物学・文献学といった「人間についての科学」が導かれる(\*1) 。そして、それらによって科学の対象としての「人間」が浮かび上がる。それは、労働によって価値を生み出し、生命たる肉体を持ち、言語と物の透明な関係を媒介する存在である「近代の人間」である。ここにおいて人間はもはや、デカルトのコギトのような透明な理性としての存在ではない。科学が人間を対象とすることによって不透明で有限で現実的な存在としての人間が出現する。つまり、近代の人間は、認識の主体(先験的存在)でありながら科学の対象(経験的客体)という両義的立場に立つ。この両義的な人間観においてデカルトのコギトのような純粋意識としての人間という捉え方はもはや成立しえず、人間学としての哲学は袋小路に陥る。そのため、この「人間」を科学的対象とすることによって心理学・社会学・文学などの人間諸科学が導かれる。 人間の終焉 フーコーが言うように、近代における人間観は、人間主義的エピステーメーを土台とするたかだか200年たらずの歴史しか持たない。そして、また、このエピステーメーから規範・規則・システムといった概念が生まれる。これらは、人間主義的なエピステーメーから出現しながら人間の限界を構成するものに目を向ける。例えば、言語学から派生したレヴィ=ストロースの文化人類学やラカンの心理分析学である。これの対抗科学(人間は構造に規定されている存在で普遍的ではないことを明らかにする)は、構造という不変の規則のもとに人間を相対化し解体する。そして、フーコーは、言語学から派生したこのような対抗科学によって、人間としての能動性を奪われること、つまり「人間の終焉」の到来を予期している(言語に支配される人間)。 ヒューマニズム批判 フーコーによると、このように、人間を科学的対象として捉えることによって、近代の人間観が形成された。そして、これを基に19世紀におけるヒューマニズムの倫理的テーマが展開された。これはヒューマニズム・人間中心主義であり、人間を賛美する傾向である。しかし、この人間は、戦争を起こし、大量虐殺する存在であるのも事実である。そして、人間を中心に据えることによって自分本位に自然を破壊することを正当化する。このように、近代における諸科学が生み出したヒューマニズムという「人間」の概念は、人間をすべての中心に置く野蛮で傲慢なものであるとし、フーコーはニーチェのように「人間の死」を宣言することによってそれを暴露し批判するのである。
  • 著作
  • 『言葉と物』(Les mots et les choses)1966
  • 『知の考古学』(L' archéologie du savoir)1969
--- ### 中期フーコー エピステーメーはそれぞれの時代における知識を規定するものであるが、知識だけでなくそれぞれの時代における「人間」という理念(人間同士の関係や行動の規約)は、それぞれの時代のおける「権力」によって規定される。古代から中世といった時代における権力は国王や君主が握っており、それらの権力を支えていたのは、権力者に逆らったら拷問され処刑される、つまり、死と死の恐怖によって人間を管理してきた。 ディシプリン(規律権力) 現代において国王などのような死の恐怖を与える存在はいない。しかし、だからと言って人は完全に主体的となったわけでなく、現代において権力の構図は変化し、それに規定されている。近代以降の権力は、王のような中心的存在をもたず、それは、個人を「規格化」するという“社会の仕組み”である。この個人の規格化を実現するのには、「ディシプリン」(規律)が用いられる。それは、画一化された機械を作るように、人間を管理する方法である。ディシプリンは他者の「まなざし」(監視)を中心とし、「処罰」と「試験」によって成り立つ。そして、常に誰かしらに監視されているという意識により、自分がいつ見られてもいいように自らを自発的に管理し、社会において従順な人間を形成する。いわば、他に服従することによって主体性を形成する(アシュジェティスマン)。つまり、まず主体性がありそれを権力が矯正するのではなく、権力に服従することによって主体性は形成される。そして、生の権力においてディシプリンは、パノプティコン(panopticon、一望監視装置)型監獄のように監視のシステムを強化しより広範囲に適用される。そして、ディシプリンは、軍・工場・学校・病院などを秩序付け、それによって、社会とは、そこにおいて人は相互に監視しあい相互に規格化しあう監禁ネットワークを形成する監視社会となる。(学校・刑務所といったディシプリンが組織の原理となる場所は、アルチュセールがいう国家のイデオロギー装置であり、一種の洗脳装置である)。
  • 著作
  • 『監獄の誕生』(Surveiller et punir . Naissance de la prison)1975
--- ### 後期フーコー 性の歴史 知の考古学と権力論を用いて、近代における「性のあり方」を研究する。3世紀ほど前から性に関する記述が大幅に増えた。その原因は、キリスト教の性に対する禁欲的モラルから開放されたわけではなく、出生率を増加させるために国家がそれを先導したからである。それに従い、「性のあり方」(セクシュアリテ)という“正常”な性のモデルが形成された。このセクシュアリテ の成立も先に見た理性の成立と同じである。つまり、19世紀の精神医学が同性愛・少年愛など多くの性のあり方が異常な性のあり方として処罰の対象とした。そして、狂人の時のように、このような“異常ではない性のあり方”が“正常な性のあり方”であるとされ、セクシュアリテは形成された。正常な性のあり方という概念が形成されるに従って「権力」が生まれる(生の権力はたえずどこにでも生まれる)。そして、パノプティコン型監獄と同じように、人々は権力という監視システムによってこのセクシュアリテに自ら服従する。 倫理の系譜学 これに加えて、後期のフーコーは人間は、自分自身で自らの性のあり方を規定していく過程を加える(フーコーは個人は権力によって規格化されるが、その個人における主体性と自由を認めている)。それはつまり、道徳的主体としての自己実践の過程である。これの方法論に用いられるのがニーチェから受け継いだ系譜学である。系譜学とは、人間が神の視点にたち歴史を眺めるのではなく、歴史とはバラバラの出来事に与えられた解釈の集まりであるとしてテクストを読み解く方法論である。彼は、西欧におけるセクシュアリテと古代ギリシャにおけるアプロディシア(愛欲の営み)とを比較する。キリスト教において、欲望と快楽は排除すべきものであったが、ギリシャにおいてはそれは飲食のような生活的配慮のひとつであり健康との関係で考えられた。そして、また、キリスト教は人々に画一的な倫理(性の倫理)を強制するが、古代ギリシャにおいて性の倫理とは個人の問題であった(自己への配慮)。古代において道徳は義務ではなく、節制し自己を鍛錬することによって自己を磨くという一種のダンディズムといえるような美学であった。このことからフーコーは、義務ではなく自らによる自己抑制にという倫理学とダンディズム(美学)を統合した「生存の倫理学=美学」という概念にいたる。
  • 著作
  • 『性の歴史』1巻~3巻(Histoire de la sexualité) 1976-1984
  • (全六巻の予定だったが三巻でフーコーが死去)
--- ## 注
  • \*1. (経済学)「労働」が発見され富における分析から労働を扱う経済学へ。
    (生物学)単に分類するだけの博物学から「生命」を扱う生物学へ。
    (文献学)言語は自立的に世界を表象しておらず言語の基本部分は動詞によってつながれており、動詞は人間の意志といったものを媒介している。分析哲学フロイトの精神分析に分岐する。
--- ## 参考文献 1. 今村仁司ほか (著)、『フーコー (CenturyBooks―人と思想)』、清水書院、1999 1. 岡崎文明ほか (著)、『西洋哲学史 理性の運命と可能性』、講談社、1997 1. 桜井哲夫 (著)、『知の教科書 フーコー』、講談社、2001 1. 吉田禎吾ほか (著)、『レヴィ・ストロース (Century Books―人と思想)』、清水書院、1991
First posted   2009/06/24
Last updated  2011/03/04
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