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# ポストモダン#1 ポスト構造主義 ## 哲学のポストモダン ポストモダンの思想は、基本的にポスト構造主義を意味する。そして、それはその名のとおり構造主義の後の思想をまとめて括った名称であり、そのため、ポスト構造主義は、なにか中心的なテーゼを共有しているわけではないし、まとまった思想運動でもない。哲学思想におけるポストモダン(\*1)はリオタールの『ポストモダン』において次のように定式化される。科学は自らのステータスを正当化する言説を必要とし、その言説は哲学と呼ばれてきた。このメタ言説[...]に依拠する科学を、われわれは<モダン>と呼ぶことにする。[...]極度の単純化を恐れずに言えば、<ポストモダン>とは、まずなによりも、こうしたメタ物語に対する不信感だといえるだろう。『ポストモダン』cited in [2, p.5]不動の構造という`大きな物語`を標榜する構造主義は一世を風靡したが、この不変の構造という静的な考えでは大きく変化する現実の社会を捉えられず行き詰まりに突き当たった。そして、次の世代の哲学者達はこの構造主義の行き詰まりの克服を試みることによって、西洋思想を貫く「形而上学」という中心的で堅牢な建築物にいたる(構造主義もこれを前提としている)。ポスト構造主義とは、この伝統的で共通な知的基盤(メタ物語・大きな物語・形而上学)から逸脱しようとするさまざまな試みであり、また、それにともない差異化し相対化した言説(小さな物語)が拡散することである(ただしこれはあくまで“極度の単純化”であってポストモダンの思想は多岐にわたる。例えば、現象学を受け継ぐレヴィナス)。そして、また、ポストモダンの哲学は、このようにあらゆる価値が相対化する時代にどのように生きるかという倫理的側面が強くなる。 ## 構造主義の限界 レヴィ=ストロースは人間を規定する構造は「不変」の存在であると考えた。これはきわめて静的(スタティック)な歴史観である。しかし、フーコーやアルチュセールが示したように、それでは(進化ではないにしても)現実の「変化」や「多様性」というものを捉えることができない。そもそも構造主義は構造という不変の存在の下に多様性や変化を単純化する思想である。加えて、レヴィ=ストロースの構造主義は人間は不変の構造に支配されているため、サルトルの実存主義のように政治的・社会的参与という実践的な帰結には至らなかった。これは、政治や社会に参与し変革しようとすることに対しては冷淡で諦観的な態度をとる(不変の構造に支配されているならどうせ何も変わらないと考える)。これに対し、フーコーは、構造主義に偏りつつも徴候的読解や権力論によって目の前の現実に対処しようとした。このような点から見れば、彼はポスト構造主義者ともいえる。 --- ### デリダ(Jacques Derrida, 1930-2004) デリダは、ニーチェ・ハイデガーの系譜を受け継ぎ西欧思想を支える形而上学に対して批判を展開する。構造主義は人間やイデオロギーを規定する不変で客観的な存在である基盤を探求する。しかし、デリダによると、これは普遍的客観的認識を目指す点でいまだヨーロッパの理性中心主義から抜け出せていない(事実、レヴィ=ストロースの文化/自然という二項対立図は、それにヨーロッパ文化というイデオロギーが介入している)。デリダによるとこのような理性中心主義を支える思想は、人間が論理・言葉・理性によって世界の一切を捉えられるとする考えであり、これを`ロゴス中心主義`と呼ぶ(ここでのロゴスは論理や合理性といった意味だけでなく、ギリシャ語の原義である「語る」つまりパロールを意味する)。そして、このロゴス中心主義を土台として言葉によって建設された世界の模型としての建物が形而上学である。形而上学はプラトンのイデア論やヘーゲル哲学で顕著に見られる。そして、フッサールの現象学、マルクスの唯物史観などの現代哲学はこの形而上学を解体し克服しようとこころみるが、しかし、デリダによると、このような形而上学解体の試みもまた、形而上学にすぎない。そこでデリダは、これを解体するのではなく`脱構築`を試みる。 脱構築(deconstruction) デリダの哲学の中心的主題は形而上学の脱構築である。脱構築とは、対象を端的に解体したり破壊するのではなく、内側からそれの仕組みを組み替えることを意味する。 つまり、形而上学の脱構築とは、形而上学の内面に入り込み、それの問題設定そのものを組み換えてそれを成り立たなくしてしまおうというわけである。彼によると形而上学の内面においてそれを支えるものとは、「音声至上主義」(もしくはロゴス中心主義と呼ばれる)である。そして、この思考の制度的な枠組みを「差延」という概念によって書き換える。 音声至上主義(現象学は形而上学である) デリダはまず形而上学の克服を試みたフッサールの現象学のうちにこの音声至上主義が介在していることを見て取る。現象学は、古典的形而上学が前提とするような「対象そのもの」という客観的対象(物自体)に到達するのは不可能であるとして、超越論的還元によって純粋意識に到達してそれに現前する「事象そのもの」へ至る哲学である。これは形而上学に対抗しているように見える。しかし、デリダによると、この「事象そのもの」とか直感による「意識のありのまま」とか「本質」といった発想は形而上学的であるとし、これを`現前の形而上学`と呼ぶ。 この形而上学は、現象学に限らず、日常生活に紛れ込んでいる。例えば、私は「ここにパソコンがある」と言う。しかし、ただボーっと見ただけではパソコンは私の意識に現れない。私はこれを見て「ここにパソコンがある」と自分の言葉(パロール)を聴くことによってパソコンは私の意識に現れる。つまり、私は私の話し声(パロール)が「事象そのもの」を正確に表出している(私の意識と私の話し言葉が完全に一致している)と考える。そして、また、話し言葉(パロール)から書き言葉(エクリチュール)がでてきて、この書き言葉によって意味を他者と共有することができると考える(意味→話し言葉→書き言葉)。このように言語の前に客観的な意味(現象学の場合は「事象そのもの」)があり私の言葉はそれと完全に一致しており、書き言葉によってそれを他者と共有できるという考えを音声至上主義(phonocentrisme)もしくはロゴス中心主義(logocentrisme)という。
形而上学は、言語によって世界の模型を構築するため、この音声至上主義によって支えられているのである。「形而上学の歴史は絶対的な自分が話すのを聞きたいのである」「声と現象」cited in [4, p.201]差延(同一性への批判) デリダはこのロゴス中心主義における同一性という伝統的な概念を差延という彼独自の概念によって組み替える。形而上学においては、言葉の前にまず根源的・イデア的な“意味”があって、言葉はそれを「現前」していると考える(意味→言葉)。デリダはこの意味と言葉のどちらが根源であるかという問いを抹消する。なぜなら、言葉の根源であると思われていた意味(現前)と言葉はには絶えず時間的・空間的差異が存在し、それらは一致することがないからである。例えば、私が「ここにパソコンがある」と言う。この言葉が意味するパソコンはすでに過去のものであり現在のパソコンではない。自然に位置する対象(現前)は常に流転しており、言語と一致することはない。つまり、意味と言葉の同一性は常にズレている。このような言語と意味の断続的なズレを`差延(differance、differenceをもじった造語)`と呼ぶ。世界にはこのような言語の根源として意味と私の言葉には同一性といった安定はなく、それらは絶えず絡み合い(「戯れ」て)差延化している。このようにデリダは、ロゴス中心主義が支柱とする同一性に絶え間ない「ズレ」があることを見て取る。世界の根源的な現前にこのようなズレ(差延)を見出し、それによって現前の形而上学(ロゴス中心主義・音声至上主義)を内側から書き換える。これが脱構築である(\*2)。また、この形而上学は男根中心主義、ヨーロッパ中心主義の根源でもあるため、デリダの形而上学に対する批判はこれらに対する批判にも展開する(サイード、フェミニズム)。 グラマトロジー デリダは、この差延による現前の形而上学批判をテクストの読み方に展開する(逆に考えれば、「世界はテクストである」というニーチェの命題が現れる)。つまり、通常何かのテクスト読むとき、作者がそのテクストに客観的な意味を与えて、それを私が読み取っている(根源的な意味が現前している)と考える。しかし、このような現前の形而上学は差延によって否定された。作者はテクストに客観的意味など与えることもできないし、それを支配することもできない。そのため、デリダは、語り手の意図は無視して「書かれたもの」(エクリチュール)のみに集中すべきであるという。このようにデリダはパロールに代わってエクリチュールに関する学である「グラマトロジー」を唱える。なぜなら、パロールの学であるソシュールの言語学もまたロゴス中心主義に支えられているからである。
- 著作
- 『エクリチュールと差異』(L'ecriture et la différence)1967
- 『グラマトロジー』(De la grammatologie)1967
- \*1. ポストモダンとはアメリカなどの先進国の間で流行した言葉で、もともとは建築の領野の専門用語である。これは、合理性を追求したモダンの建物に対してこれを乗り越えようとする多様化する傾向である(脱近代)。この建築用語が流行し哲学や音楽・絵画・建築・歴史学などさまざま分野で用いられた。
- \*2. この同一性、分析性に対する批判はクワインの「経験主義の二つのドグマ」と類似するように見える。また絶えず、現前とした対象が変化しており、同一性を否定するのはヘラクレイトスや仏教の思想に類似?
First posted 2009/06/30
Last updated 2011/03/04
Last updated 2011/03/04