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# ポストモダン#3 ポストモダンにおける現象学 ### レヴィナス(Emmanuel Levinas, 1905-1995) 第一哲学としての倫理学 レヴィナスはフッサールとハイデガーの現象学に強く影響を受けている。そして、彼の現象学はハイデガーの「存在」の現象学に対する根本的な批判である。このように、彼は現象学から出発するため構造主義の延長に位置する哲学者ではない。そのため、彼はポスト構造主義者ではないが、ポストモダンの思想において重要な哲学者・倫理学者のひとりであるとされる。 存在から存在者へ(イリヤからの逃亡) レヴィナスは、ハイデガーの現象学においてあらゆるものに先立つものである「存在」から思索を開始する。存在とは、抽象的な存在のことで、また、存在者とは具体化した存在である(机や人間など)。彼は存在を、フランス語で「イリヤ」(il y a)と呼ぶ(日本語で「在る」、英語で「there is」)。ハイデガーにとって存在とは存在者の源泉であり、これを肯定的に捉えるのに対し、レヴィナスはイリヤを「不快、恐怖、不眠の夜(\*1)」とネガティブに捉える(\*2)。なぜなら、イリヤは時間に先立つ流れであり、それは「私」や「彼」といった存在者が成立する以前の非人称性、無差別性を本質とするものだからだ。そして、このイリヤという恐怖から脱出することにより「存在者」つまり具体的な自我となるのである。このイリヤからの脱出を「実詞転換」(hypostase)という。このように、レヴィナスは、非人称性という恐怖であるイリヤから逃亡することによって名詞化された「存在者」の立場に立つことつまり「私」と獲得することをみてとる(不眠から安眠へ、不安から安心へ)。そして、この存在者(自我・主体)は、世界を糧として「享受」(jouissance)している。 他者の倫理学 レヴィナスは時間に先立つものであるイリヤから出発し、この存在が存在者の起源であるとする。しかし、イリヤから逃亡し成立する存在者は「現在」という一点のみであって、過去・現在・未来という流れからなる時間ではない。つまり、自我だけでは時間を構成できない。ここで「他者」が到来する。他者の到来は「未来」である。そのこのようにレヴィナスは時制の成立と自我の成立の根源に他者との人格的関係・倫理的関係を据える。つまり、レヴィナスの現象学とは、イリヤからの逃亡を企てる現象学であり、その際に「他者」が現れる。そのため、彼は倫理学を第一哲学とする。ため他者が来ることによって未来という時制が成立し、それにともない複数の時制からなる時間が成立する。 他者とは? 西洋哲学において「他者」は問題にならなかった。なぜなら西洋哲学は、「同一性」や「同じもの・同者」(le meme)という形而上学的土台を発展させてきたからである。しかし、「他者」(l'autre、autrui)とは、同一性に取り込めない外部性でそれは「同じものではないもの」である。これは、同一性を前提とする伝統的な西欧哲学では問題化できていなかったことである。同じものでないものである「他者」とはどのようなものか。例えば、私の「青」が他者にとっての「赤」であったとしても(踊るクオリア)、それらは「色」という上位概念において共通している。そして、他者と自我が共通しうる最上位概念は「超視野」とよばれるものであるが、私は超越論的な領域において他者を超視野に取り込んでいるため(サルトルやフッサールの他者論の立場)、私と他者は超視野という最上位概念において共通し、この同一性を前提として他者を理解している。しかし、レヴィナスはこのような同一性を前提とせず、他者を自我にとりこまない。そのため、自我にとって他者は一切の共通概念を持たない「無限」に位置するものであるという。 他者の現れ(顔visage) この先自我における他者の到来は「顔」(visage)と呼ばれる。レヴィナスの「顔」という概念が意味するのは一般的な「顔」という単語意味する視覚的なイメージではない。それは、むしろ聴覚的なニュアンスにちかく、他者の顔は気配とし現前する(フッサールなどが言うように他者を構成することはできない)。内部(自我=同一であるもの)と外部(他者=同一でないもの)の境界線には他者の「顔」があり、他者は「顔」として現れる。顔は外部から自我の内部に直接呼びかけてくる。顔として現れる他者との出会いにより、他者への「形而上学的渇望」(Le désir métaphysique)は生ずる。 他者への渇望 同一性という閉じた世界に留まるというエゴイズムの立場に立つ自我にとって、他者の到来はその秩序を破る存在である。人間は無限の外部性である他者に対して渇望を感じるが、それは決して充足されえない欲求である。この到達できない他者への渇望は、性交渉において明白に表れる。男性は女性を求め相手との融合を求めるが、それは、永遠に到達できず同一化することのできない無限の他者にたいする欲求であるため常に挫折する。このエロスの場面において男性(あるいや女性)は相手を愛撫するが、この行為は相手の身体を感覚するためのものではない。それは、手からこぼれ落ち逃げてゆく「他性」との戯れである。 自我の成立と責任 レヴィナスは、他者と自我との関係を形而上学的な関係あるいは倫理学的な関係として示そうとする。彼は、自我の成立の根源には他者が関係しているとして、自我を他者に従属させる。なぜなら、自我が成立する前の「先自我」の段階では、まだ自我は主格となっておらず、一切の主導権をもたない徹底的な受身の存在であり、そして、この先自我に他者が介入することによって自我が成立するからである。完全に受身である自我(先自我)はこの呼びかけを拒否することはできない。つまり、この呼びかけに対して自我はイエスとしか答えられない。またイエスと答えてしまうということは、自我に責任が発生する(責任=応答可能性responsablitite)。ここには、自我の形成には、他者と先自我の関係があるが、それは、常に不平等である。そのため、自我は他者に従属する。ここに彼の徹底した他者中心主義が表れている。- 著作
- 『実存から実存者へ』De l'existence à l'existant (1947)
- 『全体性と無限』Totalité et Infini (1961)
- \*1. レヴィナスは、このイリヤを経験することが可能であるという。それは、「不眠の夜」と呼ばれる。夜においては、光も音もなく対象も空間もない。しかし、これは「無」ではなく、そこには、闇が「在る」。
- \*2. イリヤとは彼がユダヤ人の強制収容所で経験した恐怖に基づいている。彼にとってアウシュヴィッツは、人称性(顔)を剥奪するイリヤの象徴であったのだ。
First posted 2009/08/05
Last updated 2011/03/04
Last updated 2011/03/04