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# ドゥルーズ『差異と反復』 ## 前期ドゥルーズ(差異と反復) ガタリと出会う前のドゥルーズは、ベルクソンに影響をうけつつ「差異」を考察する。そして、この考察はドゥルーズ=ガタリの著作を支えるものとなる。伝統的な西洋哲学では、無限性を備える超越存在が、無限に連続する差異をもつ有限な存在の同一性を保証していた。デカルトのコギトは神によってその同一性を保障されている。しかし、ポストモダンの時代に突入した現代において、ニーチェの「神は死んだ」という宣言にみられるようにこのような超越的な形而上学的規定を解体する傾向にあった。ドゥルーズもまたこのような時代の思想的要求に応じて客観的指標を批判して、同一のものが`反復`(再現前、表象)しうるということを否定する。そして、世界を同一性のうちに収束させずに分散するものそれ自体として把握する(まるでヘラクレイトスの自然哲学)。 ### 差異のある反復 差異と反復は矛盾するものではない。つまり、反復は必ずしも同一のものが要請されるわけではない、むしろ、完全な同一性を保持した反復などというものはありえず、同一の反復は常に微細な差異を持つ。もしくは、`微細な差異があったとしても同一性は認められる`。例えば、天体の動きであっても、微細な差異(不均衡、不安定、非対称)を含んでいる。このように、自然界は無限の差異で満ちており常に流れ動いている。このことから「無限」をどうのように扱うかという問題にいたる。ドゥルーズによると、ライプニッツは微分法によって無限小を克服し、へーゲルは弁証法によって無限大が克服された。 ### ノマド的配分 しかし、このように差異ある同一性を認めると、山のパラドックスのようなパラドックスを導く。つまり、山と山でないものの境界線が消失して山と山でないものが差異の連続によって同一性で繋がっているように(山=not山)(もしくは、この前提を認めると、無限大や無限小を導く)、この世界把握においては物事のツリー型分類(\*1)が不可能になる。なぜなら、単細胞生物も我々人間も差異の連続によって繋がっており、同じものの表象であるといえるからだ。ドゥルーズは無限の差異に満ちた世界をどのように分類するのか。彼は、ツリー型分類に変わってノマド的配分を思案する。それによると、ノマド(遊牧民)が境界のない世界を自由に移動するように、無限の差異に満ちた世界にあえて恣意的な差異を設けて分割するようなことはせずに、山・人間・アメーバ・鉄といったものをあちこちに割り振って配分するという方法である。そこに人とアメーバを隔てる柵はない、ただそれぞれが無限の差異をもつ世界に中に配分されたにすぎない。 ### 無限の差異を含む世界 ドゥルーズは、この無限の差異を含み流動する世界それ自体を取り出そうとする。その際に軸となるのが時間である。 - `第一の時間(現在)(ヒュームから影響)` 今生きているこの現在の時間は、日常生活において同じ事を反復される今を作り出す。それは(生ける現在は)、反復によって習慣や常識といった自己における中心的な同一性を形成している。しかし、この同一性は自らの過去の経験に依拠しているため(過去の反復を経験した無数の受動的自己に観照されているため)、その反復を行う自己は常に差異をもつ(差異のある同一性の反復である)。 - `第二の時間(過去)(ベルクソンから影響)` ベルクソンは過去を記憶と名づける。そして、この主軸を支えるのは、「純粋記憶」である。この純粋記憶とは、パソコンのメモリーのように実在する過去の記憶とは異なり、それは反復されるたびに常に更新される。そのため、記憶の反復は常に更新されている無数の過去を内に秘めている。例えば、ある記憶を時間t1において反復し、また、同じ記憶を時間t2において反復したとする。t2の記憶はt1をうちに含んでいるため(過去の“衣を幾重にもまとっている”)、t1とt2は差異を含み同一ではありえない。 第一、第二の時間がそれぞれ経験と同一性に依拠しているのに対し、第三の時間はまったく超越論的な時間として描かれる。 - `第三の時間(未来)(カントから影響)` 超越論的な時間。デカルトは、「我在り」という無規定なものを「われ思う」という規定に一瞬にして結び付けている。カントはこれに対して、規定可能なものである時間を付け加える。いや付け加えるのではなく、時間という空虚な形式によって「我思う」と「我在り」を差異化する。それによって私は「ひび割れる」。 (この第三の時間は、よく理解できなかったので、宇野 [1]の要約をそのまま引用するにとどめておく)第三の反復として名ざされている「純粋で空虚な形式」としての時間は、習慣からも、記憶からも遠い奇妙な次元である。円環かと思えば、直線だという。直線かと思えば、曲がりくねった円であるといい、迷路であるという。永遠に回帰するのは、習慣でも記憶でもなく、異なったものであり、形のないものであり、「物質を棄却した形式」なのである。/にもかかわらず、この最後の反復、独自の肯定性と創造性をドゥルーズは発見している。この反復は「時間の空虚な形式」ともよばれるが、思考の運動の根底にあって、もっとも深いところから思考を決定しているのが、この第三の反復なのだ。「無規定なものと規定との差異として、思考の中に<差異>をみちびきいれ、<差異>を構成するのは時間の空虚な形式であって、思考はこの<差異>から発して思考するのである。 [1, p.105]--- ## 注
- \*1. 一般的な分類の仕方であり、例えば、自然を有機体と無機質に分類して、また動物と植物に分類するといった分類方法である。
First posted 2009/07/08
Last updated 2009/07/21
Last updated 2009/07/21