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# ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス」#1 欲望する機械(生産) ## 流動する欲望の哲学 この本を貫く主題は`「欲望」`である。ドゥルーズ=ガタリは、まずこれの題名に示されるように、フロイトの精神分析を欲望の構造論的で静的な理解として批判する。つまり、ドゥルーズの『差異と反復』における差異ある反復によって同一性を批判するように、イデア論的な同一性(構造)を前提とする精神分析を批判する。しかし、精神分析の全体を否定するのではなく、それが人間の中心に`静的な構造`を置くことを批判するのであり、そして、彼らはそれの代わりに`動的な欲望`を据える。それによって、唯物論的精神分析を考案し、そして、次にこの欲望をベースとする精神分析を社会の分析に適用する。つまり、これは**精神分析とマルクス主義を欲望のもとに一元的に還元する試み**とみることができる。二つは、個人の意識はそれを無意識によって規定されているという点で共通し、その共通点に流動する欲望をおくのである。 ### フロイト批判(過剰なオイディプス化) フロイトの精神分析は、あらゆる欲望を包括するリビドー(性的欲求)を発見した。しかし、彼はこの欲望(リビドー)はオイディプス・コンプレックス(以下OC)、つまり幼児期における両親と子の三角関係という静的な構造に規定されていると考える(OC=構造化された無意識)。そして、フロイトやラカンの精神分析は、このOCを人間の欲望を規定する構造として絶対視し、あらゆる社会におけるあらゆる人間関係をOCという超越論的秩序、すなわち形而上学に還元(オイディプス化)する。しかし、ドゥルーズ=ガタリによると、精神分析のOCという秩序は、両親と子の三角関係が道徳的家族形態であるとするその時代における社会的イデオロギーによって形成されたものであるとし、これがイデア的普遍性をもつという考えを否定する。彼らにとって、欲望(リビドー)とはこのようにOCといった静的な構造に支配されているのではなく、分子的状態で散乱する動的で無秩序なものであり、すべての欲望を包括する根源的エネルギーである。つまり、彼らは、人間の中心には構造に規定された欲望ではなく、無秩序でまったくの動的な欲望が貫いていると考える。ドゥルーズ=ガタリは、「アンチ・オイディプス」においてこの流動する欲望を構造に還元することなくそのまま捉えようと試みる。 ### 欲望する生産(production desirante) 欲望とはなにか。欲望の従来の理解は、自分が欠如しているものを得ようとすることが欲望であるとする否定的・消極的な理解である。精神分析やマルクス主義もこのように欲望を理解する。しかし、ドゥルーズ=ガタリはこのような欠如していることを求めることが欲望であるという否定的な理解を批判し(\*1)、これに対し、**欲望とは絶えず自らを生み出していこうする実在的な“生産の力”であると肯定的なものとして理解する(欲望は、映画館ではなく工場)**。このような自律的で自己生産的欲望を`欲望する生産`と呼ぶ。欲望する生産 は、 - 生産の生産(接続的綜合) - 登録の生産(選言的綜合) - 消費の生産(連接的綜合) という三つの契機から説明される。つまり、この生産の力は消費と対立するものではなく、消費を包括する活動である。そして、欲望する生産(生産の力)は、スピノザの能産的自然(natura naturans)やニーチェの権力への意思(Wille zur Macht)の現代版と解することができるものであり、人間や生物に限定されるものではなく、至る所に見いたすことができるあらゆるものの普遍的な根源である。 ### 欲望する機械(machines desirantes):機械仕掛けの欲望 この欲望する生産は、絶えず機械的に生産する生の意思である。そのため、ドゥルーズ=ガタリは、これを`欲望する機械`と表現する。ここにおける機械のイメージは、分解すれば独立した個々の部品となる一般的な機械(ロボットのようなマクロな機械)のイメージではなく、絶えず他と連携し自己生産を継続するコンピュータープログラムのようなミクロな分子的状態にある自律機械である。欲望する機械の機能は、他の機械の循環する流れを切断することである。例えば、乳児は母乳の流れ(乳房は母乳を流す機械)を自らの口で切断し(口唇は母乳を切る機械)(乳児にとって自らの口唇と母親の乳房といった部分対象・器官機械の区別は存在しない)、そして、母乳は胃や腸で機械的に切断され、最後に肛門で切断される。そして、また、この切断自身もひとつの流れとなり、つまり、あらゆる欲望する機械は連鎖し連関している。従って、欲望する機械とは、それぞれが多角的に連結し相互に影響しあうリビドーの流体力学的装置である。ミクロな世界において生物学は物理学に還元されるように、このミクロな視点において生物の唯物論的解釈と生気論的解釈(\*2)は一元的に統合される。 ### 分子的多様性からモル的集合へ この機械仕掛けの欲望(リビドーの流体力学的装置、質的エネルギー)は分子的状態にあり、無秩序に散乱するという多様性をもつ。そして、**この欲望する機械が集積することによって現れるのは無秩序の塊ではなく、それの全体を指示する一つの統合された個体が現れる**(例えば、諸器官が集積することによって現れるのは、ただの諸器官の集まりではなく身体という諸器官の全体を指示する個体)。これを、`モル的集合`という(\*3)。具体的には、欲望する機械は細胞という機械と重なりあうことによって身体の諸器官が形成されて、この諸器官が重なることによって、身体が形成される。つまり、人間とは、欲望する機械の集積によって構築された欲望する機械の複合体であり、そういった意味で人間とは、欲望する機械が外部に表象(再現前)されたものである。そして、また、この人間という欲望する機械は他の機械(細胞、言語、貨幣など)と多義的に連関することによって絶えずなにかを産出(自己生産)する。その結果、この人間という欲望する機械の集積で社会機構(社会的身体)は形成される。つまり、欲望する機械は細胞や諸器官という機械と結びついて身体として現前化し、そして、この身体という欲望する機械は言語や貨幣と結びついて社会機構として現前化する。このように、**細胞や身体や社会機構といったものは、それぞれ欲望する機械の集積度の違いにすぎない**。 ### 根源的抑圧(生産を構成する生と死) 分子的多様性が集積することによって現前するモル的集合という秩序は、そこに内包される生と死のサイクルのバランスが保たときに成立する(生態系のように生死のサイクルが安定したようなイメージ?)。なぜなら、生産活動はそれを継続させるためにこの生の流れを根源的に抑圧する働き(欲望を抑圧する欲望、死の衝動)を内包している。例えば、母体にある受精卵は、時に部分部分の細胞を壊死させることによって諸器官を形作る。または、身体を持続させるため、細胞は死と再生(新陳代謝)を繰り返す。生と死といった対立は、決して内的に綜合されず対立し循環することによって、生産が成立して生が拡散することによって世界のすべては成立する。そして、この生産の拡散の極みにあるのが`器官なき身体`という生産の一切が停止した死の状態である(生産を成立させる死の衝動と、生産の果てにある器官なき身体という死の状態は完全に違うもの?それとも、器官なき身体という全体が一部とした表出したものが死の衝動?)。 そして、この個人の身体における生死のサイクルを、人間という「種」に拡張してみよう。人間という個人が死に生まれるサイクルによって種は存続する。 その意味で人間という種は胚種(モル的集合)であり、これを構成する個人は一つの細胞・欲望する機械といえる。そして、このような観点によって、個人としての人間はこの壮大な種としての人間を継続させるための一部分であるということが理解される。ドゥルーズ=ガタリはこの個人の経験を超えた種としての継続を`胚種的渦流`とよぶ。 ### 社会機構が規定する個人の意識 「欲望する機械」という無秩序の欲望の分子的集合が「社会機構(社会機械、社会的身体)」を形成するのだった。そして、このような社会機構といったモル的集合は根源的欲望と根源的抑圧という対立を内包する(パラノとスキゾ?)。そして、**この社会機構の根源的抑圧が個体の意識に流れ込むと、それは、個人の欲望を抑圧する。それはいわば「欲望を抑圧する欲望」である**。そして、「個人の根源的欲望」とそれが属するモル的集合である「社会機構の根源的抑圧」という二つの見かけがことなる生産する欲望が結びつくことによって、個人のうちに「抑圧された欲望」を形成する。この社会機構によって抑圧され記号化(コード化)された欲望が個人のうちに表象を形成しこれが`意識`となる。 つまり、ドゥルーズ=ガタリによると、**人間の意識とは志向性といった能動的なものではなく、それは社会機構によって与えられる表象であり受動的な状態のことである**。一般的な意味で使われる欲望(食欲、性欲、名誉欲など)もすべて社会が規定し記号化(コード化)された欲望である。言い換えれば、意識とは主体的にもたらされるのではなく、映画会社から配給された映画をみるように社会機構の生産するイメージを再現前(表象)したものとドゥルーズ=ガタリは考える。 ### 唯物論的精神分析(psychiatrie materialiste) 先に触れたようににドゥルーズ=ガタリは、この欲望する機械という概念において、マルクス主義と精神分析を統合する。 - 精神分析は、OCに社会における人間関係やあらゆる関係を還元する。つまり、これは心理的要素(無意識という純粋なエネルギー)で社会的要素を説明(オイディプス化)する。 - マルクス主義は、精神疾患などは不当な社会構造がもたらしたとする。つまり、社会的要素(下部構造)で心理的要素(上部構造)を説明する。 このような二元論的対立に対し、ドゥルーズ=ガタリはミクロな視点において欲望する機械を見出した。これは、機械仕掛けの欲望(エネルギー)といいえるものであり、このミクロな視点においてフロイトとマルクスの対立は存在しない。ドゥルーズ=ガタリにとって、 - フロイトの言う無意識は構造化されず散乱する欲望する機械であるし、 - マルクスの言う生産物は欲望する機械の集積物である。 つまり、欲望する機械は、流動するエネルギーであるとともに生産物である。生物学がミクロな視点においては物理学に還元されるように、ドゥルーズ=ガタリは、精神分析とマルクス主義を欲望する機械に一元的に還元する。これを彼らは`唯物論的精神分析`と呼ぶ。 --- ## 注- \*1. しかし、このように欲望とは自らの欠如を補うことだとすると、まず私は自分に何が欠けているのかを理解しなければならない。そのため、この欲望には知性が前提とされており、またその欠けているものとは観念論的である。そして、このOCという超越論的秩序が規定する自らに欠けるものという観念は、欲望ではなく知性によって追求されなければならない。そのため、この欲望観をドゥルーズ=ガタリは跳ね除ける。
- \*2. 生気論とは、生物の有機体としての目的性や個体的統一を優先させようとする立場。機械は、欲望の目的のための手段に過ぎない。機械論は、機械的因果性や構造的統一性を引き合いに出し、そのような統一性により生物をも説明しようとする立場。欲望は、機械的な因果性によって決定される[3, p.136]。
- \*3. 欲望する機械は明確な目的をもつのではなく、自発的目的をもつにすぎない。それは、結果において目的が確認される程度のもので、つまり、何かに到達することでようやく、”これが目的だったんだ”と初めて見えてくる普遍性であるという。しかし、なぜ無秩序に散乱する欲望する機械が集積することによってモル的集合という秩序をもつ外部が現前するのか。欲望する機械には超越論的に秩序が内在しており、それが集積することによって現前すると考えられる。 しかし、そうすると、欲望する機械には、(例え明確なものでなくとも)構造という超越論的秩序が内在化されていること にならないだろうか?欲望を抑圧する欲望(欲望のパラドックス)というのはどのようなものか。それは解決されなかった。
First posted 2009/07/14
Last updated 2009/07/29
Last updated 2009/07/29