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# 意味論#1 (指示説、存在物説、使用説) ## 意味論(semantics)
「今日の昼に空から豚が降ってくる」
私は、この文を理解できる。見たことも聞いたこともないような未知の文をなぜ我々は理解できるのか。また、単なる文字列「といはぽしhdが」や、文法法則を無視した文「昼の豚くる今日降ってに」、など文は理解できない。理解できる文とは「有意味」な文であり、理解できない文とは意味を持たない文である。では、「意味」とはなにか。それを問うのが意味論である。 ## 意味の事実 理論とは、ある事実を扱うことである。そして、意味の理論においても同じであり、意味の理論が説明すべき意味に関する事実をライカンは「意味の事実」という。これはいくつかあるが、例えば: - (有意味性):世界の中に意味はない。あるのは、インクのシミだったり、空気の振動だけである。しかし、我々にとって、これらの内に、命題や発話といった意味のあるものもあるという事実。 - (同義性):異なる表現が同一の意味をもつことがあるという事実。 - (曖昧性):ある単一の表現が曖昧である、つまり、意味を二つ以上持つ、という事実。 - (帰結関係):ある表現の意味が別の表現の意味を含むという事実。例えば、doe(雌鹿)にはfemaleとdeerが含まれる。また、これは命題においてもいえることで、「ハロルドは太っており、ベンは間抜けだ」という命題から、「ハロルドは太っている」という命題が帰結する。 意味の理論は、この意味の事実を説明しなければならない。指示説、存在物説(観念説、命題説)、使用説、心理説、検証説、真理条件説を順番に触れてみる。 ## 1. 意味の指示説(フレーゲ) 言語の意味とは何か。言語の意味とは、それが何かを表す(指示する)ことである。例えば、「月」という語が意味をもつのは、ある事物を表し表示しているからである。「あきdいfh」などの語は何も指示しないため無意味。 - **意味と意義(Bedeutung & Sinn)** また、意味の指示説だと、「明けの明星」と「宵の明星」の区別はどうか。二つの語は同じ指示対象をもつ(金星)。しかし、「明けの明星は明けの明星である」「宵の明星は明けの明星である」この二つの文は二つとも同一性を表すが、前者に情報はないのに対し、後者には情報がある(フレーゲパズル)。フレーゲによると、それは、意味(指示対象)は意義を通して与えられる。そして、「明けの明星」と「宵の明星」は同一の意味(指示対象)を持つがそれに至るまでに介する意義が異なる。 - **空の指示(empty reference)** しかし、例えば、「犬」などの(抽象的な)語は何を指示するだろうか。ある特定の犬ではなく、犬一般だとしたら、それはなにか。また、「美しい」といった語が指示する対象はどのようなものか。「・・・は・・・である」「is」「of」「おはよう」などの語はなにを指示するのか。これらの指示対象を持たぬ語にもまた意義(客観的対象)がなければならない。この問題を解決するために、フレーゲはプラトニズムの立場をとる。つまり、それらは超越的な客観存在であり、それを指示するという。 - **記述理論(ラッセル)** この空の指示という問題を解決するために、ラッセルは固有名を確定記述に還元する。しかし、これは有用な理論であるが、さまざまな観点から批判される。そして、結局、意味の指示説を維持するのは困難であることが分かる。
## 2.意味の存在物説 意味の事実を述べる際に、意味を物化する考えがある(「意味を持つ」などは意味を物のように扱う)。存在物説entity theoryとよぶ。存在物説は日常生活において自然に思える(「それは意味がない」、「これは、これこれという意味を持つ」)。この存在物説にはふたつの立場がある。それは、意味を具体的な存在物とする観念説と、抽象的なものである命題説である。 ### 2-1、意味の観念説 観念説はロックに由来する古典的な意味論である。これによると、意味のある記号や音の列というのは、それの受け手のうちに心的状態(思考、イメージなど)を表現する、もしくは、そのような心的状態と対応することである。また、これによると、二つの表現が同義であるということは、それらが同じ心的状態を表現するということである。言葉の行き違いという意味の事実については、AさんとBさんは同じ思考を持っているのだが、異なる言葉でそれを表現したため両立不可能に見える。現在ではグライスの心理説によって引き継がれる。 - **問題点**
  • 「観念」とはどのような心的な存在物なのか?
  • 心的イメージを持たない語が多く存在する。「is」「and」「of」など。また、「千角形」や「非存在物」などはイメージできない語もある。
  • 言語とは共同的で間主観的である。しかし、言語を観念、イメージとすると、それは主観性に終始し間主観性に発展しない。
  • 有意味な命題には、見たことも聞いたこともないような命題もある。それはなぜか説明できない。
### 2-2. 意味の命題説 意味とは何か。かつて、意味は観念と考えられていた。しかし、意味を観念という心的なものとすると、それは主観的で相対的なものとなる。そこで、意味を公共的、間主観的なものとするには、それは思考ではなく、もっと抽象的で心的なものから独立したものでなければならない。そして、その抽象的な存在は「命題」(内容)であるという。例えば、無意味な文(g)と、意味のある文(S)は何が違うか。Sは抽象的な内容(命題)をもち、gはそれを持たない。この内容と文の関係を表現と呼ぶ。よって、文Sが有意味であるのは、ある特定の内容(命題)を表現しているからで、gはそれを表現していないからである。また、意味の事実に対する応答として、文Sと文Tが同義であるのは、二つが同一の内容(命題)を表現するからである。文Sが曖昧であるのは、二つ以上の命題(内容)に対し、単一の文Sが各々を表現するということである。これに加え、この命題説は先の観念説の問題点をクリアしているため、存在説の中では有力なものであるとされる。 -**問題点** -命題説は指示説のように文は命題(内容)を名指すのではなく、文はそれを「表現」する。このように、命題をイデア的な普遍存在と考えると、ある日常的な命題もわれわれが存在する前からもそして、未来永劫に渡って存在することになる。
命題とは経験できないものであるため、神秘的なものである。
応答: 神秘的な現象によって説明することは、科学などの分野においてもよくあることで珍しいことではない
反論(ハーマン): 命題説は、ただ専門用語で言い換えてるだけで何にも説明していない。「Snow is whiteとLa neige est blancheは同じ意味をもつ、なぜなら、同じ命題を表現しているからである」、と命題説支持者はいうが、命題を表現しているという説明は命題が有意味であるということとなんら変わらない。
応答: 命題説を精錬することで表現と有意味の違いがはっきりしてくる。
反論(ハーマン): 意味はなんらかの原因となるが、命題は因果的な力をもたない。命題(イデア)はただ、超越的な空間にとどまり我々に干渉しない。
応答: しかし、事実、命題説は意味の事実を効率的に対処している。
## 3. 意味の使用説(後期ウィトゲンシュタイン、日常言語学派) 命題説は、文などの言語表現はそれの構成要素をばらばらに分解でき、それぞれを検証できる存在物であると考える(経験主義のドグマ)。これに対し、後期ウィトゲンシュタインは、異なった観点から言語を眺める。つまり、意味に直接アプローチできないのならば、意味の関わる領域を見てみる。それは、意味の「理解」である。言語は規則に支配されている一種のゲームのようなものである(言語ゲーム)、言語の理解にはその規則を学ばなければならない。しかし、この規則は全ての言語に共通する普遍的なものではなく、それぞれにおいて家族的類似性をもつにすぎない。そして、この複雑な規則は、社会的実践の中での言語の使用により獲得する。 ### 3-1. 意味の推論説(セラーズSellars) この使用説によって、単純な発話の説明はつく。しかし、例えば、「現在のフランス王は禿だ」などの複雑な命題が社会的役割をもっているようには見えない。そのため、セラーズは、「推論」という概念を導入し使用説を拡張する。複雑で社会的実践に関係しないような命題は、推論によって説明される。そして、論理における推論の妥当性もまた、社会的実践のなかで得るものである。「Aさんは禿で、かつ、Bさんは痩せている」という命題から、「Aさんは禿である」が帰結する。そして、これが帰結しないと主張する人がいれば、この論理法則に従う我々は彼の間違いを指摘するだろう。このように論理法則もまた、社会的実践の中で得られる。 - **問題点**
  • パトナムの双子地球:ふたつは全く同じように社会が形成されている、すなわち、まったく同じ言語ゲームをもつ。しかし、一点だけ異なる点がある。それは、一方の地球は水の分子構造がH2Oであるのに対し、他方は水がXYZである。「水はH2Oである」という発話において、一方において真であるが、他方においては偽である。これは、社会的実践において意味が決定するという使用説に反する。
  • -応答:ふたつの地球における言語ゲームは見かけ上同じであるが、細かく分析すると二つは異なっている。例えば、電子顕微鏡で水を観察すれば、異なる規則にしたがっていたのが判明する。
  • 使用説は、固有名の扱い方が問題となる。使用説は、ある言語の使用者がみな共通してしたがっている規則を根底に置くが、固有名に関しては、個人的な使用であり共有できない。
  • 全く聞いたことのない命題はなぜ理解できるのか。ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論、使用説では説明できない。合成性へ
  • 理解してなくても正しい使用をすることは可能である。例えば、ある授業を全く理解してなくても、専門用語を並べるコツを覚えた生徒がレポートのA評価をとるようなことである(中国語の部屋?)。
  • 社会活動の多くは、言語が持つような意味を伴わない。テニスのボールを打ち返したりすることは、明らかに言語の意味を持たず習慣的に決められている。言語ゲームと通常のゲームを分けるものは何か。
  • どのようにして、文がしがじかのことを意味することができるのか。
## 注 --- ## 参考文献 - 言語哲学(W.G.ライカン)を参照
First posted   2009/03/21
Last updated  2009/03/21
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