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# クリプキ「名指しと必然性」#4 自然種の一般名とアポステリオリな必然性 ## 自然種の一般名の考察 クリプキは先に見た固有名と記述の関係を自然種の一般名(水、虎、金、など)に拡張する。一般名は、フレーゲの論理学においては、述語に還元される。つまり、「水」という一般名は「xは水である」という命題関数に置き換えられる。固有名は「a, b, c,..」などと表記されるが一般名にはこのようなカテゴリは存在しないのである。それは、一般名は特定の対象を指示(表示)するものではなく、「xは水である」のように変項xに当てはまる不特定の対象の外延であると考えられてきたからである。 クリプキは、この自然種の一般名は固有名の記述(の束)説と平行関係を見いだす。それに従い、この自然種の一般名においても彼が最初に触れた固有名の批判と同様の議論を展開する。例えば、「水」の場合だったら、「無色透明の液体で雨となって降り注ぎ川や湖を満たす」(xは無色、xは透明、xは液体、xは雨ととなって降り注ぐ、xは川や湖を満たす)といった記述の束、「虎」だったら「黄色と黒の横縞がある大きな肉食のネコ科の動物」といった記述の束が結び付けられており、これらの記述を満たす対象が水や虎と呼ばれるのである。このような平行関係から記述説に対する批判もそのまま適用できる。 ## ・アポステリオリな必然性 そして、このような議論から彼は一般名が持つ「本質」という形而上学的性質を見出す。そして、このような性質は、経験的発見でありながら全ての可能世界において成立する「アポステリオリな必然性」であるとする。これは伝統的な「分析性-アプリオリ性-必然性」の関係を一変させる全く新しい観点であった。## 必然性の伝統的な扱い 伝統的に分析的命題とは、主語に述語が含まれている命題のことをいう。たとえば、「ソクラテスは人間である」は分析的に真、無条件に真であるとされた。なぜならば、「ソクラテス」に「xは人間である」という述語が結び付けられており、そのため「ソクラテスは人間である」はトートロジーであるからである。そして、このような分析判断(主語と述語にA=Aを見出しこれを真と判断すること)は経験による判断を介さずに行えるアプリオリな判断であるとされてきた。これを「アプリオリな分析判断」という。そして、これに従うと、「虎は黄色と黒の横縞がある」という命題は分析的命題でありアプリオリに真である。また、もう一つの伝統的な判断であるカントの「アプリオリな綜合判断」は、悟性のアプリオリ性である純粋悟性概念によって感性のアプリオリ性である純粋直観を処理し得られる判断であり、これも必然性や確実性はアプリオリ性に内包される。このように、伝統的には、「必然性」はすべてアプリオリな認識に伴うものとされてきた: - アプリオリな分析判断=述語が主語にすでに含まれている判断。 - アプリオリな綜合判断(カント)=カテゴリーによって純粋直観を処理し得られる判断。 必然性(また、確実性)はこれらの判断に包括される概念であって、経験によってのみ獲得した判断に必然性は認められず、つまり、伝統的に「アポステリオリな必然性」という観点は存在しなかった。
## 分析的に結び付けられている偶然的な記述 しかし、「虎」に分析的に結び付いている記述は、全て"必然的"であるのか?そうではない。これらの記述の内いくかは偶然的である。例えば、この束に含まれる「xには黄色と黒の横縞がある」という記述はある可能世界において偽である、つまり、「黄色と黒が横縞がない」虎が存在するということは想像可能である。また、「金は黄色である」という命題は「金」は「xは黄色である」を分析的に含意しているため、分析的に真であるとされた(少なくともカントはそう考えた)。しかし、黄色でない金を想像することは可能であり、そのため、この記述は偶然的に結び付けられているのである。このように、クリプキは可能世界という必然性を独立に判断する基準を用いて、必然性を分析性-アプリオリ性から分離する。 ## 記述は必然的な対象を指示しない 加えて、「虎」に結び付けられている記述を全て満たしていながら、実際は"内部"において虎ではない動物を想像可能である。例えば、外見は全く同じに見えるが、遺伝子的に虎とは異なっていたる動物だったり、精密なオートマトンであるなど想像しうる。この場合我々が「虎」を使用した場合に我々が意図しないオートマトンという対象も含まれてしまう。これは受け入れがたい。 ## 対象の必然的性質と本質 では、自然種の一般名に結びついている記述はすべて偶然的か?固有名のときと異なり、一般名の場合は唯一の対象を同定するわけではなく、不特定な数の対象を指示する。そのため、この不特定な数の対象において共通する述語がなければらない。この共通の述語とは偶然的であってはならない。なぜならば、ある可能世界において偽となる記述では共通の対象を指示することはできないからである。 自然種の一般名において必然的な述語とはどのようなものを言うのだろうか?それは、その種がその述語・性質なしでは成り立たないようなもののことを言う。そのような性質は伝統的に「本質」と呼ばれる。クリプキは、固有名においても対象に「本質」という形而上学的概念を認める。例えば、彼は、「エリザベス二世」の「両親」は彼女の本質を成すと言う。一般名における本質もこれと同じで、虎を虎たらしめる、水を水たらしめる必然的性質がありこれが本質である。 ## アポステリオリな必然性 クリプキにとって「本質」という形而上学的概念はどのようなものか?それは、彼によると"経験的"に発見された記述である。例えば、「水」には「xはH2Oである」という科学によって発見された記述が結び付けられている。そして、この「xはH2Oである」という述語は「水」にとって本質的であり、必然的なのである。そのため、「水」は固定指示子であるとクリプキは言う。これは、「光」や「熱」にも適用できる。このような「アポステリオリな必然性」は伝統的な文脈には存在しなかった考え方である(※1)。
## パトナムの議論 クリプキ自身が言及するように(NN, P144)、上記の考察はパトナムによるものと多くの類似点をもつ。彼の有名な思考実験である「双子地球」でクリプキの議論を振り返る。「双子地球」は次のようなものである:
双子地球とは、地球と瓜二つの惑星が宇宙のどこかに存在すると想定する。しかし、その第二の地球と地球において唯一違うことがあり、それは我々が水と呼ぶものの分子構造が我々の地球においてはH2Oであるのに対して、双子地球においてはXYZという内部においてまったく異なる物質である。この内部の構造以外はH2Oとまったく同じで無力透明で湖や川をみたしている。この仮定の上で、我らの地球に住むAさんが「水は透明だ」と発言し、第二地球にすむ第二Aさんが「水は透明だ」と発言するとする。その場合、それらら二つが意味するものは一方はH2Oだが、もう一方は XYZとなり、二つは異なる。この双子地球は、二つの世界における言語共同体とそこに属する人々の言語使用が(脳内において)まったく同一であると仮定するが、しかし、この仮定の上でも言語の意味が異なりうるという思考実験である 。つまり、内包が同一でも外延は異なりうる(※1)。言語の指示対象が共同体によって決定されるのであれば二つの地球が指示している対象はまったく同一である。しかし、実際には、二つの地球において「水」が指示する対象は内部構造(分子構造)において異なる。つまり、共同体において了解される言語の使用が一致していたとしても言語の意味がことなりうるのである。この思考実験が示すことは、言語の意味はその言語を使用する共同体においてであっても決定しないということである。そして、科学による経験的発見によって言語の指示対象が異なりうるということが判明したのである。これは、共同体における言語規定よりも科学的発見のほうが言語の根本をなすということを示唆している。つまり、それまで意味は人の頭に中にあると考えられてきた素朴な「内在主義」に対して、この思考実験によって言語の意味が外在的であるとするパトナムの「外在主義」が唱えられた(源泉はフレーゲ)。 ## ・言語基盤の移り変わり フレーゲ&ラッセルからの言語基盤の移り変わりは下記のようになる:
(理想言語学派)経験的発見(特に科学的発見)が共同体の言語認識を規定しているわけではないが、経験的発見は対象の本質的性質の発見であり、共同体が形成した慣習的な対象の認識よりもより強固な言語のベースになる。クリプキによると: もし、水とは全く違った分子構造をもちながら、これらの点で水に似た物質が現実にあったとしたら、われわれは、ある種の水はH2Oではないと言うだろうか。私はそうは思わない。その代わり、[...]水まがい、すなわちわれわれがもともと水を同定するために使った性質はもつが実際には水ではない物質もありうる、と言うことだろう。(NN,p151) これは、彼が科学による経験的発見を共同体における言語規定よりも強固なものとして言語の根底に据えているということを示す。共同体における慣習的な記述を重視する場合、ある対象が慣習的に結びつけられる記述の束を満たすある対象は水とされる。例え、それの分子構造が異なっていようともそれは重視されず、慣習的な記述(例えば、無色透明な液体で川や湖を満たす、など)が重視される。 - 「水」→記述の束→同定記述→水 古典的理論において「xはH2Oである」という記述は、この記述の束に含まれるが、これが偽だったところでほかの記述で水を同定しうるのであれば水を指示することには代わりはない。 しかし、科学による経験的発見を対象の本質的な発見であるとするならば、分子構造の違いは指示対象そのものを変える本質的な相違点である: - H2O→水 - XYZ→水もどき(あるいは異なる名前を与えられる) 科学による対象の本質の発見は、慣習的な結び付けられているその他の偶然的な記述よりも言語の根底をなす。 実際に、科学による経験的発見による言語規定の変化は多々あることである。例えば、「クジラ」は魚の一種であるとされたが、科学によってそれが哺乳類であることが発見されて以来、現在ではその記述(xは哺乳類である)がクジラに本質的に結びついていると認知されている。「雷」はかつては神々によって発生させられるとされたが、現在では雲の中に蓄積した静電気の放電であると我々の共同体(日本など)において信じられている。
「個人」が言語を規定(独我論に陥る)
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(日常言語学派)
「共同体」が言語を規定
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(パトナム・クリプキ)
「経験的発見」(アポステリオリな必然性)が言語を規定 > 「共同体」が言語を規定
## 因果・歴史説の適用 個人は指示対象はどのように獲得するのだろうか。ここでも固有名の時と同様に、それは歴史による連鎖によって受け継がれていると言える。つまり、最初に、ある対象に「水」といった命名儀式が行われる。そして、この一般名と指示対象を人々は歴史的に連鎖的に受け継ぐ。私はこの連鎖を内包する言語共同体に参加することによって、「水」の指示対象を獲得するのである。それは「水」に結び付けられた記述を正確に理解することを要求しない。また、上記の科学によってもたらされるアポステリオリな必然性は、この共同体の認識そのものを変化しうるものである。それは、科学による発見が対象の「本質」であると信じられているからである。
科学による経験的発見(アポステリオリな必然性)--- ## 注 ※1 外延が同一でも内包が異なりうるということはよく知られている。例えば「心臓をもつ生物」と「腎臓をもつ生物」の例 --- ## 参考文献
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共同体の認識
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個人が共同体に適合
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その個人は一般名の指示対象を獲得する
First posted 2011/05/01
Last updated 2012/05/08
Last updated 2012/05/08