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# クリプキ「名指しと必然性」#3 指示論の新たな見取り図(指示の因果説) クリプキは前回見たように古典的理論を詳細に検討することによってそれに反論した。そして、次に、彼はこれに公共的な見地からの擁護案を自ら想定して、これに対し反論する。その後に彼は自らの指示論における「あらたな見取り図」を提示する。それは彼が批判した公共的な見地から導かれたものである。このように、彼は旧来の理論の擁護と批判を内省的に繰り返すことによって自身の「見取り図」に徐々に到達したのである。 ## 古典的理論の擁護の試み(私的言語から公共的言語へ) 古典的理論を構成する諸テーゼのうち(1)と(2)は私的言語に属することが判明している。そのため、固有名「ゲーデル」に結びついている記述は、単に「不完全性定理の証明者」ではなく厳密には、「不完全性定理の証明者、と私が考えている者」である。古典的理論を擁護するにはこの独我論的なテーゼを修正することによってなされうる。つまり、固有名「ゲーデル」に結びついているのは、私的な確定記述や同定記述ではなく、公共的なものとするのである。これにより、「不完全性定理の証明者、とほとんどの人が考えている者」という記述が結びついているとする。 ### ・批判1 しかし、このような修正もテーゼを(3)の反例を回避することができない。つまり、「ゲーデル」に「不完全性定理の証明者、とほとんどの人が考えている者」という記述を結びつけているとしても、その"ほとんどの人"が実際とは異なった対象を指示していると想定することは容易にできる。実際に、ほとんどの人が、「ゲーデル」と「不完全性定理の証明者」を結びつけているが、(誰にも知られてないことだが)実際にはシュミレットという別の人物がゲーデルに教えたのかもしれないし、インクのシミがたまたま不完全性定理の証明になったかもしれない。仮に、そのような想定が真実であったならば、我々"ほとんどの人"の信念は偽になる。 - 「ゲーデル」→ゲーデル (間主観的・公共的信念) - 「ゲーデル」→シュミレット (客観的事実) 確定記述(同定記述)は、私的判断、間主観的判断、客観的判断に分けられる。そして、これはテーゼ(3)に対する反例を公共的な領域にまで拡張したものである。しかし、上記のように、記述とそれの表示対象を間主観性に委ねても客観的事実と異なることは想定しうるため、テーゼ(3)に対するものと同様に反例を提示しうる。 ### ・批判2(非循環条件に反する) もう一つの批判は、このように「ほとんどの人」の信念による指示の決定は、非循環条件に反するというものである。上記の批判をまとめる: 1. 「ゲーデル」が不完全性定理を証明した、と我々は発言する。 このことから、次の2は帰結しない: 2. 「ゲーデル」が不完全性定理を証明した、と我々は信じている。 2が帰結しないのは、我々の「ゲーデル」がシュミレットを指示するかもしれないからである。そのため、1から2が帰結するには、「ゲーデル」はシュミレットを指示するのではなく「ゲーデル」はゲーデルを指示していなければならない。 しかし、我々は日常において実際に「ゲーデル」でゲーデルを指示している。この指示決定は具体的にどのようになされるのか。クリプキによると次のように決定される: 3. 「ゲーデル」とは、不完全性定理を証明した男と通常考えられている男である、と我々は考える。 しかし、 4. 「不完全性定理を証明した男と通常考えられている男」とは、ゲーデルである、と我々は考える(この共同体において規定する)。 これは下のように非循環条件に反している: 5. 「キケロ」は、カティリナを最初に弾劾した男である。 6. 「カティリナを最初に弾劾した男」は、キケロである。 つまり、固有名に関連している記述が循環的である。そのため: われわれはこの業績[不完全性定理の証明者]を、われわれがそれを帰しているその男[ゲーデル]に帰する。(p106) このように、指示決定の基準を公共性に求めても、そこにおいても記述の指示対象が誤っているという可能性も考えられるし、また、公共的に言語の指示対象を決定すると循環に陥るのである。 ## 責任転嫁による循環の回避(ストローソンの試みとそれへの反論) 固有名に結び付けられている記述を他の人に転嫁することによって循環を免れることができる: - 「ゲーデル」とは、不完全性定理の証明した男とBさんが考えている男である、とAさんは考える。 - 「ゲーデル」とは、不完全性定理の証明した男とCさんが考えている男である、とBさんは考える。 - 「ゲーデル」とは、不完全性定理の証明した男とDさんが考えている男である、とCさんは考える。 - … ストローソンはこの連鎖は無限後退に陥らないという。確かに、この連鎖を辿っていけばゲーデル本人にたどり着くかもしれない。しかし、この責任転嫁の連鎖は、固有名の使用者に意図されてないし、そもそも、他の人がどのような記述を結びつけているのか不明である。また、他の人に訴えることによって正しい対象に辿りつけるのかも不明である。以上のことにより、古典的理論がもたらす指示の見取り図は、それが私的なものであろうと公共的なものであろうと相対的なものに導く。クリプキはこれを受けて指示論における新たな見取り図を提示する。それは、言語に対する捉え方を根底から変更し、言語とは本質的に"公共的・社会的"であるとするものである。 ## 指示の因果説(歴史説) まず、ある対象に対して固有名が与えられる。例えば、一人の赤ん坊が生まれた。そして、彼の両親(ファインマン夫妻)は彼を「リチャード」と命名する(これを「命名儀式」(baptism)とクリプキは呼ぶ)。そして、「リチャード・ファインマン」という固有名はAさんからBさんに、BさんからCさんにと次々に伝達され、それはあたかも鎖のように受け継がれて拡散する(この受け継ぎにおいてAさんが指示する対象をBさんは同じ対象を指示することが条件である)。そして、この鎖がどんどん広がっていったとする。そして、この鎖の末端にいるある学生が「リチャード・ファインマン」という固有名を使用した。この学生は「リチャード・ファインマン」がどのような人物であるか知らない、つまり、唯一の対象を同定するだけの記述を有していないとする。しかし、彼はこの固有名の指示対象を受け継いでおり、そのため、彼はこの固有名によってリチャード・ファインマンを指示しているのである。 ### ・ストローソンとの区別(共同体への参与) 因果説は上記のストローソンの理論とは異なる。クリプキによると、ストローソンは基本的に古典的理論の支持者であり、そのため、固有名の使用者はそれに結びついている記述を知っていなければならないとする。それの使用者は、固有名の連鎖を知っていなければならないのである。例えば、「『ゲーデル』とは、不完全性定理の証明した男とBさんが考えている男である」、とAさんは考える」のようにAさんはBさんから固有名を獲得したことを知っており、そのためAさんはBさんに固有名に結びつける記述を転嫁することができるのである。 しかし、我々は自らが使用する固有名が誰から獲得したものであるのか覚えていなかったり間違っているという場合も多い。固有名の獲得は連鎖的・歴史的であるが、それは本人にとっては曖昧である。そのため、「リチャード・ファインマン」という固有名を使用しているその学生は唯一の対象を表示するだけの記述を有していない場合も十分にありえる。しかし、クリプキによると彼はファインマンの指示に成功しているのである。固有名が対象を指示するための条件は、
「ファインマン自身に辿り着く伝達の連鎖は、彼[固有名の使用者]が結節点から結節点へとその名前を受け渡す共同体の一員であることによって確立されたのであ[る]。」(NN, p109)つまり、私が「リチャード・ファインマン」でリチャード・ファインマンを指示するために必要なのは、この固有名に繋がれた記述の連鎖をたどることではなくその鎖を内包する「言語共同体」に参与することである。 クリプキは古典的理論を批判的に検証することによってこれは独我論に陥ることを見て取る。これに対して、彼は言語は本質的に社会的・共同体的であることを指摘するのである。言語が私的ではなく公共的であるという考えはサールの理論から徐々に含まされてきた。そして、ついにクリプキでこの公共性を言語のベースに据える。この言語の捉え方の変転はまるで前期ウィトゲンシュタインから後期ウィトゲンシュタインへの移り変わりを見ているようである。
## 反論1(クリプキ自身の反論) クリプキは「名指しと必然性」で(因果説という理論として扱っているが)このあらたな見取り図に対する反論を自ら行なっている(反論というよりもこの時点で彼の考えは荒削りで洗練されておらず、まだ彼自身考察の途中であるということを示唆している)。それは、例えば、「サンタクロース」という固有名は恐らく歴史上の聖人をもともと指示していた。しかし、我々が通常「サンタクロース」でその聖人を指示しているとは言わないだろう。 クリプキ自身はこの点に対してこれ以上言及しないが、ライカン(p92)によると、「サンタクロース」や「ドラキュラ」は非常に支配的なステレオタイプと結びついておりあまりに社会的役割が強いため、「文化的記号」となっている、と指摘する。 ## 反論2(空の指示) 因果説によると、対象に固有名が与えられる命名儀式にまでたどることのできる歴史的な連鎖がある。しかし、それでは指示対象をもたない固有名はどのように説明できるのか。 これに対する応答の一つは、空の指示をもつ固有名はもともとはフィクションや間違いによって最初に言語共同体に導入されたのである。そのため、指示対象が実際は存在しないがそれの連鎖は未来に受け継がれていき、存在しないものへの指示も可能になる。 ## 反論3 固有名の指示対象の連鎖はどこかで変化しうるという事実である。例えば、「マダガスカル」はかつて、アフリカ大陸の一地域に名づけられた地名である。しかし、現在では、「マダガスカル」はアフリカの島を指示する名前である。このように固有名の指示対象が変化しうる(エヴァンズ1973)。 これに対する応答は(Devitt, 1981)、固有名の指示対象は、命名儀式というある一点から開始され一直線でつながる鎖ではなく、マングローブの木のように複雑に分岐する複雑な基礎をもつ。そして、固有名の指示対象は、ある歴史的連鎖が生じた後の担い手に生じた出来事を基盤とする新たな歴史的連鎖にも由来し複雑に絡み合っているのである。 他にも様々な反論を受け、検証される。そして、このクリプキの記述説に対する批判は過剰だったと考えられている。そして、クリプキの説自体、記述説へ少なからず立ち戻る必要があるという(ライカン、p96)。 --- ## 参考文献 1. 飯田隆 (著)、『言語哲学大全〈3〉意味と様相 (下)』、 勁草書房、1995 2. ライカン, W. G. (著)・荒磯敏文ほか(翻訳)、『言語哲学―入門から中級まで』、勁草書房、2005
First posted 2011/04/23
Last updated 2011/08/20
Last updated 2011/08/20