• 知識の積み木 Tishiki No Tsumiki
  • HOME
  • Categories
    • 古代哲学
    • 中世哲学
    • 近代哲学
    • 現代哲学(19-20世紀)
    • 現代フランス哲学
    • 現代イギリス哲学
    • 現代アメリカ哲学
    • 言語哲学
    • 科学哲学
    • 心の哲学
    • 認識論・懐疑論
    • 東洋哲学
    • 美学・芸術の哲学
  • About
<< 前へ │ 次へ >>
# ラッセル「表示について」#3 批判 ## 異なるパターン 記述理論は固有名と表示句を区別することで、固有名と確定記述の同一性言明は成立せず、パズルが生じないことを示すが、固有名同士の同一性言明と確定記述同士の同一性言明の場合においてもこのフレーゲのパズルは生じうる。 ここでは確定記述(外延の限定)同士の同一性言明と固有名(直接指示)同士の同一性言明の場合、対象の与えられ方が一致するため、上記の方法で固有名と確定記述を分けることでパズルを解消するという仕方では通用しない。 ### ・確定記述同士の同一性言明 確定記述同士の同一性言明の場合を考えるとラッセル論理学における内包性が垣間見える。 つまり、記述理論は形而上学的実在や「意義」といったものを回避して表示の理論をまったく外延的に構築できるものではない(野本p90):
  • 17. ハムレットの作者 = ハムレットの作者
      $\iota x{\tt Hamlet}(x) = \iota x{\tt Hamlet}(x)$
  • 18. ハムレットの作者 = マクベスの作者
      $\iota x{\tt Hamlet}(x) = \iota x{\tt Macbeth}(x)$
17は情報を持たないトリビアルな命題であるが、18は情報をもつ命題である。 しかし、外延が一致する確定記述同士の同一性言明は、外延が一致するため意味も同じとなり、異なる二つの命題を区別できない。つまり、
  • $V(\iota x{\tt Hamlet}(x))$ = $V(\iota x{\tt Macbeth}(x))$ = $s$
ただし、$V(\iota x{\tt Hamlet}(x))$は、$V(\exists! x{\tt Hamlet}(x))$を真とする唯一の対象とする。 この場合、フレーゲのパズルが成立する。二つを区別するには17と18の違いは命題関数の内包性に依拠する必要があり、 すなわち、ラッセルの記述理論は命題関数の内包性に依拠しているという点が浮かび上がる。 ### ・固有名同士の同一性言明 ラッセルの記述理論は固有名と確定記述を区別するが、固有名に関する理論ではない。そのため、固有名同士の同一性言明におけるフレーゲのパズルに対しては無力である:
  • 23. ヘスペラス = ヘスペラス
  • 24. ヘスペラス = フォスフォラス
この問題に対して、ラッセルは次に固有名について研究する。論理的固有名と固有名の記述説へ。 ## D. 代入可能性の問題 記述理論によると、固有名(直接指示)と確定記述(述語による対象の表示)は対象の与えられ方が異なり厳密にはカテゴリが異なるものであることがわかった。これによってこの二つでは代入則が成立しないことが明瞭になる。 代入則($\\{PKF(a), a=b\\} \vdash PKF(b)$)によると、同じ真理値をもつ表現であれば交換しても命題全体の真理値は変化しない。
<代入則>
$\\{Fa, a=b\\} \vdash Fb $
交換するのがaとかbといった固有名であれば問題ないが、しかし、確定記述と固有名の代入則は成立しない場合がある。その典型例は命題的態度の文脈である。 $A$と$a$は信じている」を信念論理のオペレータ$\Box_aA$で表現して、これを記号にすると(${\tt Hamlet}(x)$:xはハムレットの作者、${\tt English}(x)$:xはイギリス人、s = シェイクスピア): - シェイクスピアはイギリス人であると太郎は信じている。$\vdash \Box_{a}{\tt English}(s)$ - ハムレットの作者 = シェイクスピア $\vdash s=\iota x{\tt Hamlet}(x)$ - ハムレットの作者はイギリス人であると太郎は信じている。(?) $\not\vdash\Box_{a}{\tt English}(\iota x{\tt Hamlet}(x))$ 代入則によれば28の真理値は変化しない。しかし、26を信じている人が28「ハムレットの作者はイギリス人である」と信じているとは限らないため真理値は変化しうる。 ### ・論証の不成立 また、代入則でなくても、確定記述を含む命題を一般命題化した場合においても26~28の論証は成り立たない。「
  • 30. $\Box_a∃x({\tt Hamlet}(x)\wedge ∀y({\tt Hamlet}(y)→x=y)\wedge {\tt English}(x))$
  • $\Box_a{\tt English}(\iota x{\tt Hamlet}(x))$
  • $s=\iota x{\tt Hamlet}(x)$
  • $\Box_a{\tt English}(s)$
30と31から32は導けない。なぜならば、30はクワイン風に言えば指示的に不透明(opaque)であるからだ。 ### ・詳細に検討 しかし、30はスコープの区別を導入することでもう一つの読み方が可能である:
  • 30'. $∃x({\tt Hamlet}(x)\wedge ∀y({\tt Hamlet}(y)→x=y)\wedge \Box_a{\tt English}(x))$
そして、30の少作用域の読み方では\Box_aNsは導けないが、30'の大作用域の読み方だと32を導ける(※2):
  • 30'. $∃x({\tt Hamlet}(x)\wedge ∀y({\tt Hamlet}(y)→x=y)\wedge \Box_a{\tt English}(x))$
  • $s=\iota x{\tt Hamlet}(x)$
  • 32. therefore, $\Box_a{\tt English}(s)$
しかし、結局30と30'のどちらかの読みを強制する根拠はない。そのため、記述理論で分析して確定記述と固有名では代入則が成立していないことを示す議論は有効である(※3)。 --- 確定記述は、直接的に対象を指示しているのではなく、複数の手順(条件)を経て対象を表示していることが分かった。そして、その対象が存在しない場合は、その対象を含む命題は偽になる。これは空想的な対象も否定するなどかなり否定的な結論である。これに対して、ストローソンが日常言語派の立場から記述と社会のつながりを説明する肯定的な理論を提示する。 ## ストローソンの反論 ストローソンはラッセルとは根本的に言語に対する捉え方が違う。ラッセルは言語を記号化し論理に還元して分析する。そして、ラッセルにとって有意味な文とは、真偽の判定が可能な「命題」である。つまり、ラッセルは言語を抽象的な論理に還元し、それ以外の日常的な言語の要素、言語の社会性を無視する(このことは彼が扱う言語が全くの「私的言語」であるということを示唆する)。例えば、「現在のフランス王は禿である」という命題では、ラッセルの場合はそれは真か偽のどちらかであり、そして、この命題は偽である。これに対して、後期ウィトゲンシュタインは言語を社会的なものとして捉えた。そして、彼に影響を受けたストローソンもまた、言語をより現実的、日常的なものと捉える立場からラッセルを批判する。 日常言語における「文」は、その言い手が内容の伝達に成功した場合にのみ真偽の判定が行われる。しかし、これの伝達に失敗した場合は、そもそも真偽の判定が行われず対話者は「何言ってのか分からない」といったふうな返答をする。そして、上の命題を再度見てみると、「現在のフランス国王は禿である」という文の対象が存在しないのだから、そもそもこの命題は真理値を欠いており、真偽の判定は不可能であるとする。ストローソンによると、日常言語には有意味ではあるが、真偽の判定ができず真理値を欠いたものが多くある(ラッセルは真理値を持たなければ命題とは言えない無意味な文とする)。 ストローソンによると、ラッセルが前提とするように「言語表現」が対象を指示するのではなく、言語表現を用いた人間の「言語行為」が対象を指示するのである。例えば「これは青色である」という命題だけでは、「これ」が何を指示しているのか分からない。正しい文脈で使用したり、具体的な行為を伴って初めて「これ」の意味が明らかとなる。このような視点から彼は日常言語の重要性を指摘する。
## ドネランの反論 ドネランは確定記述の使用法を「帰納的用法」と「指示的用法」の二つに分ける。この区別によってラッセルとストローソンの対立の原因を明らかにしてこれらの対立の調停する。 ### ・帰属的用法(non-referring use, attributive use) 彼によると、我々は同じ命題を異なった状況で使用することによって異なったことを意味することができる。例えば、スミスという人物が惨たらしく殺されたとする。そして、彼の死体を発見したものが「スミスを殺したやつは気が狂っているSmith's murderer is insane」と言ったとする。我々はこのSmith's murdererという発言が何も直接指示していない確定記述の使用法(帰属的用法)であることが分かる。なぜならば、この発言者が意味することは「スミスを殺した犯人は誰であろうと気が狂っている」ということであり、具体的な対象を指示しているわけではないし、犯人が誰であっても同じ発言をしていたであろうからである。これはラッセルが記述理論で明確にしたことである。 ### ・指示的用法(referring use) つぎに、例えば、ジョーンズという人物が無実にもかかわらずスミス殺害の容疑で逮捕され、法廷で裁かれているとする。そして、ジョーンズは法廷で独り言を言っていて異常者に見えるとする。彼を見た記者の一人が、「スミスを殺したやつは気が狂っているSmith's murderer is insane」とジョーンズのことを表現した。この発言は直接指示対象をもつ確定記述の使用法(指示的用法)であることが分かる。つまり、この発言は「私が犯人だと確信して、そして独り言を言っている人物は、気が狂っている」という意味である。これは、日常的、常識的な状況から明らかなことであり、ストローソンが支持する立場である。この命題の真偽は、ジョーンズが実際犯人か無実かは関係なく、指示する対象(ジョーンズ)が気が狂っているかどうかである。しかし、この発言をラッセルの記述理論で見てみると、上の発言が間接的に意味する対象はスミス殺人の真犯人であり、また誰であってもスミスを殺したやつは狂っていると受けとらねばらならない。そして、我々は記者のジョーンズの独り言に対する観察は彼の発言に無関係であると捉えねばならない。これは、明らかにポイントをはずしている。 ラッセルはこの指示的用法を無視しているのであり、またドネランによるとストローソンは指示的用法にこだわり、帰属的用法を無視しているという。 --- ## 参考文献 1. 飯田隆 (著)、『言語哲学大全〈1〉論理と言語』、勁草書房、1987 1. 飯田隆 (著)、『言語哲学大全〈3〉意味と様相 (下)』、 勁草書房、1995 1. 飯田隆 (編集)、『哲学の歴史〈11〉論理・数学・言語』、中央公論新社、2007 1. 竹尾治一郎 (著)、『分析哲学入門』、世界思想社、1999 1. 野本和幸 (著)、『現代の論理的意味論―フレーゲからクリプキまで』、岩波書店、1988 1. 野本和幸ほか (編集)、『言語哲学を学ぶ人のために』、世界思想社、2002 1. ライカン, W. G. (著)・荒磯敏文ほか(翻訳)、『言語哲学―入門から中級まで』、勁草書房、2005
First posted   2008/12/11
Last updated  2011/03/22
<< 前へ │ 次へ >> │ 一番上に戻る

index

  • 古代哲学
  • 中世哲学
  • 近代哲学
  • 現代哲学(19-20世紀)
  • 現代フランス哲学
  • 現代イギリス哲学
  • 現代アメリカ哲学
  • 言語哲学
  • 科学哲学
  • 心の哲学
  • 認識論・懐疑論
  • 東洋哲学
  • 美学・芸術の哲学