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# 固有名の古典的理論#1 論理的固有名と記述説(ラッセル) ## 固有名と意味論パズル 先に見たようにラッセルは「表示について」(1905)で確定記述(句)を3つの命題関数に分析してこれに還元した。それによって、伝統的な意味論のパズルのいくつかに解法を与えたが、しかし、先にみた論理的意味論のパズルはもともと「固有名」に関するパズルであり(※1)、それが確定記述においても生じうるというだけの話である。そのためラッセルは、次に、自らの記述理論を下地に「論理的原子論の哲学」(1918)などで固有名について探求する。 ラッセルの固有名はこれの探求の過程で二つに分かれる。一つは、固有名の条件を設定してこれを満足するものを追求して見出した「論理的固有名」であり、それは「これ」、「あれ」といった指標的表現である。もう一つは、論理的固有名以外の「通常の固有名」であり、これはすべて記述の省略であるという結論に至る(固有名の記述説)。## 論理的固有名(logically proper name) ラッセルの固有名の条件を飯田氏(「大全I」、pp195-201)は、次の三つにまとめる: - i. 固有名Eの指示対象の存在は、アプリオリ(事実がどうあるかの知識とは無関係)に確立できる。 (逆に言えば、「Eは存在しない」という命題が無意味でなければならない)。 - ii. 固有名Eの機能は、ある特定の対象を指示する(名指す)だけである。 - iii. 固有名Eの使用者は、Eが指示する対象を見知っている(※2)、ものでなければならない。 固有名の使用者が対象を見知っていなければならないという固有名の条件は、固有名を使用者ごとに相対化する。例えば、「ペガサス」は見知った人がいないので固有名ではないし、「ソクラテス」や「織田信長」も現在では誰も見知った人がいないので固有名ではない。そして、例えば、菅総理大臣はオバマ大統領と会談したことがあるので、彼にとっては「バラク・オバマ」は固有名であるが、私は直接会ったことがないので私にとっては固有名ではない。これを突き詰めていくと固有名の意味は個人ごとに相対的なものになり、従って、ラッセルは、これら我々が通常使用する固有名は本来の意味での固有名とは言えないとする。 ラッセルは、先の三つの条件を満たす「本来の意味での固有名」を「論理的固有名」(logically proper name)と呼ぶ。そして、彼によると、「これ」とか「あれ」といった直示的な表現(指標性indexicality)のみが論理的固有名と呼ぶにふさわしいほとんど唯一のものである(※3)。
## 固有名の記述説(ラッセル) ラッセルが固有名を突き詰めて見出した論理的固有名は「これ」とか「それ」という指標的表現であるとするが、では、通常で使用される固有名(例えば、「サンタクロース」や「オバマ大統領」)はどのようなものなのか。それは、その固有名の使用者がそれの指示対象を見知っていないのに使用される固有名である。ラッセルはこれら通常の固有名は、ある確定記述が省略されたものとする。例えば、「ソクラテス」という固有名には、「(the)毒人参を飲んで死んだギリシャ哲学者」や「(the)プラトンの師」などといった確定記述が結びついている。そして、「ソクラテス」という固有名は、それに対応する一つの確定記述の省略であるとする。これを「固有名の省略説」、もしくは、「固有名の記述説」という(省略説と記述説を区別する人もいるがここでは統一して考える)。 - <固有名> - ソクラテス - <確定記述> - (イ)プラトンの師 - (ロ) 論理学の例題で最も使用される人名 - (ハ) 歴史上最も有名なギリシャの哲学者 - (ニ) アリストファネスの『雲』の主人公 - etc 「ソクラテス」に結びついている確定記述は個人個人異なる。Aさんにとっては、「ソクラテス」に(イ)の確定記述を結びついているが、Bさんにとっては(ロ)の確定記述が結びついている(※5)。(また、例えば、ある人が(イ)と(ロ)の確定記述を同時に対応させているとしたら、一つの確定記述の中に複数の記述が連言で繋がれたものとして対応する(the person who is F & G ...is H)。これを記号にすると複雑な一つの一般命題になる。)これを図で表すと下記のようになるだろう(※4): - <図1> - 図1 - 1. 固有名 - 2. 対応する確定記述(これは要素を一つだけもつ集合である) ∃x{Fx&∀y(Fx→x=y)} - 3. 確定記述が表示する対象 {a} ## 固有名のパズル解消 通常の固有名を記述に還元することによって、確定記述における先の伝統的なパズルの解決方法そのままを固有名のケースに適用できる。そのため、ラッセルの固有名の記述説は、固有名を消去することによって固有名に関する伝統的パズルを回避できるのである。
## (反論1)固有名の意味が相対的になる この固有名の記述説はフレーゲが採用する立場でもあるが、彼は「思想」において「グスタフ・ラウベン」という人物名を用いてこの省略説は使用者ごとに意義(Sinn)が異なるということを示唆している。ここでは固有名「ソクラテス」用いて、上記のように、Aさんにとっての「ソクラテス」は記述(イ)と結びついており、Bさんが使用する「ソクラテス」には(ロ)が結びついているとする。そうすると、二人が使用する「ソクラテス」は異なる意義(Sinn)を有している。そして、このように固有名に対応する確定記述が個人間において異なるならば、固有名の意義は個人間において異なり相対的になる。フレーゲの場合は、意義(Sinn)が相対的でも意味(Beduitung)が一致していれば(公共的)であれば言語の相対性は防げる。 しかし、ラッセルの記述理論は、対象の直示的な与え方(フレーゲの意味)を否定して条件によって表示するという理論であるため(直示的与え方は「これ」や「あれ」などの指標的表現しか認めないのだった)、フレーゲのように意味(Beduitung)に訴えて言語の公共性を保証することはできないと思われる。従って、仮にAさんとBさんが「ソクラテス」が含まれる会話していようとも、二人の使用する「ソクラテス」の意味は異なり二人はまったく別のことについて話していることになる。しかし、このような固有名の帰結は受け入れがたい。 固有名の意味の相対性を具体的に見ると、これはつまり、(1)個人が使用する固有名と結びついている確定記述は、個人間において異なる。(2)相対的な確定記述は、同一の対象を表示している保証はない。(3)従って、各個人において使用される固有名が例え一致していたとしても、異なる確定記述が結びついている限り異なる対象が表示されている可能性がある。言いかえれば、図1のように対象を表示する確定記述のサークルが一致している保証なく、そして、図2のように異なる対象が表示されている可能性がある。 - <図2> - 図2 - 1、A,B,C,Dさんが使用する固有名「ソクラテス」は一致している。 - 2、しかし、A,B,C,Dさんが固有名「ソクラテス」に結びつけている確定記述は一致している保証がなく相対的である(例えば、イ、ロ、ハ、ニ)。 - 3、そのため、それぞれが確定記述が表示する対象「ソクラテス」も一致している保証がなく相対的である。 ## (反論2)固有名に対応する確定記述を取り出すのが不可能 固有名が特定の確定記述と省略であるならば、ある固有名を使用する際それは常に何かしらの確定記述を省略していることになる。しかし、固有名に対応する確定記述が人によって異なるだけでなく、また同一の使用者が同一の固有名を使用たとしても対応する状況に応じてそれは異なる。そして、固有名に対応する確定記述はそれの使用者自身にとっても意識されていないため、使用者は自身が使用する固有名に対応する確定記述を取り出すことができない。例えば、「鈴木イチローは現役だ」と私が発話した場合、状況に応じて、「マリナーズの一番打者」や「2009のWBCで決勝タイムリーを打ったプロ野球選手」が対応していると考えることはできるが、この対応関係をつねに意識しているわけではないため、使用者である私自身が常に対応する確定記述を取り出すことはできない。 - <図3> - 図3 - 1、固有名 - 2、個人が使用する固有名には一つの確定記述が結び付けられている。しかし、この確定記述を取り出すことはできない。 ## (反論3)固有名の存在意義 固有名が確定記述と対応するのならば、固有名の必要性がなくなる。しかし、固有名というカテゴリがあるのだから、記述になく固有名がもつ特徴があるのではないか。 --- ## 注 ※1 - **A. 空の指示** 「ペガサス」は固有名であるが、現実に指示対象を持たない「空虚な指示」である。 - **B. 否定存在言明**
「ペガサスは存在しない」 - **C. 同一性に関するフレーゲのパズル**
ヘスペラス=ヘスペラス,
ヘスペラス=フォスフォラス - **D. 代入可能性の問題**
太郎は、ヘスペラスが金星であると信じている
ヘスペラス=フォスフォラス
太郎は、フォスフォラスが金星であると信じている ※2 「見知っている」もしくは「見知りによる知識」(knowledge by acquaintance)とは、ラッセル認識論における用語で、それは、対象と”出会う”ことで獲得する対象に対する直接的な知(非命題知)をこう呼ぶ。この「見知りの知識」は「記述による知識」(knowledge by description)(命題知)と区別される。 ※3 この「これ」「あれ」などが唯一の固有名であるという主張は、説得力ある議論に裏打ちされているわけではない。また、「これ」「あれ」といった指標的表現をも論理的固有名と認めず、つまり、論理的固有名を記述に還元するという方向に向かっても問題ないように思われる。そして、それを行ったのがクワインである。 ※4 また、対象を直接指示している論理的固有名と対象の関係を図にすると下記のようになるだろう: 図4 論理的固有名と対象は直接対象を指示しているため、記述によるプロセスはない。 ※5 「アリストテレスって誰?」という質問に対して、「紀元前のギリシャの哲学者で、プラトンの弟子で、論理学の創始者で、散歩しながら講義した人で・・・」と答えるだろう。これは通常において行われている応答であり、かつ、正当な応答である。この事実は固有名と記述が結びついているということを示唆する。 --- ## 参考文献 1. 飯田隆 (著)、『言語哲学大全〈3〉意味と様相 (下)』、 勁草書房、1995 1. 飯田隆 (編集)、『哲学の歴史〈11〉論理・数学・言語』、中央公論新社、2007 1. サール, J・R. (著)・坂本百大ほか(翻訳) 『言語行為―言語哲学への試論』、勁草書房、1986 1. ライカン, W. G. (著)・荒磯敏文ほか(翻訳)、『言語哲学―入門から中級まで』、勁草書房、2005
First posted 2011/03/31
Last updated 2011/04/01
Last updated 2011/04/01