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# 中世哲学史#5 神秘主義 ## キリスト教神秘主義 中世末期には経験主義的な傾向が強くなってきたが、神秘主義はそれとは反対に精神的直観を希求する立場である。キリスト教の神秘主義は、先に見たような教父神学者の間でよくみられた。またドイツでは12~13世紀に多くの女性神秘主義者が現れ、ドミニコ会の学問研究と結びついて思惟と敬虔とが結合した思弁的なドイツ神秘主義が形成された。 ### エックハルト(Meister Eckhart, 1260-1327頃) 彼は、他の教父たちと同じように、信仰によって受け入れられ真理とされた事柄(創造、キリストの受肉など)を哲学的に解明しようとした。また彼にとっても神は永遠で無限の一性なる存在であるが、被造物は自らのうちに自立した形相を持ち合わせてない。そして、被造物は神の存在を受け続けることによってのに存在することができる。被造物は全面的に神に依存し、神(一性)はあらゆる多性の原因である(「帰属の類比」)。被造物は神の存在の範囲内においてのみ存在できる。 このことから人間は被造物の存在を肯定することを放棄することによって、神に近づけると(離脱)彼は考える。そして、魂に付着する雑多な不要なものである「像」、とりわけ我意(内的な貧しさ)をすてることによって離脱できる(自らを無にすることによって神の存在と同化する)。 ### クザーヌス(Nicolaus Cusanus, 1401-1464) キリスト教的プラトン主義であるクザーヌスは、自然を「隠れたる神」(Deus absconditus)の可視化されたものであり、痕跡である「可視的な神」(Deus sensibilis)と考えた。これは自然の全ては神の中に収縮されてあり、自然は無限の一者としての展開であると考える汎神論である。 開かれた無知(docta ignorantia) あらゆる原理から先行する存在である神は、矛盾律(A&¬A)といった原理規則をも包括する。そのため、神は矛盾を直感的に容認できない我々の認識を遥かに超えた存在である。よって、人間は自らの無知を認識し、神は「把握されえないもの」であるといことを認めることによってのみ、神に近づくことができる。 神と視覚の比喩 人間は神にデウスという名称を与える。これはテオロー(私が見る)に由来しており、視覚と色の関係によって神と被造物の関係を把握するためだという。色は視覚によって把握され名称を与えられる。しかし、視覚自体は視覚の領域には見出されず、すなわちそれは、色の領域を超えたものとして色に関わっている。したがって視覚は色の領域から見ると、「あるもの」というより「無」として把握される。 このようにクザーヌスの主張は厳密な論理規則のを重視する従来のキリスト教神学に似つかず、矛盾の許容、ないしは一性(ウニタス)と多性の両立の許容という概念を含んでいる。近年、論理学の分野では矛盾を条件付きで認める立場が非古典論理学にある。 そういった意味でもクザーヌスは当時にしては極めて特異で、また、時代を先どった思想家といえる。 --- ## 参考文献 1. 大浦康介ほか (編集)、『哲学を読む―考える愉しみのために』、人文書院、2000 1. 岡崎文明ほか (著)、『西洋哲学史 理性の運命と可能性』、講談社、1997 1. 中川純男ほか (編集)、『中世哲学を学ぶ人のために』、世界思想社、2005 1. リーゼンフーバー, K. (著)・村井則夫(翻訳)、『西洋古代・中世哲学史』、平凡社、2000
First posted 2009/04/04
Last updated 2012/02/07
Last updated 2012/02/07