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# 唯物論批判 ## クオリアの不在や逆転の可能性 Absent Qualia and Inverted Qualia(N.Block & J.Fodor) 我々は世界を経験するときに様々な意識に備わった質的な感覚をもつ。それをクオリアという。しかし、我々が確かに経験しているクオリアを機能主義は無視している。そのため、二人の人間が同じ対象物に対し全く異なる内的経験(クオリア)を経験していたとしても、機能主義にとっては可能であり整合的である。例えば、Aさんが一つのブロックを見て、これは赤だと感じたとする。しかしBさんはそのブロックを緑だと感じる。また、その逆にAさんが緑だといったものを、Bさんは赤だと思うとする。そして「これは赤だ」と両人が言った場合、Aさんの赤はBさんの緑であり、Bさんが言ったとしてもBさんの赤はAさんの緑であるといった、内的経験が全く反転した場合も考えられる。経験主義によると「私は何か緑のものを見ている」という私の経験を記述した説明と、「私は何か緑のものを見ている」という他人の経験をまさに同じものと考える。だがAさんとBさんの経験は異なっているのだから、機能主義は間違っていることになる。 ## ゾンビ理論 Zombie Argument(D.Chalmers) これは機能主義初期のラディカルな思考実験である。哲学的な意味でのゾンビとは、外見的には普通の人間と全く変わらず知性もあるのであるが、意識、志向性などを含む一切の心的活動を持たない存在である。もしこの心を持たない存在が論理的に可能であるならば、行動主義と機能主義は誤っていることになる。なぜならこれらの見解は、心というものの条件を論理的に述べていないのだ。 ## 中国脳 China Brain(N.Block) この想定は我々の脳内にある10億のニューロンの機能が意識などの心的状態を生み出すのなら10億の人口を持つ中国で一人一人に全く同じようにニューロンのステップを実行させるというものである。そうしたならば、10億人の中国人の集まりは脳のように意識を持つだろうか?そのように想像することは難しい。 ### 反論 デネットやロックウッドが言うにはこの想定はこのような大きなものが意識を持つはずはないという我々の直感を悪用している。しかし、その直感は偏見であり、その偏見を取り除いて考えれば、multiple realizabilityを容認する機能主義によると、中国脳は意識を持つことは可能である。## コウモリであるとはどのようなことか? What is it like to be a bat?(T.Nagel) このユニークな論文が指し示すのは心身問題でもっとも難しい意識の問題だ。例えば、コウモリの生態的、機能的なメカニズムに関して十分な知識を持つ学者がいたとする。だが、視覚を持たず超音波の反響音で外界を探索するコウモリにとって世界はどのように表現されているのだろうか?といったコウモリ自身にしか分からない主観的な知識(what-is-like)、つまりその学者は「コウモリであるということはどのようなことか?」という知識を持っていない、また持つことはできない。あらゆる客観的な知識をもってしても主観的な特徴を説明できないのである。この唯物論と実際の人間の意識との隔たりをレヴァイン(Levine)はExplanatory Gapと呼んだ。 ## メアリーは何を知らなかったか? What Mary didn’t know?(F.Jackson) この反論も上のネーゲルのものと似たもので、二つあわせてKnowledge Argumentと一つに括られる場合もある。その思考実験によるとメアリーという生まれてから白と黒の世界で育った女性を想定する。彼女は白と黒以外の色を一切経験したことはないのだが、完璧な色の知覚に関する知識(神経生物学、物理学、etc)を習得している。果たして彼女が色のある通常の世界に一歩踏み入れたとき、彼女は何かを学ぶだろうか?機能主義や他の唯物論によると彼女は色についての客観的に知っているのだが、色とはどのようなものであるか?といった質的経験に関する知識は、やはり欠けているように思える。 ### 反論1 機能主義者であるルイスは能力説(Ability hypothesis)という仮説を持ち出してこれを説明する。ネーゲルとジャクソンの議論が示すことは知識が客観的である限りは、その知識の及ぶ範囲に含まれない現実の現象(色の経験、コウモリの感覚など)があるということだ。つまりメアリーやコウモリ学者は赤やコウモリに関する命題知(propositional knowledge)を持っているのだが、赤ということはどのようなことかや、コウモリであるということはどうことか(What-is-like)といった技能知(practical knowledge)を一切持っていない。二つの知識は存在論的に異なっている。よって一方を得ても他方を得られないのは当然であり、そしてそれらの知識は異なったものであるが存在論的に異なっているのではない。そのためなんらクオリアが物的でないことを示すものではなく,クオリアを物理現象に還元することは可能である。 ### 反論2 ネーゲルやジャクソンらの主張はまとめて下記のように要約できる。
- メアリーは赤についての客観的な知識を持っている(赤色の対象があるニューロンの過程を引き起こすなど)
- メアリーは赤について経験的に知らない
- よって、赤に関する客観的な知≠赤に関する経験知
## 中国語の部屋 Chinese room(J.Searle) これは、サールによる機能主義もしくは彼自身の言葉で言うと「Strong AI」批判に画期的な転機をもたらした重要な批判である。サールはまず次のような思考実験を提示する。それはある中国語を一切理解できない英語のネイティブスピーカーがある部屋に入る。そこには中国語の記号が入った箱と英語で書かれた中国語に関するルールブック(プログラム)があり、それらを駆使すれば部屋の外から与えられる中国語の問題に(問題どころか言葉すら理解できていないのに)対処できる。この部屋をコンピュータの働きと考えてみると、コンピュータは一切中国語を理解していないのにプログラムに従うだけでチューリングテストに合格できる。しかしこれは本当に理解しているわけではなく、理解をシミュレーションしているだけなのだ。これ以前の批判はクオリアや主観的な脳に備わる能力を挙げることによって、脳と機械を差別化しようとしていたのだが、それらはAI研究が進むにつれ解決される可能性がある。しかし、このサールの提案は違った観点からコンピュータと人間の違いを提示する。それはコンピュータは何かしらの意味を記号に割り当てなくても動くというものである。機械のプロセスは単純で文法的に定義されたものであるのに対し、人間の心は解釈できない記号以上のものを備えており、心が言葉(記号)に意味を与えるのである。 ### 反論 例え部屋の中の人が中国語を理解しないとしても、その人は、部屋、ルールブック、窓、箱、プログラムといったものからなる大きなシステムの一部に過ぎない。中国を理解するのはその人ではなく、システム全体なのだ。部屋全体が中国語を理解するのである(システムの対応)。これに対してサールは、もし全てのルールを覚え、部屋を出て同じ作業をしたとしても、その人は完璧に中国語を答えられる。しかし、彼は記号を操作しているだけで意味を理解しているわけではない(統語論と意味論の区別)とサールは指摘することによってそれを退ける。 --- ## 参考文献
First posted 2007/05/18
Last updated 2011/03/04
Last updated 2011/03/04