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# フィヒテの哲学 「知識学」(メモ) フィヒテはドイツ観念論の創始者とされる。彼は、カントの思想を引き継ぎつつ、「物自体」を排除し、実践理性の優位性を強調し理論理性(認識)と結びつけることによってカント哲学の観念論的側面を追求した。そのため、彼の哲学は「主観的観念論」とよばれる。また、`「ドイツ国民に告ぐ」`でも有名である。 フィヒテにとっての「絶対知」とは`知についての知(eing Wissen vom Wissen)`、つまり「自己知」、もしくは`絶対自我(absolutes Ich)`である。絶対自我、つまりメタ自我が、自我という主体を対象化することによって、他のあらゆる`非我(Nicht-Ich)`(=客体)に対する知(「あるものについの知」)と同じように、自我を知る。このような知識の成立の根拠である「絶対自我」を、自己定立作用である`事行(Tathandlung)`を根底において、次の三つの原理(定立Setzen-反定立Gegensetzen-総合)にまとめる。 ### ・第一原理(定立): 知識の根本には絶対的で無制約的な原則を据える必要がある。それはA=Aという同一率である。そして、このA=Aという論理法則(Xと呼ばれる)を判断し定立する主体は自我である。そのため、同一率という論理的必然性から自我が定立される。そして、自我を定立する自我と、定立された自我は同一のものである(自我=自我(絶対自我と対象化された自我は同一のもの)。そのため、「自我は自我を定立する」。 ### ・第二原理(反定立): 内容的に制約されていて、形式的に無制約な原則を反定立に据える。それは「非AはAでない(非A≠A)」という矛盾律である。矛盾率は同一率を必要とせず独立して定立される無制約な原則だが、非AはAという肯定的命題が定立されている必要があるため内容的に制約的である。Aは自我によって定立されているのであったから定立されるものは自我以外なく、そのため非Aは非自我(非我)となる。非我は絶対自我による自我の否定によってしか定立されないため、自我とはどこまでも矛盾関係にあるといえる。「自我は自らに非我を反定立する」。また、このように、自我から非我を反立するのは絶対自我であり、つまり非我(客観)は絶対自我に依存する。 しかしこの二原則から下記のように矛盾が導かれる(\*1)(\*2): 1. もし、非我が定立されているなら、自我は定立されていない(なぜなら、非我によって自我は完全に排除されるから)。 2. もし、非我が定立されているなら、自我は定立されている(なぜなら、非我は自我のうちにのみ定立されているから)。 ### ・第三原理(総合): この原理において先の矛盾を調和させようと試みる。その試みはフィヒテによると、矛盾しあう命題が互いに制限(Schranke)しあうことによって可能であるという。制限するというこは、自我と非我の互いの一部分を廃棄するということであり、そのためお互いが「可分的」であるということが含まれる。この制限により矛盾が総合される。「自我は自我において可分的自我に可分的非我を反立させる」。自我、非我の一部分を除外することによって総合する主体もまた絶対自我である。そのため、自我と非我(主体と客観)という分裂構造は絶対自我の意識内のものである。 このように、絶対自我が自我を反立することによって非我を形成し、また自我と非我の一部を排除し総合する。こうして、自我と非我を絶対自我(絶対知)のうちに回収することによって、カントが分断した実践的自我と理論的自我を纏め上げ、また「物自体」を否定する「主観的観念論」を提唱する。そして、この絶対知である絶対自我の真理性を「絶対者の知における現われ」であるとすることによって確保し、またそれによって自我とともに非我の真理性をも確保する。知をメタレベルの知である絶対自我で正当化する。しかし、そのメタ知を正当化する絶対者(存在、存在の根拠)の問題が生じる。(よくわからないが、結局カントが批判した神学的形而上学に逆戻りしているように見える) ### 第二部、第三部 知識学の第二部、第三部において、第三原理が残した、自我と非我の関係の仕方についてこれ以降展開する。第三原理において、絶対自我の内に能動性と受動性が混在しているのが見て取れ(\*3)、受動性は理論的知識(認識)の基礎で能動性は実践的知識(実践)の基礎であるとする。ここから、自我と非我は相互規定関係であることがわかる。そして、次に、非我の自我に対する役割について言及する。「動因」「努力」 - 動因:「自我が、能動的であるかぎり自我に関して生じる。したがって、動因はただ自我が能動的である限りにおいてのみ動因であるのでる。…自我のどんなの同姓もなければどんな動因も名。それに対応して、自我の自己自身による着ての能動性は動因によって制約されているであろう。どんな動因もなければどんな自己規定もない」。 - 努力:「自己に抵抗されるかぎり、ただそのかぎり努力であるところの自我の努力がある。それ故、どの程度までそれが努力であろうとも、その努力は同時に非自我によってもまた制約されている」。 --- ## 注
  • \*1. 二つの参考書(シュヴェーグラーと福吉)が提示する、(1)の命題が異なっているように見える:
    • 非我が定立されていないかぎり自我が定立されているということは不可能である。[3, p221]
    • 非自我が定立されているかぎり自我は定立されていない。[4, p121]
    文脈から見ると、上の言明が妥当に見えるが、それでも、なぜ非我が自我に先立って定立されることを想定しているのか?非我は自我を前提としているのではないのか?
  • \*2. 「もし、非我が定立されているなら、自我は定立されていない」と「もし、非我が定立されているなら、自我は定立されている」をそれぞれ(B→非A)と(B→A)と単純に解釈した場合、矛盾(A&非A)は導けない。
  • \*3. 自我は非我によって制限されものとして自らを定立する(受動) 自我は自我によって制限されたものとして非我を定立する(能動)
--- ## 参考文献 1. 岡崎文明ほか (著)、『西洋哲学史 理性の運命と可能性』、講談社、1997 1. 大橋良介 (編集)、『ドイツ観念論を学ぶ人のために』、世界思想社、2005 1. シュヴェーグラー (著)・谷川徹三ほか(翻訳)、『西洋哲学史〈上〉』、岩波文庫、1995 1. 福吉勝男 (著)、『フィヒテ (Century Books―人と思想)』、清水書院、1990
First posted   2008/11/07
Last updated  2008/12/29
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