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# 近代哲学史#3 イギリス経験主義 ## イギリス経験主義 デカルトが過去の哲学もしくは知識の外在的な基礎付けを懐疑論的方法にて粉砕したのち、コギトという内在主義的な確実性を知識の基礎に据えた。そして、デカルトや他の合理主義者たちはそこから形而上学的な神の概念を構築することで世界の確実性を証明しようとした。他方、人間の認識はすべて経験から得られるとする立場がベーコンが発端となりイギリスで発展した。これは、大陸の合理主義に対しイギリス経験主義と呼ばれた。 --- ### ロック(John Locke, 1632-1704) ロックは主に認識論に携わった。伝統的な哲学では、イデアなどの`生得観念(innate idea)`によってもたらされた認識が信念や意見よりも重視された。しかし、ロックは生まれたばかりの我々の心は、アプリオリな認識をまったく持たない状態、つまり、`白紙(tabula rasa)`であると考えた。そして、先の伝統的な立場を否定してこの白紙を認識論の根底に据える。そして、あらゆる知識は、”経験による観念”に由来するという。`感覚のうちになかったのは、知性のうちにない(Nihil est in intellectu, quod non in sensu)`。これが経験主義のモットーになった。 経験による観念(第一性質と第二性質) 経験による観念は`単純観念(simple idea)`と`複合観念(complex idea)`に区別される。前者は外的事物を経験する感覚(sensation)を通して得られる。単純観念が示す対象の性質は、例えば、延長、形態、運動といった直接的に感覚に与えられる性質であり、これは`第一性質(primary quality)`と呼ばれる。後者はこれを比較、結合、抽象といった内的な働きの知覚である反省(reflexion)によって得られる。複合観念が示すのは、例えば、色、味、匂いといった感覚を通して得られる主観的な性質であり、これは`第二性質(secondary quality)`と呼ばれる。 経験による認識 経験による観念を素に認識が形成される。それは、直観的認識、論証的認識、感覚的認識の三つに分けられる。そして、「直観>論証>感覚」の順に認識の確実性が減少するが、彼は感覚的認識(つまり経験科学による認識)も蓋然性を以上の確実性を備えた認識であると認める。だが、この確実性はやはり直観的・論証的認識がもつ絶対的確実性とは異なる実践的確実性であり、感覚的認識はこの絶対的確実性を持ち得ないとする。 ロックによると、認識は観念間の一致によってなされるとするが、しかし、客観的事物とそれから得た心のなかにおける認識がどのように一致していると確かめることができるのか。また、ここには外的事物が認識のそとに存在するということを前提としている。このような点において、ロックの哲学の背景には、経験論を徹底しておらず、デカルト合理主義の影響が残っている。そのため、これを解決するために一元論を取ると唯物論か観念論に至るのである。そして、経験主義を徹底し、観念論に導いたのがバークリであり、対極の方向に推し進め唯物論に導いたのがコンディヤックである。 [ロック「人間知性論」]()
  • 著作
  • 『統治二論』Two Treatises of Government (1690)
  • 『人間知性論』An Essay concerning Human Understanding(1689)
  • 『教育論』Some Thoughts concerning Education (1693)
--- ### バークリ(George Berkeley, 1685-1753) バークリーは、ロックの経験主義における観念の哲学を受け継ぎ徹底した。ロックの経験主義は、客観的事物が心の外に存在しそれを感覚的に認識可能であるとする。だが、その認識がどのようにして第一性質といった客観的な事物の性質に到達できるか分からない。バークリによれば、ロックが第一性質としたものは、直接得た感覚ではない。我々に知覚できるのは複合観念(視覚が捉える、色や明暗など)から得られるロックが第二次性質と呼んだもののみであり、この第二次性質から第一性質を推測し形成するのである。つまり、第一第二という区別はバークリにとって意味をなさない。   (ロック)              (バークリ)
単純観念→第一性質    単純観念  第一性質
  ↓  \                    ↑※推測による形成
複合観念  第二性質    複合観念→ 第二性質
観念論 つまり、ロックは事物の第一性質は直接認識すると考えるが(主観は客観を認識すると考えるデカルト的心身論)、バークリは第一性質は第二性質から推測するものであるとし、第一性質を第二性質に還元することによって、客観的な事物の認識を否定する。主観は客観という超越存在を知覚できない。心身の関係を完全に否定し、全てを主観に還元する。つまり、事物の存在は感覚によって得られる観念を統合したものにすぎない。このことは`存在するとは知覚されること(esse est percipi)`と表現される。このように経験論を極限まで研ぎ澄ますと、世界は私の観念に収束するという`主観的観念論(独我論)`にいたることを示す(`master argument`)。 現像と模造(Archetype and Ectype) しかし、このような独我論的、懐疑論的状況にバークリは神の存在を見る。なぜなら、我々は不自由な観念をもつからだ。観念がすべて想像のように自らの意志で操れるのであれば、世界は自分の意思のままである。そもそも、そのようであれば世界は現前するような整合性を備えてはいないだろう。だが、世界の観念、恣意的なものではなく秩序をもちより直接的である(レモンは酸っぱい)。我々にとって操作できない不自由で直接的な観念はどこからくるのか。バークリはこの我々の内に有る不自由な観念は、神という超越存在が我々に与えるものであると結論する。彼によると不自由な観念は神の内にあるときは`現像(Archetype)`とよび、我々の内にあるときは`模造(Ectype)`と呼ぶ。 このようにバークリの徹底した経験論は、ロックが主張するような物体という実体を否定する独我論に至った。そして、結果的にここに彼は神を見だした。彼によると、このような主観主義こそ、唯物論、無神論を避ける確実な道であるという。
  • 著作
  • 『視覚新論』An essay towards a new theory of vision (1709)
  • 『人間知識の原理』A Treatise concerning the Principles of Human Knowledge (1710)
  • 『ハイラスとフィロナスの三つの対話』Three dialogues between Hylas and Philonous (1713)
--- ### ヒューム(David Hume, 1711-1776) バークリがロックの物質としての実体を否定し主観性に還元したように、ヒュームもロックが想定した客観的事物を否定した。我々に与えられるのは物事の印象のみであって実体そのものではない。そして、彼はニュートンが『プリンキピア』で自然法則の原理を示したように人間知性の原理(彼はそれを観念の働きとする)を考察し、これよってイギリスにける経験主義はヒュームで極限まで押し進められた。 知覚・観念・印象 彼は、ロックの観念を「知覚」と呼び次のように構造化する。 ┌──────知覚(心の内容)────────┐
│  印象(直接経験)   →  観念(印象の模写) /
│ ・感覚                           /
│ ・反省                           /
└─────────────────────┘ すべての観念は印象がもたらし、生得観念は存在しないとする。この点で彼は伝統的な経験主義者である。また、感覚印象は、「知られない原因から根源的なものとして心に生じる」ため、この点でロックが想定した外的事物を否定している。ヒュームはこの観念の働きを考察する。 観念の連合 印象は、記憶と想像によって観念として現れる。そして、印象から得た単純観念を想像でつなぎ合わせることで「黄金の山」などの未経験の複合観念を構成できるとした。しかし、「山」という観念と「黄金」は繋げられるが、これと「因数分解される」という観念は結びつけれない。つまり、観念の繋がり・連合には法則性がある。それは、類比、接近、因果という三つの法則(引力に例える)にまとめられる。 因果関係への懐疑 因果に関する観念の連合という考えは、ある重大な帰結をもたらす。それは、因果関係の必然性に対する懐疑であり、そして、この必然性を前提とする自然科学に対する懐疑である。それは、つまり、我々は自然は必然性的な秩序をもったものとして我々に現前する。これを`自然の斉一性の原理(the principle of the uniformity of nature)`という。 しかし、ヒュームによると我々が物事が必然的な因果関係をもっていると感じるのは観念の連合の習慣(habit)にすぎない。つまり、因果関係の必然性は、“いままで同じ結果だったのだから次もそうだろう”という根拠なき推測・信念であり、原因と結果の必然的結合を認識したわけではない。我々は`継起関係(post hoc)`から`因果関係(propter hoc)`を作り上げているにすぎない。そして、ヒュームによると、そのような推測(蓋然性から確実性への飛躍的推測)は`人間本性(human nature)`であるという。 このヒュームの自然の必然性に対する懐疑よって、帰納法から法則を導き出す自然科学はこの根拠なきドグマを前提としていることが判明する。つまり、科学という合理性の象徴が単なる信念でしかないということが暴かれたのである。これの次に、この懐疑から科学はどのように正当化されるか、という問題が提示される。この問題はカントの超越論哲学やポパーなどの科学哲学に受け継がれる。 さらなる懐疑 ヒュームは客観的実体や因果関係などに加えて、精神(自我)の実体も否定する。精神は`知覚の束(bundle of perceptions)`にすぎないという。ヒュームの哲学へ
  • 著作
  • 『人間本性論』A Treatise of Human Nature (1738),
  • 『人間悟性論』An Enquiry Concerning Human Understanding (1748),
  • 『自然宗教に関する対話』Dialogues Concerning Natural Religion (1779)本人の死後刊行
--- ### コンディヤック(Étienne Bonnot de Condillac, 1715-1780) 経験主義はバークリの観念論を導いたが、他方、唯物論とそれに応じた無神論も内包していた。イギリスでは宗教的な習慣や民族性により、そちらのほうへ議論を展開する人物が現れなかった(ロックの経験論やヒュームの懐疑論に対してさえ多くの反発があった)。そして、その唯物論的方向に展開したのはフランス人であるコンディヤックであった。 感覚論 彼は、ロック哲学の出発点である「認識の全ては経験から生まれる」という命題を受け継ぐが、ロックが経験を感覚と反省に分けたのに対し、コンディヤックは反省を感覚に還元する。そしてロックが感覚によって事物の単純観念としての客観的実在性を知ると主張するように、我々は外官の感覚からしか事物を認識できないとする。そして、心の特性(意志、観念連合)もその感覚から形成される。感覚論は物質的存在以外存在しないという命題を内包している。 --- ### エルヴェシウス(Claude-Adrien Helvétius, 1715-1771) 彼は、唯物論から倫理的な要素を引き出した。彼によると、自愛は精神活動の原動力であり、かつ、自愛の目的は肉体的快楽である。よって、精神活動の目的は感覚的快楽である、という。この結論から、彼は感覚を全ての道徳の原理にすべきとする。
  • 著作
  • 『人間認識起源論』Essai sur l'origine des connaissances humaines (1746)
  • 『人間、その能力および教育について』(De l'Homme, de ses facultés intellectuelles et de son éducation)1772
--- ## 参考文献 1. ウィル・バッキンガム (著)・小須田健(翻訳)、『哲学大図鑑』、三省堂、2012 1. 大浦康介ほか (編集)、『哲学を読む―考える愉しみのために』、人文書院、2000 1. 大橋良介 (編集)、『ドイツ観念論を学ぶ人のために』、世界思想社、2005 1. 岡崎文明ほか (著)、『西洋哲学史 理性の運命と可能性』、講談社、1997
First posted   2008/10/08
Last updated  2012/03/21
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