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# スピノザ「エティカ」#2 人間 ## デカルトの二元論が残した心身問題 スピノザはデカルトの二元論が心身問題という決定的な問題を内包していると考えた。そして、デカルトのちぐはぐな応答に非難をこめつつ次のようなことを記す:自明な原理から出なければ、何者も導き出さず、また明瞭・判明に知覚できるもの以外には何者も肯定しないということを断固として主張し、スコラ学者たちが曖昧な事柄を隠れた性質によって説明しようとしたことを、あのようにしばしば非難した哲学者(デカルト)自身が、一切の隠れた性質よりもさらに隠れた仮説を立てるとはまったく驚き入ったことである。いったい、彼は、精神と身体との合一をどのように理解しているのであろうか。また彼は、延長のある小部分(デカルトは松果腺という器官が心身を結び付けているといった)と密接に結びついた思惟をどれほど明瞭・判明に理解しているのであろうか。(第五部序文)## 心身は異なった属性 スピノザはこの精神と身体の齟齬という心身問題に対し、神という無限の実体における属性で説明する。つまり、神は無限でまた無限の属性を所持しているものである。そして、人間はその無限の属性のうち二つ、つまり、思惟(cogitatio)と延長(extensio)を知りうるにすぎない。
精神と身体とはまったく同一の個体であり、それがあるときに思惟の属性のものとでまたあるときは延長の属性のものとで考えられる。 (IIP21S) 延長と様態とその様態の観念とはまったく同一のものであって、二通りに表現されただけである。(IIP7S)デカルトは精神と身体は異なった実体であると考えるのに対し、スピノザは二つは同じ実体(=神)の異なった属性と考える。現代の例で考えてみると、パソコンでjpgの拡張子を持つファイルを画像ビューアで開けば写真が表示されるが、メモ帳で開けば記号の羅列が表示される。ふたつは同じファイル(実体)から別々の様式(属性)で表示されたに過ぎないということだろうか。このように思惟も延長ももとは同じ実体であり、異なった属性(属性は無限にあるが、我々が認識できるのはこの二つだけ)であり、それらは、並行的な関係である。またそれぞれの属性がもつ様態においても平行した属性の様態(実体の変状(affectio))と同一関係にある(思惟の諸様態と延長の諸様態は一致する)。この二つの平行した属性という考えが、心身問題に心身並行説(Parallelismus)といったひとつの解決方法をもたらす。 ## 人間精神 人間の場合も他の事物と同じで、神の無限の平行した属性とそれに伴う様態を内包している(人間が認識できるのは延長と思惟の二つだけであるが)。また、神はその無限の属性の中のひとつとして無限の思惟を持つ。それを「無限知性」という。そして、その無限の知性とその様態である無限の観念のなかに我々人間も含まれる(「人間精神は、神の無限知性の一部である。」定理11系)。そして、人間精神とは、この自らの「身体の観念」が自らの精神であるとスピノザは言う。
人間精神を構成する観念の対象は身体である。あるいは現実に存在する延長のある様態であって、それ以外のものではない。(定理13)ではその「身体の観念」とは具体的にどのようなものか。まず、明確にしておきたいのは、あらゆる結果は原因を内包しているということである。つまり、(p→q)で考えると、結果qは前提pを全て内包している。このように、神もしくは無限知性はこの巨大な連鎖そのものであり、すべての無限の結果の中に神は含まれる。そして、この無限に続く連鎖に神の視点といったものはない。あるのは、無限に続く知性の連鎖の海である。これにより、我々の知覚や意識といった精神に属する要素もこの無限の海に発生した飛沫のひとつであることが理解できる。そして、**その連鎖の結果に生じる「身体の変状」を知覚することが「身体の観念」であり、それが精神である**。 また、存在する全ての観念が神のうちにあり(定理3)、その観念が人間の精神を構成するのであるならば、他の事物または事物の全てが精神を持ち魂を宿している(animata)と結論できる。これが、スピノザの万有霊魂論である。 --- ## 参考文献 1. 上野修 (著)、『スピノザの世界―神あるいは自然』、講談社、2005 1. 岡崎文明ほか (著)、『西洋哲学史 理性の運命と可能性』、講談社、1997 1. シュヴェーグラー (著)・谷川徹三ほか(翻訳)、『西洋哲学史〈上〉』、岩波文庫、1995 1. カーリー, E.ほか (著)、『スピノザ『エチカ』を読む』、文化書房博文社、1993
First posted 2007/02/08
Last updated 2009/01/17
Last updated 2009/01/17