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# メルロ=ポンティ「行動の構造」#2 ## 構造の弁証法(ゲシュタルトの存在論) メルロ=ポンティによれば、ゲシュタルト心理学者はゲシュタルトが物理的客観世界に存在するとし、生物の行動も心の活動も全てこの物理世界的世界のゲシュタルトから生ずる結果として説明する。しかしメルロ=ポンティはそれは自然の中にあるのではなく、意識にとって存在するものである。例えば、さまざまな音素が結合されて一つのメロディを構成する時、このメロディという全体的構造は、それらの音を聞いているものによってのみ存在する。この全体的構造としてのゲシュタルトは、音楽を聴いているものがこれらの音の感覚を集めて、そこから引き出してくる意味なのである。ゲシュタルトの主観性を説明するのに`ルビンの杯`のような「壷」あるいは「二人の向かい合った横顔」とも取れるような図を用いる。このように見るものの態度によってどちらにもなるものが物理的な実存として客観的に存在するということはありえない。したがって、このゲシュタルトは、それの観察者がいて初めて存在しえるのである。また別の言い方をすれば、この観察者がそのつどの関心に従ってそこから読み取った意味として、彼の知覚にのみ存在するものなのだ。 つまり心理学ではゲシュタルトを再び客観的世界内部の出来事へと還元し、原因や実在的事物といった概念と同じレベルで扱うが、メルロ=ポンティは試みたことはゲシュタルトそのものに対する哲学的分析であり、どのような条件下でゲシュタルトは存在するのかといったゲシュタルトの存在の構造に向かった。そして三つの構造的実在性が異なったゲシュタルトの水準(ゲシュタルトの層)を考察する。 まず最初に物理世界のゲシュタルトがある。それは伝導体における電荷の分布やポテンシャルの差異や電流などの物理学でいうところのシステムである。そして、その上に生命的世界のゲシュタルトが存在する。それは「自己の対する事物の作用を自分で測定し、そして物理世界には類のない循環的過程によって自己の環境を自分で限界付ける」(SC 222)。例えば、水におぼれるハエの行動はただ石が水に落ちる行動とは様相が異なっているように、生物ゲシュタルトとは「生命的な意味」もしくは環境に対して有機体が取るさまざまな態度にしたがって分類されるのである。また生物ゲシュタルトは物理ゲシュタルトによって構成されているが(筋肉組織や神経組織など)、物理ゲシュタルトに還元して生物ゲシュタルトを説明することはできない。生命現象を正しく理解するためには、生命体の行動を独自のゲシュタルトとして捉える記述的生物学が必要なのである。 またその上に人間的ゲシュタルト(人文社会学や歴史学が学問の対象としているもの)が高度な水準で存在し、これもまたいずれかのゲシュタルトに還元して説明することはできない。これは有機体の感覚体制によって限定されたこの生命的な秩序に基づいて更に第三の弁証法を解しさせる。それは行動の象徴的形態でも触れたようなシンボルを媒介とした世界との新たな弁証法的関係、いわゆる「意識の生活」であり、文化という固有の環境の形成である。メルロ=ポンティはこの人間的秩序の特徴として与えられたゲシュタルトを超出して高次のゲシュタルトを新たに創出する能力である(SC 261)人間のこうした活動を彼は「乗り換え」の運動とか「変形」とか「捉えなおし」といった言葉で表している。 |三つのゲシュタルトの水準| |:--| |・物理的秩序(物質)| |・生命的秩序(生命)| |・人間的秩序(精神)| ## 転移プロセス 3つのゲシュタルトはどのような過程を経て他段階へ推移してゆくのか。メルロ=ポンティはこう記述する:「上位秩序の出現は、その完成度の度合いに応じて、下級の秩序からその自律性を奪い、おのれを構成する各段階に新しい意味を付与するようになる」(SC 268)といったゲシュタルト生成の非連続のプロセスである。またこのような構造の生成は、逆にそれが停止したときには構造の解体として現象しより低次のゲシュタルトが出現することになる。また生命的弁証法と人間的弁証法の関係の齟齬については、ゲシュタルト解釈によるフロイト主義の改釈という形でそれを論じる。 ## メルロ=ポンティの心体論 デカルトの心身二元論は心と体それぞれが別々の物質であり、我々はその二つを併せ持つ二重の存在であると説目したが、メルロ=ポンティはゲシュタルトを用いて反論する。上にもあるようにゲシュタルト心理学によれば心と体は異なった異質の実体ではなく、二つの異なった水準のゲシュタルトなのだ。そしてそれらは図が、地を離れてはありえないように、心は身体を離れてはありえない。あるいは心とは身体の意味だとすれば、一般的に言ってそもそも意味というものは受肉しているものなのだ。(「知覚の現象学」で詳しく触れる) ## 知覚のパースペクティブ性 上にあるようにゲシュタルトは物理的実存ではなく知覚の対象であり、知覚された対象の統一のことである。そこで次にメルロ=ポンティは「行動の構造」第4章で知覚的経験の分析を開始する(これは「知覚の現象学」のいわば序論である)。メルロ=ポンティが強く影響を受けたガブリエル=マルセルはこういう。人間である私は身体を持っているという単純な事実に注意を喚起している。私は私のこの身体をそのほかの諸対象と同じように取り扱うことはできず、むしろこの身体によって私は始めて諸対象を自由に取り扱うことを可能にするのであって、この身体そのものは私にとって対象として自由に扱われることはできず、むしろそれは私によって`付随性(indispensability)`として存在しているのである。そして私は私の意のままにならない身体を持っており(「受肉した人格」)、そのような観点から世界を眺めるように定められている。そしてこのことは「人間あるいは被造物としての私の条件」である。 メルロ=ポンティはこれを次のように自身の思想を展開する。つまり我々は神のように超越的な視点から世界を眺めているのではなくて、我々の身体が今ある位置から「受肉した」視点を持って世界を眺めているのだとすれば、世界は一挙に完全に認識されるということは決してなく、むしろ常に不完全な形で徐々に認識されていく他はない。ただし、私のこの「受肉した」視点は、不完全な認識を徐々に完全な認識へと発展させていくことはできるのである。私は身体を持って世界を眺めているが上に、私が見る世界は常にパースペクティブにしたがって現れ、私が見るものは常に奥行きと見えない側面を持って現れる。そして、わたしが身体を動かすに連れて、パースペクティブは徐々に変化していく、それにつれてこれまでは見えなかった側面が次々に見えてくるのである、そして「パースペクティブ性は、知覚の中に主観性の係数を導きいれるどころか、反対に、我々が認識しているよりも豊かな世界、すなわち実存的世界との交通を知覚に保障してくれるのである」。 ## 地平線の例 私から地平線までは一定の距離が広がっているけれども、その距離は地平線に属する性質というわけではない。私が「その距離に視線を走らせる」ことがないなら、距離は消滅し、およそ地平線といったものも消失してしまう。同じように、私が今、ここに位置を占めているのでないなら、世界が遠近法的に広がり、一定のパースペクティブを示すこと自体が、そもそもありえないことになるだろう。見ることは常に「どこかから見ること」である。(「知覚の現象学」、P3)そしてあらゆる角度から地平線をパースペクティブ的媒介を介しつつ観察することによってパースペクティブ性を脱却し物の「肉的現実」に到達するのだという。 ## 「上空飛翔的思考」批判(「批判主義」批判) 人間は身体に縛られパースペクティブな視点でしか世界を知覚できないということは分かったが、では神はどのように世界を知覚しているのだろうか。二つの可能性が考えられる。 1. 神はパースペクティブ性を脱却した普遍的な視点から世界を一度に完全に捉えている。そしてこれは科学が前提としてる実在論である。 2. 世界の外に立つ超越的な視点から世界を完全に構成してしまう。これはカントのような全自然を意識の面前で構成される客体的統一とする批判主義であり、「外的傍観者」の視点に立っている。 しかしどちらにせよ神の視点をパースペクティブ的な人間の視点と異なったものとして想定している限り「上空飛行的思考」をおこなっているのである。そしてこの上空飛行的思考は科学の客観的世界を対象とする科学の思考と同じなのである。しかしこのような神の視点を持つ科学的な知識はパースペクティブ性をもつ知覚によって基礎付けられているため、実在論や批判主義はメルロ=ポンティによれば、「遡及的錯誤」に陥っているという。 ## 偶然 こうした批判主義批判はパースペクティブの偶然性という契機の強調としてもあらわれる。メルロ=ポンティの偶然性とは必然の対立項目としてのものではなく、世界の存在そのものの偶然性としての存在論的概念として提示される。つまりそれは、後に反省において根拠付けることが可能であるような究極の基礎を描いているということであり、あいだ(entre-deux, in-between)こそが存在の究極の根源だということである。 ## 知覚できないもの 加えて、我々の知覚が常にこのパースペクティブにしたがって現れるということは、私は私のある側面を決して知覚できないということだ。私は私の顔を見ることはできずその見ることのできぬ面は私にとって純粋な意味でしかないのである。 他方で私のパースペクティブは他人と共有できないため他人にとっては私によって知覚された世界など、純粋な意味に過ぎない。 --- ## 参考文献 1. 村上隆夫 (著)、『メルロ=ポンティ』、清水書院、1992 1. 鷲田清一 (著)、『メルロ=ポンティ―可逆性』、講談社、1997
First posted 2007/06/10
Last updated 2009/05/29
Last updated 2009/05/29