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# メルロ=ポンティ「行動の構造」#1 ポンティは最初の著作である『行動の構造』で、 批判主義的な哲学的反省、そして、経験主義的・実在論的な科学的分析の立場とを同時に乗り越えるような、思考の第三の次元を探求する。 言い換えれば、ポンティは行動を心的なものと生理的なものとの間にある中立的な立場から定義し直そうとした。 そして彼はまず古典的な反射運動について言及した後に、ケーラー、ゴルトシュタイン、ヴェルトハイマー、コフカ等によって発足したゲシュタルト心理学を用いて反射行動を解析する。 ## 古典的心理学の反射(反射と刺激の一対一対応) ゲシュタルト心理学以前の心理学では生物の行動とは、一定の(要素的な)刺激に対する一定の(要素的な)反応のことであって、複雑な行動もまた、これらの単純な要素的刺激に対する単純な要素的反応が組み合わされたものに過ぎなかった。つまり刺激―反応といった原子論的解釈によって理解されていたのだが、これは行動においては成り立たず、また要素的に同じ刺激は必ず同じ反応を結果として引き起こすはずといった結論を導くことになってしまう。しかし、実際には、要素的に同じ刺激がしばしば異なった反応を引き起こし、逆に要素的に異なった刺激が同じ反応を引き起こす。 ## ゲシュタルト心理学 ゲシュタルト心理学はこのようなことから生物は刺激の個々の要素的内容に反応するのではなく、個々の要素的刺激が形作る「形態的ないし全体的特性、`ゲシュタルト(gestalt)`」、に反応すると説明する。 つまり同じ興奮が身体の別の部位に別の運動性反応を引き起こしたり、有機体の側が刺激のゲシュタルトを選択的に出現させるということがある以上、ここで不変性というのは、そのつど異なる状況の中で同一の反応を引き起こしうるような何か一般的で恒常的な因子が、有機体の側で働き出しているということに他ならない。さまざまな状況へと`移調可能な全体`、これが有機体の要求に応じて出現してくる。 ゲシュタルトの端的な例は音楽のメロディである。ある一つのメロディは、それがピアノで演奏されようと、フルートで演奏されようと、同じメロディとして知覚されるが、それは、ピアノの音色とフルートの音色はおのおの要素的に異なっているにもかかわらず、それらの音色が一定の形態に配列されることによって、一つの同じゲシュタルトを構成しているのである。またメロディを構成している個々の音はそれ自体では意味を持たず、一つのゲシュタルトの構成要素として初めて意味を持つのである。加えて、違う例を出すと書字を習得した子供は例え初めてであっても容易にまったく別の状況である黒板にチョークを使って文字を書くことができる。これもまた同じゲシュタルトを別の状況に翻訳しているためである。 ## ゲシュタルトと行動 ゲシュタルト心理学によれば、生物に対する刺激がこのようにゲシュタルトとして受容されるように、この刺激に反応する生物の行動もまたゲシュタルトとしてのみ理解されうる(古典的機能局在説に反対)。こうした状況のゲシュタルト的特性を、ポンティはさらに`構造`と言い換えている。そして行動の構造によって行動の諸形態を分類し記述することが、この「行動の構造」における現象学である。(例としてシュナイダーの症状) ## 三つの形態 そしてポンティによればその行動の構造は、動物の中枢神経が発達してくるにつれて3つの形態を経て発展してゆく。 #### **癒合的形態** 行動は、状況の持つ本質的な特徴に反応するのではなく、特殊な質の刺激に反応するのであって、融通がほとんど利かない。 たとえばクモは、巣に伝わる振動に反応するのであって振動を起こすものならなんでも同じように反応する。 #### **可換的形態(自乗された構造)** ある質の刺激とその結果の刺激との間の因果関係をゲシュタルトとして捉えられるようになった。 したがって、経験による学習、つまり、行動の編成の変更が可能になっている。これの例としてケーラーのニワトリを使った実験がある。その実験によると、 - 餌Bより色の薄い餌Aを食べるようにしつけたニワトリに、餌Bを取り除き餌Aよりも色の薄い餌Cを与えた場合、そのニワトリは餌Cを優先して食べる。 - また逆に最初食べないようにしつけた餌Bとそれよりも色の濃い餌Dを与えた場合餌Bを優先して食べた。 この実験が示すことはニワトリは二つの餌の色を比較し薄い方を選ぶということであり、二つの関係に反応するということである。つまり訓練によって「関係間の関係」を習得させることを意味している。しかし、この関係のゲシュタルトはまだ個々の刺激の質に結びついたままになっていて、他の質の刺激の関係に自由に翻訳することができない。これもまた例としてケーラーからチンパンジーを使った実験を提示する。枝を道具として使ったことのあるチンパンジーでも、枯れ木を道具として見ることはできない。また箱を足場として使うことを知っているチンパンジーもその箱に別のチンパンジーが座っていたらそれを道具として使用することはしない。つまりチンパンジーは同一の事物を違ったパースペクティブのなかで再認することができないのである(チンパンジーにとってたとえば道具の枝と枯れ木の枝は二つの異なった対象であり、同一の事物の二面ではない)。このように諸関係の間に一つの関係を設定する能力、あるいは自乗された構造がそこには存在しないがゆえに、チンパンジーは「観点を変える」ということができないのであり、つまりこのつどの状況やパースペクティブに閉じ込められることのない「物としての構造」が成立しようがないのである。 #### **象徴的形態(シンボル化の能力)** この形態の行動になってはじめて、構造は刺激の質から独立して純粋にそのものとして、自由にさまざまな質の刺激のゲシュタルトに翻訳されうるようになり、チンパンジーにできなかった対象物の観点を変えるということができる。したがって、例えばオルガン奏者は、手足の筋肉のゲシュタルトと音符を見る視覚のゲシュタルトと演奏されたメロディのゲシュタルトを同一のものとして捉えて、初めての曲でも即座に演奏できるのである。
メロディの調子、楽譜の諸形態、動作の流れは、同一の構造を持ち、同じ意味の核を共有している。(SC 182)つまり演奏におけるさまざまな運動の間にある「内的な関係」が確立している時、その内的関係がまぎれもない「曲の音楽的意味」なのである。このようなゲシュタルトを異なった方法で表現しうるのは人間のみであり、チンパンジーに欠けていたのはこれである。またそれは一見なんの直接的な関係もない様に見える複数の構造と構造のあいだに翻訳や変奏の関係を、あるいは視点の交換可能性を設定するシンボル化の能力なのである。そしてそのシンボル化の能力は現実にあるものだけでなく可能的なもの(imagination)をも含んだ世界を所有することが象徴的形態の水準にて可能となる。 --- ## 参考文献 1. 村上隆夫 (著)、『メルロ=ポンティ』、清水書院、1992 1. 鷲田清一 (著)、『メルロ=ポンティ―可逆性』、講談社、1997
First posted 2007/06/06
Last updated 2008/11/26
Last updated 2008/11/26