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# サルトル「存在と無」 #5 自己欺瞞と誠実 ## 自己欺瞞 サルトルは自己欺瞞を不安や責任をもたらす自由からの逃避と定義する。自己欺瞞はしばし自分自身に対する嘘もしくは否定的態度と言われるが、自分に対する嘘と他人に対する嘘を明確に区別しなくてはならない。嘘という行為には真実を知りつつ嘘をつくもの、そして、その虚偽を信じるものという二元性が必要である。例えば、他人に対する嘘とは自分では真実を知りながら言葉の上ではそれを偽る行為である。しかし自分に対する嘘は、その二元性が存在しない。もし真実をすでに手にしているなら、自分自身にそれを隠すことはできない。よって自らを欺こうとする試みは、自らのまなざしによって破壊され失敗する。しかし我々は実際に`自己欺瞞`を経験することができる。ではこの事実をどのように解釈したらよいのだろうか。 ## 精神分析による解釈とサルトルの批判 フロイトなどによる精神分析は人間の意識を有意識である自我と無意識であるイドに分けることで自己の内面において二元性を見出して自己欺瞞が可能であるということを示す。また、精神分析はこれらの二つの心的要素の間に検閲(超自我)を想定し、それが自らの原始的な衝動を抑圧しているという。そのため私自身は自分の無意識下での衝動を知ることができないのだ。しかし、その検閲は自我とイドのどちらに属するのだろうか。もしイドに属するならばイドがイドを検閲するということになってしまうため、検閲はイドに属することはできない。またそれが自我に属すると想定すると、自我が検閲する際それが何を検閲しているのか知っているはずである。つまりそれは知らないと主張していることを知っていなければならない。このようにサルトルには、精神分析学者が主張するような無意識が自己欺瞞の要因であるという発想を退ける。また無意識では説明できないような自己欺瞞的行為が無数に存在するという。 ## サルトルの解釈 サルトルは「自己欺瞞」という考えを説明するために、はじめて男とデートする若い女のケースを想定し検討を試みる。彼女は、自分に話しかけているこの男が自分に関してどんな意図を抱いているかを十分に知っている。彼女はまた、早晩、決断しなければならないときが来ることも知っている。けれども彼女は、それを差し迫ったことだと感じたくない。彼女はただ相手の態度が示す鄭重で慎み深い点だけに執着する。彼女はこの男の行為[...]からその性的な底意を取り去る。[2, p.190]例えば、この状況で男が「君はとても美しい」と言う。この言葉には明らかに性的な目的が含まれているが、露骨な情欲は彼女を辱め嫌悪させる。そこで彼女は男の行為から性的な底意を取り除き、「相手の談話と好意に、自分が客観的性質とみなしている直接的な意味を付与」し、相手の行為を即自存在とすることで武装を解除する。しかし、即自存在が彼女を賛美したところでなんらうれしくない(人形に「君は美しい」と言われたところでうれしくない)。その言葉を楽しむには、彼女を対象とする男の感情、つまり情欲が必要である。つまり彼女は男の情欲を拒むと同時に欲しているのだ。そこで彼女は、男の情欲が、賛美、尊重、尊敬へと超出しているものとして捉える限りにおいてそれを認め、男の行為を楽しもうとする。 だが、ついに男が彼女の手を握る。彼女は決断を迫られる。もし手をゆだねるなら、それは情欲に同意することを意味する。もし手を拒否するならば、この魅惑的で不安定な調和を破ることになる。そこで彼女は決断をできるだけ引き伸ばそうとする。その結果、「娘は手をそのままにしておく。けれども、彼女は自分が手をそのままにしていることには<気づかない>」。彼女はこの瞬間、精神的側面に没入している。そしてそのため彼女は自己の身体を感じながらも、それがあらぬものとして自己を実感する。彼女はまるで身体と霊魂との分離しているかのように、自己の身体をひとつの受動的な対象としてを高ところから見下ろしているのだ。そのため、彼女の手は相手の手のなかで、同意も抵抗もせぬ一つの事物となる。 サルトルによると、**自己欺瞞とは即自と対自という人間の持つ二重性を認識しながら両者の同一性を肯定することである**(\*1) 。つまり肯定と否定の矛盾する概念を両立させることである。娘は男の言葉を楽しむためにそれらが自分の肉体という事実性を超越している限りにおいて許す。つまり男の言葉に含まれる情欲を見てみぬ振りをし、それが超出する尊敬や賛美のみを認める。そしてついには、その超越に事実性を塗りつけ、情欲を否定し尊敬を即自存在に凝固させる。自己欺瞞とはこのように超越によって、私は私が在るところの一切のものごとから逃れることであり、「それがあるところのものではなく、それがあらぬところのものでありうる」ことである。 ## 誠実 サルトルによると誠実は「自己欺瞞のアンチテーゼ」であり「自己自身との完全な一致」である。この主張は自己を無条件で肯定し自身を「それが在るところのもの」として存在させることが誠実であると思えるが、もしそうだとするとそれは即自存在として完結してしまう。しかし我々人間は対自存在として存在するため、コーヒーカップやテーブルなどの即自とは異なる。そのため、誠実は自己欺瞞の内に含まれるものでなくてはならない。サルトルによると`誠実は「我々が在るところのものであるべきである」`と定義される。「在るべきである」という在り方はどのようなものだろうか。サルトルはカフェのボーイを例に取る。
彼の敏捷できびきびした身振りは、いささか正確すぎるし、いささかすばしこすぎる。かれはいささか敏捷すぎる足取りでお客のほうへやってくる。彼はいささか慇懃すぎるくらいお世辞をする。彼の声や眼は、客の註文に対するいささか注意のあふれすぎた関心を表している。[2, p.199]彼は即自存在としてボーイであることはできないため、カフェボーイであることを、または「在るべき」姿を演じている。食料品店、競売人、仕立屋などにもそれぞれの「儀式」または「ダンス」がある(役割はある種の社会的自由を増強することがある。役割には権利や責任が伴うからだ。だが、役割は私たちのより根源的な自由を制限したり、隠したりすることもある。私たちは役割によって、他人や自分自身をいっそう容易に対象化してしまうのだ)。そしてそれぞれの典型的な身振りを演じ、対自存在というありかたにおいてそれぞれ即自のあり方を目指す。 しかし、私は対自存在であるためテーブルがあるように即自として存在することはできない。私はカフェボーイを演じることはできてもカフェボーイであることはできない。だが、誠実はまさにこの`「対自存在としてある私が、即自的なありかたにおいてなにものかであること」`を目標とする。自己欺瞞の目標は、 「私をして<在るところのものであらぬ[ある]>という在り方において、私の在るところのものである[あらぬ]ようにさせること」、である。 例えば、ある男が誠実さを求める要求者と対峙する場面を考える。同性愛者の男が率直に「自分は同性愛者だ」と告白するなら、要求者は満足するだろう(当時のフランスでは同性愛者は犯罪者と同じような扱いを受けていた)。 しかし誰が自己欺瞞なのか。同性愛者の男か、それとも誠実さの要求者の方か。 同性愛者の男はこうした断言をすることに抵抗する。そこで彼は、このテーブルがインク壺で在らぬというのと同じ意味で、つまり即自的に、「私は同性愛者では在らぬ」と言う。その限りにおいて、彼は自己欺瞞的である。一方、この同性愛者の告白の要求者は、「もはやこの人間が在るところものであらぬために、この人間が在るところのものである」という矛盾を要求する。それゆえ、誠実の目標も、自己欺瞞の目標も、さして異なるものではないし、**自己欺瞞が可能であるためには、誠実そのものが、自己欺瞞的であるのでなければならない**。なぜなら、誠実は即自的なあるという到達不可能な地点を目的としており、私もそれを漠然と了解しているからである。
自己欺瞞の可能性の条件は、人間存在が、存在以前的なコギトの内部構造において、それの在らぬところのものであり、それの在るところのものであらぬ、ということである。 要引用箇所--- ## 注
- \*1. ここにおける自己欺瞞は、他者から得る栄誉と他者の本心を切り離す行為であると説明するため、他者との関係のおけるそれを想定している。しかし、自分の内面における自己欺瞞は次の同性愛者の例で考えるべき。
First posted 2008/03/11
Last updated 2011/03/15
Last updated 2011/03/15