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# サルトル「存在と無」 #4 自由 ## 決定論とサルトル フロイトやスキナーなどの心理決定論者にとっては、過去と現在、現在と未来の間には厳密な因果関係の連鎖が存在する。過去の経験が現実の行動を必然的にもたらし、その現実が未来を決定する。つまり、そういった決定論者にとって自由な決断というものは存在しない。我々は常に過去に縛られている。サルトルはこういった遡及的弁証法、垂直的な心理決定を否定し、我々の行動はもっと並行的に独立的になされるという(サルトルの無神論が垣間見える → #1のライプニッツとの比較)。対自存在は無によって自分の過去から隔てられている。もちろん過去には`事実性`がある。つまり、過去のうちには変えることのできない事実がある。しかし過去のどんな出来事も、今の私がすることの原因ではありえない。過去から必然的に出てくる人間的行為は何もない。 ## 事実性と自由 事実性が行為の原因でありえない理由を説明するためにサルトルの例を挙げよう。私は友人とともに山にハイキングへでかける。私は疲労困となりリュックサックをおろし休もうという。つまりハイキングすることによって疲労という事実性が私の前に<立ちはだかった>。そして私はその事実性を受け入れ身をゆだねる。私の場合休憩は、身体を取り戻したい、即自‐対自という絶対者の問題を解決しようとするひとつの試みである。そしてそれは、その場限りのささやかな享楽と無数の弱点に好んで自己を放棄することを意味するであろう。私は一種の逃亡を図ったのだ。しかし私と同じトレーニングをし同じような体力を持つ友人は同じだけの疲労に耐えている。彼は疲労を愛しているという。彼は疲労することによって、自然を感じ山の雄大さを感じそれを征服することに満足しているのだ。彼は疲労という事実性に対し自然を感じるために引き受けた<心地よい受難>であると意味づけた。 要引用箇所フロイトなどの心理決定論者なら、それぞれの過去に行為を決定して何か(エディプスコンプレックスやトラウマ)があるという。サルトルはこれを拒否する。疲労に対するここの反応を必然的に決めたものは、私たちの過去の事実性のうちにも疲労の事実性のうちにも存在しない。疲労の事実性は否定し得ないが、その事実性の意味を選ぶのは各人なのだ。**事実性はそれだけでは無意味であり意味の源泉は個人の側の決定にある**。いつでも換わりになる別の意味解釈がありうる。行為(意味ある行動)の存在は、行為の自律を含んでおり、ただひとつの選択しか許されていないことはありえない。我々は人種、階級、性別、身体的特徴などに拘束されているように見える。日本人ではアメリカ大統領になることはできないように思われる。だがこれらの事実性に対する意味付けもやはり我々自身からなされるのである。 しかし、我々には空を飛ぶことができないし、男性には子供を産むことはできないのではないか。こういった否定し得ない事実に対する選択の自由はないように思われる。そのことに対し、サルトルは
自由だといわれる存在は、自己のもろもろの企てを実現することのできる存在である。けれども、行為がひとつの実現を伴うことができるためには、ある可能な目的の単なる投企が、この目的の実現と、ア・プリオリに区別されなければならない。[2, p.141]という。サルトルは単なる「希求」と「選択」を区別する。この区別によって可能と現実を区別する。例えば「捕虜は、牢獄から出ることに関して常に自由である」とは言えないが、「捕虜は脱走しようと試みることに関して常に自由である」。このように、**我々は自らの持つ事実性に対し、無限に意味づけることが可能であり、自らの行為に対し無限の選択肢をもちそれを選ぶ「自由」があるのである。**(\*1) ## 未来に対する不安 それでも、過去は私たちを拘束しているように見える。サルトルはギャンブラーを例に取る。あるギャンブルを自ら禁止した人がルーレットに近づくとその決心が揺らぐのを感じることがあるだろう。サルトルからすると、男の過去が彼をギャンブルへと駆り立てていると考えるのは間違っている。逆に、このギャンブラーは自分の過去(自ら行った過去の決心、そして決心したときの自己)との断絶に直面している。無が彼と彼の過去の間に入り込んできたのだ。彼はこの無を`不安`として経験する。未来を前に経験する不安は、過去に関する不安よりもいっそう激しいものだ。まさにそこには事実性がないからである。未来はこれから作られるものとしてある。そしてそれを作らねばならないのは私だ。不安は、将来なるべき自己にまだ私がまだなっていないことを実感するためにおこる。
私は未来の私自身を待っている。未来において私は、自分自身との待ち合わせをある日、ある月、ある時間の向こう側で約束しているのだ。不安とは、その待ち合わせ場所で自分が見つからないのではないかという恐怖であり、そこに行きたくなくなるのではないかという恐怖である。要引用箇所未来に企投する自己とは、「それではならないという仕方で、これからなる自己である」。ここには、未来の自己と現在の自己を切り離し無が介在する。待ち焦がれる未来の私が、そこにいる保証はない。`自己誠実(そして実存的勇気)`とは、このようなことが真実であることを認め、そして、未来とそれに伴う不安をも受け入れることを意味する。 --- ## 注
- \*1. サルトルの自由は人間は何からにも影響を受けぬ確固たる主体性をもつ、という人間観を前提としている。この人間観は、後に構造主義に強く批判される。
First posted 2008/02/20
Last updated 2009/06/24
Last updated 2009/06/24