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# 科学哲学#3 実在論VS反実在論 ## 科学的実在論 人間の認識とは独立した世界が存在し、そこにはあらかじめ秩序や構造が存在する(独立性のテーゼ)。そして、この立場は、たとえその秩序や構造が直接観察できないもの(クオークや電子など)であったとしても、それらは実在するものであり、また、科学はこの独立した実在世界を探求する学問であるとする。 ## 科学的反実在論 この立場は、客観的世界とそこに存在する客観的秩序を認めるが、直接観察できない知識は認めない。つまり、これは、すべてを否定するような懐疑論ではなく、直接観察できないクオークや電磁場のようなミクロなものの知識を否定するだけで、化石や動植物の分類といったマクロな対象物に関する知識は認める。端的に言って、反実在論が抵抗する知識の多くは物理学の知識である。 ### 操作主義(operationism) 観察不可能な領域に関する理論(以下、「観察不可能な領域に関する理論」を「理論A」とする)を文字通り受け取らないという反実在論。この立場は、科学者が「電子」や「クオーク」という言葉を使うとき、それは別の命題の比喩もしくは省略形であると捉える。これは論理実証主義の哲学に依拠しているが、今日では、この立場を支持している人はほぼ皆無である。 ### 道具主義(instrumentalism) 理論Aを無意味なものとする反実在論。この立場は、理論Aは便利な虚構であるとする。そして、これは観察可能な領域の事物の予測に役立つ道具であるとする。道具主義にとって、科学とは実在の根底にある性質を記述する試みよりも、観察可能な現象を予測するのに役立つ道具である。 ### 構成的経験主義(constructive empiricism) 理論Aを文字通り受け取る反実在論。`バス・ファン・フラーセン(Bastiaan Cornelis van Fraassen, 1941- )`によって提唱された、現在最も有効な反実在論の立場。理論Aの一部で、「電子は負の電荷を持つ」という言明がある。この立場は、この言明をそのまま受け入れる。そして、この言明の真偽を判定するには、電子が実際に存在し、負の電荷を持っているかどうかを検証しなければならない。しかし、それは観察できないため、その言明に対して真偽の判定を行うことができない。ファン・フラーセンによれば、科学の目的は、経験的に完全な理論の形成である。そのため、彼によれば、観察できない領域に関しては、不可知論の立場をとるのが適当であるという。 --- ## 実在論VS反実在論 ## 1. 奇跡論法をめぐる議論 ## 実在論の擁護(パトナムの奇跡論法) `パトナム(Hilary Whitehall Putnam, 1926-2016)`の奇跡論法(argument from miracles)によれば、理論A(電磁気学や電子、エネルギーの理論)は幅広く応用され、成功を収めている。この科学の成功を受けて、理論Aが正しかったのか、それともまったくの奇跡的な偶然の一致で成功したのかを問う。常識的に考えれば、前者の方が説得力がある(ムーアの懐疑論論駁に似ている)。この論法はアブダクション(仮説による推論)の一種であり、科学の成功という現象が観察され、それを説明するもっとも説得力のある仮説(理論Aが正しい)が立てられ、その仮説がおそらく正しいとする推論である。つまり、科学が成功しているから、科学は正しいと結論づける。 ### 奇跡論法に対する批判1(実験化の無限後退) `コリンズ(Harry Collins, 1943-)`の実験化の無限後退(experimenter's regress)によれば、理論Aを用いて主張aを行う。しかし、aをテストするための装置を作る際に、その装置自体が理論Aに依存している。つまり、科学理論の成功は論理的な先取りにすぎないという反論である。ただし、実際にはテスト装置が同じ科学理論を用いることはほとんどないため、これは有効な反論とは言えない。 ### 奇跡論法に対する批判2(ファン・フラーセン) ファン・フラーセンによれば、理論Aを含む科学は確かに成功している。しかし、それが世界の構造と必然的に一致しているわけではない。無数の失敗した科学から淘汰されて実用的な理論が生き残っただけであるという。ただし、ファン・フラーセン自身は、成功した理論がなぜ成功したのかを説明する必要がある。 ### 奇跡論法に対する批判3(悲観的帰納法) `ラウダン(Larry Laudan, 1941-)`の悲観的帰納法(pessimistic induction)によれば、科学理論が成功していたとしても、後から見れば間違っていた例が数多く存在する。例えばフロギストン理論やエーテル理論などである。だからと言って、科学が成功したからといってその理論が真実であるとは限らない。成功と真理は必ずしも関連していない。 ### 修正版奇跡論法による応答 成功した理論Aが意味するのは、その理論全体が真であるわけではなく、その一部が真(近似的に真)であるということだ、と若干消極的で謙虚な言い方に修正した。 (反論)しかし、この修正版でも光のエーテル説のような、とても近似的に真とは言えない理論が成功を収めた例が存在するため、有効な反論とは言えない。奇跡論法が実在論を支持するための有効な手段であるかどうかはまだ不明である。## 2. 観察と検知の境界線に関する議論 ### 実在論から反実在論への反論(「観察」の境界線が曖昧) ファン・フラーセンは基本的に、観察とは肉眼によって行われるものに限定する。この条件では、電子などは肉眼で観察できない。それゆえ、このような電子などを用いる理論は認められない。そして、このような道具を使用した観察は「検知・検出」と分類する。つまり、ファン・フラーセンは観察を認め、しかし検知を認めない。例えば、電子を直接観察すること(見ること)はできないが、霧箱を使用することによって「検知」することができる。しかしながら、水滴が観察されたからといって、それが電子が原因であるという保証はない(検知=間接的な観察)。 しかし、この観察と検知の境界線はどこにあるのか。`マックスウェル(Grover Maxwell, 1918–1981)`によれば、もしガラスやメガネを通しての観察が認められるのであれば、低倍率の顕微鏡による観察も認められるべきである。しかし、高倍率の顕微鏡による観察は間接的なもので、それは検知とされ認められない。この境界線はどこにあるのだろうか。 ### 反実在論の応答(曖昧であることは批判にならない) 「観察可能」の境界線が曖昧だからといって、観察可能なものと観察不可能なものの両者が同一だとは言えない。両者は確かにグラデーションのようにつながっているが、その両極端においては明確な違いがある。つまり、明確なボーダーラインはないが、その事実は観察可能と不可能を区別する意義を否定するものではない。 (反論)しかし、明確なボーダーラインがなくても良いという主張は、ある意味で説得力がある。しかしながら、これは境界線が曖昧であってもよいと示しているだけで、反実在論者は本来の主張、つまり観察不可能な実在領域について知ることができないとする不可知論を擁護する論拠を示していない。 --- ## 3. 決定不完全性論法(underdetermination)に関する議論 どうして、観察不可能なことについて「知り得ない」のか。ある観察データの集まりがあり、それを完全に説明する複数の相反する理論を想定できるとき、それらのうちどの理論を選択するかを決定する明確な要因が存在しない。この理論選択時の基準の欠如が決定不全性と呼ばれる。そして、決定不全性が成り立つなら、観察からは一つの理論に絞り込むことができない(つまり、特定の一つの理論が正しいと信じる理由がない)。従って、観察不可能な領域で観察結果を説明する理論は、どんな奇抜な理論を想定しても構わないことになる。そのため、観察不可能な領域について懐疑的な態度をとる反実在論が出現することになる。このように、理論の選択には合理的な基準が存在しない。そのため、社会構成主義者は、その選択基準は社会的な意味合いの産物だと考える。社会的圧力や科学者間の階級的対立、権威の勢力図などによって、どの理論が選ばれ、どの理論が排除されるのかが決まる。また、理論の選択に合理的な基準が存在しないということは、相対主義に通じる。 ### 決定不全性に対する批判(それは哲学者の杞憂である) 明確な合理的基準は確かにない。しかし、現実では、このように判断に困るような決定不全性の事例というものがない。つまり、決定的で合理的な基準がないとしても「実りの豊かさ」、「他の理論との整合性と統合性」、「単純性と美しさ」、「理解しやすさ」、などの基準によって、科学者たちの見解は、ある程度一致する。また、そもそも、たった一つの理論を手に入れることに苦労しており、決定不全性は哲学者の杞憂である。 (反論)科学者の間で一致した見解や常識があろうとも、やはり、それは合理的な根拠とは言いがたい。もし、単純性などを理論選択の基準にあげるならば、それを根拠づける必要がある。そのため、決定不全性は依然として有効である。 ### 決定不全性論法は懐疑論である 反実在論者は、決定不全性論法を特定の科学理論に適用しているだけで、これは、観察可能なものにも当てはめることができる。つまり、観察可能なものであっても、ほとんどは実際に観察されるわけではない。巨大隕石の衝突は観察可能であるが、実際に観察した人はいない。つまり、観察可能なことであっても、実際に観察することとは異なり、このような未観察の領域においても同様に決定不全性論法が適用可能である。例えば、月にあるクレーターがあったとして、それは、明らかに隕石によって形成されたものであり、観測可能であるが、実際は未観測である。そして、決定不全性論法によると、観測されるまで一つのその理論に決定することはできないため、そのクレーターは、火山のあとである、写真の陰である、宇宙人の遺跡である、といった理論と同列に扱われ、これらの中から一つを選択することはできない。このように、決定不全性論法を厳密に考えると実際に観察したものしか知識を認めないこととなる。つまり、決定不全性論法は、ヒュームの帰納法に対する懐疑論と同じように、懐疑論であると言える。 --- ## 参考文献 1. オカーシャ, S. (著)・廣瀬覚(翻訳)、『科学哲学』、岩波書店、2008 1. 戸田山和久 (著)、『科学哲学の冒険 サイエンスの目的と方法をさぐる』、NHK出版、2005
First posted 2009/08/15
Last updated 2012/08/03
Last updated 2012/08/03