# 実用主義的傾向#1 プラグマティズム
## アメリカ思想史
アメリカ独立前は移民の多くがピューリタンであったため彼らの思想は宗教の色彩が強かった。そして、独立(1776)後は同時代の思想であるイギリス経験主義、フランス啓蒙思想、ドイツ観念論を積極的に摂取した。その後、ソロー、エマーソンらによってアメリカ独自の思想が展開された。そして、南北戦争(1861)と産業革命を経ることにより富を得て、それによりアメリカの精神的支柱は宗教から物質的(資本主義、科学主義)なものにシフトした。文学ではこの傾向に反発するが、哲学では進化論などの自然科学を高く評価し、そして、科学と宗教の対立を人間の`行動(pragma)`で調和させようとした。これがプラグマティズムという哲学運動に発展した。
### ソロー(Henry David Thoreau, 1817-1862)
ルソーに影響を受けた政治哲学者。法律は個人の自由を抑圧するとし、これに抵抗する手段として非暴力・非服従を提案した。この非暴力的な抵抗方法は`ガンジー(Mohandas Karamchand Gandhi, 1869-1948)`や`キング牧師(Martin Luther King, Jr., 1929-1968)`に影響を与えた。
### エマーソン(Ralph Waldo Emerson, 1803-1882)
ロマン主義に影響を受けたエマーソンは、自然は一体をなしておりそのなかにあらゆる物資も、ミクロコスモスである個々人の精神も組み込まれているとした。
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## プラグマティズム(Pragmatism)
プラグマティズムはギリシャ語のpragma(行動、行為)に由来し、生活に実用的な知識こそ有用なものであるという立場をとる実用主義である。プラグマティズムは環境に適応するために役立つ知識、すなわち科学知識の有用性に信頼を置き、これを主軸に理論を展開する。そして、彼らもまた、実証主義のように形而上学排斥を目指す(実証主義と異なる点は、プラグマティズムは価値判断を科学的言明と同一の地平に置きその有効性を認める点にある)。プラグマティズムは、形而上学クラブというハーヴァード大学の若手研究者の会合が基盤となり、パースが提唱する。そして、ジェームズによって一般化し、デューイによって大成した。そのほか、`F.C.S.シラー(Ferdinand Canning Scott Schiller, 1864–1937)`の人文主義やミード(G.H.Mead)の社会行動主義などもプラグマティズムの発展形態としてみられる。
### パース(Charles Sanders Peirce, 1839-1914)
パースはプラグマティズムの守則を定め、それをプラグマティズムの基本的な理念として定める。それは:
ある対象の概念とは、その対象が実際にいかなる結果を持っているかということである。そして、その諸結果の総体がその対象の概念のすべてである(「われわれの観念を明晰にする方法」)
端的に言えば、パースは対象の概念を実験と結果によって捉えようとする。例えば、ダイヤモンドが「硬い」(概念的意味)のは、それを「引っかいても傷がつかない」(効果)からである。また、実験できず知覚できない対象は(論理実証主義のように)無意味なものとする。実験とは一般的な条件を前提としており、この条件下における結果は未来においても保証されていると期待され、そして、これが命題に合理的で一般的な概念をもたらす。そのため、実験結果は命題に合理性をもたらすが、その合理性は「未来にある」。
この実験によって概念を形成するという主張は、未来において概念がもたらす予測とことなる結果が現れうるという`可謬論(fallibilism)`を内包している。しかし、パースはこれに対し懐疑論に向かわず実在論の立場をとる(スコラ学の実在論)。真理は実在しており、それに到達することはできない。しかし、それはある実験の結果に対する万人の同意によって垣間見ることができる。「全ての研究者が結局は同意することが運命付けられている意見こそ、我々が真理という言葉に与える意味」。例えば、「石を投げたらそれは下に落ちる」という石の概念がある。ヒュームが指摘するようにこれは恒常的連接から導かれた対象の概念であり、これが必然的であるということは我々に知りえない。しかし、同時にこの概念は万人が同意する。どんな懐疑論者であっても、日常生活においてそれを否定する人はいない。そのため、パースとによると、この概念は真理である。このようにパースは真理を集団の合意に還元する(クーンのパラダイム論に受けつがれる)。彼は集団や共同体がひとつの有機体で、個人はこれの細胞であるかのように考える。そして、この共同体における万人の同意は、人間のアプリオリな知識の認識の表象である(カントの影響?)。
遡及的推論(abduction)
演繹と帰納の他にもうひとつの推論を提唱する。それは、「驚くべき事実Cが観測された。しかしもしAが真であれば、Cは当然の事柄である。よって、Aが真であると考えるべき理由がある」。つまり、ある事実の発見に対し、それをもっとも矛盾なく整合的に説明する仮説が真であると理由付けられる。アブダクションが法則の発見で、帰納はこれの正当化の方法であるとする。
- 主論文
- 「われわれの観念を明晰にする方法」How to make our ideas clear (1877)
- 「プラグマティズムとは何か」What Pragmatism Is (1905)
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### ジェームズ(William James, 1842-1910)
彼は、パースの思想を受け継ぎそれを真理論に展開する。ジェームズとパースは同じ根源を共有するが、それ以外の両者の思想は異なる。
真理論
パースは対象の効果をそれの「概念の意味」としたのに対し、ジェームズは対象の効果を対象の「真理の理由」であるとする(意味論から真理論へ)。彼は、合理主義者のように真理を絶対的超越的なものとはみなさず、それは我々の観念に起こってくるものであるとする。つまり、
真なる観念であるから有用なものであり、有用であるからは真なる観念である(「発生的理論」)
このように彼にとって真理概念を事実から切り離し、それはある観念が有用なときに徐々に生じるものであるとする。世界が平面であるという説は、数千年の間、真理とされた。それは、この観念が実際に機能して有用だったからだ。また、状況や時代によって有用なものは異なるため、`真なる観念も複数ある(truths in the plural)`、とジェームズは主張し真理の唯一性も否定する。
我々は、今日は今日得られる真理によって生きねばならず、今日の真理も明日はこれを虚偽と呼ぶ心構えをしていなければならない(「プラグマティズム」)
複数の真理は生活において徐々に成長し形作られてゆく。このように、パースは共同体の同意が真理を表すと考えるが、ジェームズにおける真理は個人のなかに宿る。
根本的経験論
このジェームズの真理論は、真理とはまったく主観的なものであるということを示唆しているように見える。
しかし、彼は`根本的経験論(Radical empiricism)`においてそれは誤解であるとする。
それによると、ジェームズはイギリスの経験論を踏襲するが、それが経験から観念を形成しさらにそれを再構成することが可能であると考えるのに対し、彼はその再構成自体もひとつの経験であると主張する。
つまり、主観と客観の区別がなされる以前の「直接経験」または「純粋経験」に一元的に還元する(フッサールに影響する)。
この純粋経験は、混沌とした全体経験であり、また無限定な現実態である。この次元においては、心身二元論などの区別も存在しない。そして、彼の真理論もこの地点に基づいたものである。
つまり、もとは純粋経験であったものが、その有用性が歴史を通じて作られ伝えられた結果、それが常識となり客観的な真理となるという。
- 著作
- 『プラグマティズム』Pragmatism (1907)
- 『根本的経験論』Essays in Radical Empiricism (1912)
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デューイ以降は、プラグマティズムの主要な舞台がハーヴァードからシカゴへ移り、そこで学派を形成するため、シカゴ学派と呼ばれる。
### デューイ(John Dewey, 1859-1952)
彼は、進化論に影響を受けて、環境への適合が有機体(そして人間)の行動の基礎であるとする。有機体と環境は相互に影響し合う。、この相互作用こそが、そして、有機体からすれば環境に適応することこそが経験であるという(能動的経験論)。生命活動もこの経験の連続であるが、それは次のように行われる:
知性という道具
まず、環境に順応している状況を確定状況といい、そして、適応していない状況を不確定状況という。そして、人が確定状況にあるとき、彼はそこでパターン化された行動つまり「習慣」を学習する。しかし、習慣は固定的であるのに対して、社会環境は流動的であるため、いずれ人は不確定状況に陥る。この状況に直面したとき、これを観察、認識して未来を予見して新たな行動様式を決定する「知性」が生じる。つまり、知性は不確定状況に対処するための道具であり、経験を再構成するための道具なのである。これがデューイの`道具主義(Instrumentalism)`である。また、知性とは現実的生活における困難(不確定状況)に対処する働きなので、これは常に具体的な対象をもつのであって、これを無視すると観念論という「知的夢遊病」に陥るのとする(だが、彼自身の哲学は観念論である)。
有用性による真理の定義
ジェームズは有効性によって真理を定義するが、デューイは彼の有用性の曖昧性を指摘する。ジェームズの真理論は次の二つの可能性を含んでいる:
1. 観念がある目的のために有益な手段となるならば、それは真である。
2. 観念自体が利益(有益な結果)をもたらすならば、それは真である。
デューイは後者を捨てる。なぜなら、後者は、「ある経験を信じた結果、有益な結果をもたらしたため真である」ということであり、これは、経験された事柄に対する「価値判断」や信仰であり、真理とは関係ないからである。
そして、彼によると、知性のよる未来の予測という観念は常に不確実で試験的である。しかし、だからといってデューイは真理を否定しているわけではない。彼にとって、真理の条件とは、観念が予測した事柄が実際に有益に働くことである。このように、ジェームズにおいて真理とは個人的・主観的なものであったのに対し、デューイは共同体における客観性を重視する。つまり、いずれのプラグマティストも真理の客観性を否定するが、ジェームズは真理を主観的なものとする一方で、デューイはそれを公共的・観主観的であるとする。なぜならば、不確定状況に対する解決は、個人的な満足というより公共における利益を意味するからである。これは、パースに再び近づくことでもある。
- 著作
- 『哲学の再構築』Reconstruction in Philosophy (1919)
- 『確実性の探求』The Quest for Certainty (1929)
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### ミード(George Herbert Mead, 1863-1931)
「I」と「me」
ミードは人間の主観的経験は自らの内部にのみ認められ、決して外部に現れないものとは考えず、彼は自己というものを自らの腕と同じように客観的で実在的なものと考えた(また独我論などの形而上学的可能性は無視する)。例えば、新生児は、他者とのコミュニケーションにより、共同体において組織化された「態度」、`一般化された他者(generalized other)`、を取得する。この「態度」を自らに取り込むことによって(社会的態度を自らに取り込むと「me」となる。これは客体的な私である)、社会の一員となる。そして、「me」を取り込むそれ以外の部分がある。それが「I」である。自己(self)とは「I」と「me」との弁証法的過程であるという。このようにミードは「me」を自己に移入することによって、自己の社会的客観性を提唱する。また、このように、閉鎖的な主観的経験をコミュニケーションのための道具であるというふうにプラグマティズムの方法論を心理的なものに適用したのである。
- 著作
- 『精神・自我・社会』Mind, Self, and Society (1934)
- 『行為の哲学』The Philosophy of the Act (1938)
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## 参考文献
1.
小林一郎 (著)、『西洋哲学史入門』、金港堂出版部、1998
1.
杖下隆英ほか (編集)、『テキストブック 西洋哲学史』、有斐閣、1984
1.
新田義弘ほか (編集)、『岩波講座 現代思想〈7〉分析哲学とプラグマティズム』、岩波書店、1994
1.
原佑ほか (著)、『西洋哲学史』、東京大学出版会、1955
1.
山崎正一 (著)、『講座現代の哲学〈3〉プラグマティズム』、有斐閣、1958
First posted 2009/03/08
Last updated 2012/05/08