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# デイヴィドソンの哲学#4 全体論 ## 三つ目の問題(T文は解釈になっているのか) 真理条件意味論の三つ目の問題は、次のようなものである。「もしその理論が真であると分かったならば、その言語の話し手の発話を解釈することが可能であろうか」。つまり、デイヴィドソンの真理条件意味論はタルスキの真理論を意味論に応用したものであった。それは、次のようなものであった、(T1) 文「雪は白い」は真である ⇔ 雪は白いしかし、真理論(文「S」は真である ⇔ p)は双条件文(Q ⇔ P)からなっており、この双条件文は、左辺と右辺が共に真か偽であるとき真となる。そして、タルスキとは異なりデイヴィドソンのT文では、文「S」とpには翻訳(意味の共有)関係が前提とされていないため、文「S」とpがまったく関係ないものであり、かつ、それらが共に真である場合も考えられる。そして、そのような場合もこの双条件文は真となるのである。例えば、
(T2) 文「雪は白い」は真である ⇔ 草は緑であるこのT文は明らかに受け入れがたいが、左辺と右辺はともに真であるために真となる。このような場合におけるT文は、正確な解釈を与えているとは言えない。この問題は、「・・・は、~ということを意味する」という意味論の形式では出現しない。「文「雪が白い」は草が緑を意味する」は明らかに偽であるからである。しかし、この形式は、内包的文脈を形成するために、外延的意味論を構築するという本来の目的に沿ったものではなく排斥されたのだった。では、このようにして採用された真理条件意味論が文に解釈を与えているとどのようにすれば言うことができるのだろうか。 ## 全体論(holism) 確かに、T文だけでは、解釈を与えたことにはならない。しかし、デイヴィドソンの意味論において、T文は定理であってこれだけで成立しているものではないのだった。そして、T文は他のT文同士とそれの構成要素(例えば、「雪」や「~は白い」など)を共有している。そして、この諸処のT文同士のネットワーク、理論全体を把握することによって個々のT文の立ち位置を解明でき、つまり、区別することも可能である。
「ここでは、理論によって含意される真理条件文のみにもとづいてそれぞれの文の理解が成立すると考えようとしているのではない。理論が目指しているのは、言語全体に対する真理決定過程の中で各文が占めている位置を確定することによってそれぞれの文を理解することである。」 フォスター in [エヴニン p.194]T文を単なる真理の把握から意味論へ飛躍させるには、つまり、T1とT2を区別できるようにするには、この文が前提とする言語の十分な背景の理解が必要とされる。例えば、「鯨は昆虫ではない」という文を理解するには、鯨や昆虫がどのようなものであるということを理解してなければならず、換言すれば、この文と関連する多くの文を理解していなければならない。そして、こういった言語のネットワーク・背景を十分に習得していなければその言語の文を解釈することはできない。逆に言えば、T文をそれを構成する理論全体において捉え位置づけることができれば、解釈を与えているT文の区別が可能である。
## ダメットによる批判(穏健な理論VS徹底的な理論) 真理条件意味論は、未知の言語を既知の言語の翻訳論である。ダメットは、これを意味論と称することに違和感を感じる。彼は、“T文が真であることを知ること”と“T文が述べている概念(意味内容)を知ること”を区別すべきであるという。
(T1) 文「雪は白い」は真である ⇔ 雪は白いT1は、「⇔」、「真である」の意味を知っているならば、実際に「雪が白い」ということの意味を知らなくても、T1が真であることを主張できる。例えば、仮に未知の言語QAZ語を想定してみる:
(T3) 「qwert」 as zxcvb ⇔ qwertこのQAZ語のT文において、「as zxcvb」が日本語で「真である」を意味し、「⇔」が双条件を意味することを知っているならば「qwert」の意味を知らなくても、このT文が真であることが分かる。しかし、このT文の概念を知っているとは言えない(サールの「中国語の部屋」を髣髴とさせる)。つまり、T文は概念の「説明力」をもたない。ダメットは、このような説明力をもたない意味論を「穏健な理論」(modest theory)と呼ぶ。そして、彼は、これに対し、意味論とは説明力をもつ(対象言語がもつ概念とはどのようなものを説明する)ものであるべきだという。彼はこれを「徹底的な理論」(full-blooded theory)という。 ダメットが、意味論において要求することは、彼の言う徹底した理論であることである。それは、対象言語によって表されている概念を把握できるようにする理論である。しかし、デイヴィドソンの意味論では、全体論に依拠しているためどうしても穏健な理論になってしまう。つまり、先に見たように、真理から意味へ飛躍(T1とT2を区別できるように)するには理論全体の理解が前提とされているが、この意味の理解に前提とされている理論全体というものはいかなるものかデイヴィドソンの意味論では記述することすらできない。もしくは、T文はあらゆる理論が合成されたものだが、それを分割して詳細に記述することができない。 ## 意味論に対する根本的な不一致 ダメットの要求は、意味論を徹底した理論とすることであり、その要求にデイヴィドソンの意味論は答えることができない。しかし、デイヴィドソンはこの意味論における要求を否定する。なぜなら彼の意味論が重要な価値をもつのは、ダメットがいうような概念分析と論理形式の問題を区別することが可能になったからである(内包的概念を排除した外延的意味論)。例えば、「良い」といった語は、客観的性質もしくは主観的是認を表しているのだろうか?このような問題を考えると哲学が大昔から悩んできた深淵な問題に突入してしまう。デイヴィドソンの意味論は、このような伝統的な哲学の問題を回避することができる。つまり、
(T4) 文「Aは良い」は真である ⇔ Aは良いというT文は、内包的概念の把握を無視して受け入れることができるようになる。このように徹底して外延的に意味論を扱う、ダメットの言い方だと、穏健な理論であることが彼の意味論の重要なところである。 ダメットとデイヴィドソンの意味論に対する要求には根本的な不一致がある。ダメットの対象言語によって表されている概念を明らかにするという意味論における要求は、いわば還元主義である。そして、彼の還元主義は、概念の理解は実践的能力と結びつけるため、行動主義還元主義である(正方形の概念を理解しているとは、少なくとも正方形を識別可能であるという実践的能力が含まれる)。これに対し、デイヴィドソンは行動主義者でも還元主義者でもない。先ほども言ったように彼の意味論は、内包的概念を排し外延的に構築される。しかし、彼の意味論は、意味を非意味論的なものに還元しようとするものではない。このように「デイヴィドソンとダメットの対立は、意味の理論の本性と意味の理論は何を成し遂げるべきかをめぐる根本的な見解の不一致である」(エヴニンp295)。 --- ## 参考文献 1. エヴニン, S. (著)・宮島昭二(翻訳)、『デイヴィドソン―行為と言語の哲学』、勁草書房、1996 1. 野本和幸ほか (編集)、『言語哲学を学ぶ人のために』、世界思想社、2002
First posted 2009/09/15
Last updated 2011/03/04
Last updated 2011/03/04