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# デイヴィドソンの哲学#3 根源的解釈 ### 根源的解釈(radical interpretation) デイヴィドソンは、タルスキの真理論を意味論に利用した。そして、その際に自然言語にこの形式言語の理論が適用できるかという問題は、前回概観した。次に見るのは、「T文は文「S」の真理条件がpであることを示すが、この翻訳関係を前提としないT文はどのような証拠に基づいてそれが正しいと判断することができるのか」という問題である。つまり、タルスキがT文において文「S」とpの翻訳関係を前提としているのに対し、デイヴィドソンは真理を前提とすることによって意味論を構築しようとしている。したがって、文「S」の意味を知らないため、メタ言語pが文「S」の真理条件であると相手の観察を通して推測するしかない。そして、この推測によって得られたT文が正しいとどのように判断できるのか。この問題は未知の言語に相対したときはっきりと見ることができる。これは「根源的解釈」と呼ばれる状況である(※1)。例えば、未知の言語の話者がウサギが通ったときに「ガヴァガイ」と発言し、解釈者は「ガヴァガイ」の真理条件は「ウサギが通った」と推測する。この場合、(1) 文「ガヴァガイ」は真である ⇔ ウサギが通ったというT文が仮説として得られる(「言語Lにおいて」は省略する)。しかし、この仮説としてのT文が真であるかどうかを経験的にテストする必要がある。それによって、T文による意味論は経験的理論となる。 1. 相手の言葉と状況を観察 1. 観察からT文の仮説を立てる 1. 仮説を経験的にテスト(これがここで問題となる) 1. 仮説が正しいと確かめられることによってT文に真理条件が与えられる 1. 真理条件意味論により意味論が形成される ### 意味理解と信念 T文の仮説は、現地の人の反応を通してテストするしかない。つまり、ウサギが通ったときに「ガヴァガイ」と実際に言ってみて相手に直接尋ねるしかない。この「ガヴァガイ」の真理条件は「ウサギが通った」であるという仮説に基づく発話に対し、現地の人は、「はい」または「いいえ」もしくはそれらに相応する反応を見せるとする(相手の是非の意思表示を見分けられるということも前提としなければならない)。被解釈者をAさんとした場合、Aさんの反応により次のT文を解釈者は推測する:
(2) 文「ガヴァガイ」は真であるとAさんは信じている ⇔ ウサギが通ったそして、このT文を経験的にテストするために、解釈者は、ウサギが通ったとき「ガヴァガイ」と言う。それに対しAさんは肯定的な態度をとったとする。これによって解釈者は、(2)のT文が検証されたと判断する。そして、これを一般化することによって先ほどの(1)である意味論の定理であるT文が導かれる:
(1) 文「ガヴァガイ」は真である ⇔ ウサギが通ったしかし、(2)には重大な問題がある。それは、Aさんはただ「ガヴァガイ」という発話に対し肯定的な態度をとったとする。それは、つまり、Aさんは「ガヴァガイ」が真であると信じているということを示したにすぎないのである。そして、Aさんは解釈者とは異なった信念体系や信仰心をもっており、それによると、“なにか神的なものが通った”などの解釈者が抱かない特異な信念を伴っている場合も考えられる。端的に言えば、Aさんの信念(状況把握)と解釈者の信念が一致していない可能性が十分に考えられる。そして、言語の意味を理解するには信念を理解していなければならない。しかし、信念は言語の意味が分からなければ理解できない。ここで解釈は行き詰まる(解釈学的循環?)。 ### 寛容の原理(The principle of Charity) このように、T文をテストする際に相手との信念のズレの可能性を考慮すると、解釈理論は不可能になる。なぜなら、先の「ガヴァガイ」の真理条件は「ウサギが通った」である、という仮説を推論することすらできなくなってしまうからである。そのため、この信念と発言にズレが生じないような、つまり、被解釈者の信念(状況把握)を固定するような仮定を設ける必要がある。そして、「人は明白なことを信じている」と仮定する。しかし、これでは、明白さの基準が問題となってしまう。そのため、次のような明白さの基準を付け加えている必要がある:「他者(被解釈者)が明白であるとみなしているのは、われわれ(解釈者)が明白であると考えていることに他ならない」(エヴニンp228)。つまり、未知の言語を解釈する際に、相手が明白に把握している(信じている)状況は、解釈者が明白に把握している(信じている)状況と一致していると仮定する。これを「寛容の原理」(The principle of Charity)という。そして、この「他者は我々にとって明白なことを信じている」という原理は、他人と我々の状況把握を一致させる、「[言語の意味論の]探求を成り立たせるために呑み込まざるをえないア・プリオリな方法論的制約にほかならない」(野矢p317)。この原理を容認することによって、未知の言語のテストが可能になり、解釈が可能になる。そして、それに従い、T文という定理が導き出され、これの集積によってその言語の意味論が形成される。 ### 寛容の原理の問題点(不可謬性) 寛容の原理は、言語解釈においてアプリオリな制約であった。これは、被解釈者のある条件下での発話を無条件で正しいものとするための原理である。そして、これによって、その条件下におけるその文が真であるための証拠とし個人の言語から一般の言語の解釈に拡張する。しかし、ある文を成立させる条件が誤っており、それにもかかわらず、その文を信じることが“誤った解釈”であるとすると、先の原理を容認することによって文の解釈は誤ることがなくなる。つまり、この原理を容認するとどのような解釈であっても必然的に真となってしまう。 #### 公的な言語解釈の基準 個人の言語だけに寛容の原理を適用した場合このような言語解釈における不可謬性という問題が出現する。しかし、言語とは、公共的なものであり、この公的な基準によって個人の言語の解釈が正しいか誤りかを判断するのである。つまり、言語を解釈する際に対象となるのは、個人の言語ではなく公的な言語である。そして、この公的な言語を解釈するには、その言語共同体における複数の成員の言語を解釈することによって達成される。つまり、個人の言語解釈は、公共の言語解釈にいたるまでの手段である。そして、複数の成員の言語を解釈することによって、先の(1)と(2)の中間に位置する(4)が導かれる:
(4)、文「ガヴァガイ」は真であるとLの話し手は信じている ⇔ ウサギが通ったつまり、個人の言語解釈から一気にT文というその言語の定理に飛躍するのではなく、複数人における言語の解釈を経由する。これによって、公的な言語の基準が明確となり、個人の言語解釈に誤りが生じることを防ぐ。 #### 伝統的に理解されるような言語は存在しない(公的言語より個人の言語解釈を優先) しかし、個人に寛容の原理を適用するようなケースは依然として存在する。つまり、(4)によってある共同体における公的な言語Lが解釈されたとする。これによって公的な基準が生じ、個人の文の正否の判断が可能になった。しかし、例えば、この言語Lの共同体に属するある人(Bさん)は、この共同体における公的な基準からしたらまったくでたらめだが本人は正しいと思っている文ばかり言うとする。そして、問題は、このBさんの言語に寛容の原理を適用した場合、Bさんの発言はまったく言語Lとは異なる、そして、常に“正しい”言語をしゃべっていることになる。そして、「今問題になっているのは、公的な解釈と個々人についての解釈のいずれが優先されるべきかにほかならない」(エヴニンp237)。 通常は、「規約」という言語の伝統的な概念に基づいて、公的な言語解釈が優先される。規約とは、二人以上の言語コミュニケーションを成立させるために意味を律するものである(※2)。つまり、規約とは公的な言語の基準である。そして、この規約を前提とする伝統的な言語観においては、個人の言語解釈よりも公的な言語の解釈が優先されている。しかし、デイヴィドソンは、次のように言う:「言語というものは、もしそれが多くの哲学者や言語学者が想定してきたようなものであるとするならば、存在しない」(「碑銘をうまく乱すこと」)。彼は、公的な言語解釈を個人の言語解釈に優先させることを拒否する。例えば、無人島にまったく異なる言語をもつ人間が二人漂流したとする。彼らの間に規約は存在しないが、コミュニケーションは成立すると予想できる。彼らのコミュニケーションに必要なのは、一方が他方の文を理解することだけである。つまり、個人の言語解釈が優先されている。彼は、規約を否定しているわけではないが、解釈やコミュニケーションにとって本質的なものではないと主張する。 #### 合理性の要請 しかし、デイヴィドソンは、このように公的な言語より個人の言語を優先すると、当初の問題であった、文の解釈が誤ることがなくなるという問題に逆戻りするのではないか?この問題に対して、彼は、寛容の原理を精密化して対処する。彼によると、「解釈が目指しているのは一致ではなく理解なのである」(『真理と解釈』)。(被解釈者を解釈する際に彼の思考を前提とするような第三者の立場にたつという「神の視点」を否定し、あくまで解釈者の一人称的立場から解釈を行う。後でデイヴィドソンの反相対主義でみる)。そして、解釈者が自分自身へ被解釈者の態度を帰属させるとき、その帰属の真偽に不一致があれば、それはまったく、もしくは、ほとんど理解されない。そして、逆に言えば、理解可能・説明可能なことは、誤りを被解釈者に帰属させることができる(解釈者が被解釈者の間違いが理解できれば相手が間違っている)。 この精錬された寛容の原理において、解釈者自身に適用される制約がある。それは、「合理的」であることである。合理的である人なら従うようなこと(「我々は桶の中の脳ではない」などのこと)を承認するという認識論的制約である(デイヴィドソンの反懐疑論の立場。「合理性」というよりムーア的な「常識」に近い?)。そして、合理的である解釈者が、理解しえるのは合理的な被解釈者の態度である。すなわち、精錬された寛容の原理とはこのように相手が合理的であると想定することを要請する原理にほかならない。そして、相手の態度が合理的に理解できない場合、それは間違っており、その間違いを相手に帰属させることができるのである。 --- ## 注 ※1 観念論的立場 そもそもなんらかの音を「言語」であるとどのように判断するのか。例えば、宇宙人の発話などまったく理解できないかもしれない。これに対してデイヴィドソンは、「観念論的立場」(野矢p315)をとる。つまり、まったく理解できない言語は、“言語ではない”という立場である。それが言語である可能性は存在する。だが、扇風機の音が翻訳できないだけで言語であるという可能性も同様に存在するように、言語と認めるには何かしらの基準が必要である。そして、彼は、理解(翻訳)がまったく不可能な場合は言語ではないと考える。そして、ガヴァガイの例で扱ってゆく言語は、翻訳可能性(もしくは部分的に翻訳可能性)をもつ言語である。 ※2 この伝統は、後期ウィトゲンシュタインの「規則に従う」やハイデガーの「世界内存在」、または、ソシュールの「共時的言語」などによって形成されたのだろうか? --- ## 参考文献 1. エヴニン, S. (著)・宮島昭二(翻訳)、『デイヴィドソン―行為と言語の哲学』、勁草書房、1996 1. 大庭健 (著)、『はじめての分析哲学』、産業図書、1990 1. 冨田恭彦 (著)、『科学哲学者 柏木達彦の多忙な夏 科学がわかる哲学入門』、角川学芸出版、2009 1. 野本和幸ほか (編集)、『言語哲学を学ぶ人のために』、世界思想社、2002 1. 野矢茂樹 (著)、『哲学・航海日誌』、春秋社、1999 1. 森本浩一 (著)、『デイヴィドソン 「言語」なんて存在するのだろうか』、NHK出版、2004
First post 2009/09/11
Last updated 2012/01/19
Last updated 2012/01/19