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# デイヴィドソン「真理と述定」#1-2 タルスキ真理論の応用可能性 ## 5. デイヴィドソンの考え ### 5-1. エチメンディへの言及 エチメンディ:タルスキの真理定義は、収縮的であるがほかに経験的真理がある。 タルスキ:タルスキの真理定義は、経験的内容を含んでいる。 ### 5-1-1. 真理公理の導入によるタルスキとの和解 エチメンディはタルスキの真理論を形式言語に限定したものであるとするが、これに原始的な真理概念を再導入することで経験的内容を含めることができると認める。その原理的な真理概念はつぎのような「真理公理」で表現される:<真理公理>(原始的な真理概念)この公理に現れる「真」は日常における経験的真理である。つまり、エチメンディは上でタルスキが言った、「日常的な真理とT文による真理の一致」を認めるのである。これによって、エチメンディとタルスキは和解するとDは考える。 ### 5-1-2. エチメンディ・タルスキへの反論 この見解に対する反論は、我々の日常言語における真理述語「xは真である」は非常に曖昧であるため、これを綿密に分析することで矛盾が生じない保証はない。しかし、タルスキの真理論によって定義された真理述語は矛盾が生じ得ない。これはタルスキの理論が日常的な真理を捉えていないことを示す。 ### 5-1-3. エチメンディによる新しい体系 エチメンディはこれに対して、タルスキの真理論によって定義された真理述語をメタ言語に加える(タルスキのものはメタ言語から対象言語に定義を与えるのみ)。メタ言語に加える対象言語の真理定義は定義としてではなく意味論の記述に適した有意味な表現として加える。これがエチメンディの新しい体系であり大きな変化とみなしたものである(詳細はエチメンディの論文を当たる必要あり)。 ### 5-1-4. デイヴィドソンによる応答 しかし、この新しい体系であってもタルスキの真理定義が無矛盾であればこの体系も無矛盾である。エチメンディの体系は形式的なことに触れていない。Dによると問題の全体は「我々が定義をどのように見ているかにかかっていることにある」という。 ## 5-2. パトナム&ソームズへの言及 ### 5-2-1. タルスキの真理論は真理について何も言っていない パトナムとソームズは、タルスキの真理述語は、解釈が定まった言語における諸定理(T文)の集合によって定義される。そのため、彼の真理定義は論理的真理であり収縮的であり、そのため、これは日常的な真理とはなんの関係もないとする。 ### 5-2-2. デイヴィドソンの応答 T文が論理的真理であるのは、真理定義が約定であるということを前提にしている。例えば、「xは太陽系の惑星である」という述語の定義は次のように形式化できる:
タルスキの述語は言語Lの全ての真な文に、そして、真な文だけに当てはまる
「xが太陽系の惑星である」は真である⇔(x=水星)∨(x=金星)∨(x=地球)∨(x=火星)∨(x=木星)∨(x=土星)∨(x=天王星)∨(x=冥王星)この定義は、「木星は惑星である」という文を含む。これは論理的真理だろうか。デイヴィドソンによると:
私たちの定義が述語に規定であればそうだと言ってよいだろうし、約定でなければそうではないだろう。これが純粋に約定であるか否かという問いは、形式体系の研究では答えることのできない問いである。この問いは、その定義をした人の意図に関わっている。 [1, p.35]ここでデイヴィドソンは『真理と述定』において自らの真理論が向かう方向性を示唆している。それは、真理述語が論理的真理であるか経験的真理であるかは、その述語を使用する者の「意図」に関係すると言うのである。そして、この命題は、発話者の意図によって、論理的真理でもありうるし、経験的真理でもありうる。経験的真理の場合は、「「木星は惑星である」は真である⇔木星は惑星である」は真理理論(真理の仮説)であり経験(例えば、天体観測)によってこの命題の真偽が決定する。この真理と命題的態度の関係については第3章において明確に語られる(デイヴィドソンは経験的真理の解明のために、タルスキの真理論を「真理定義」としてではなく「真理理論」として捉える。)。 ### 5-3. タルスキへの言及 タルスキは真理述語の概念を与えることによって真な文の集まりを定め「真理述語」を定義した。しかし、彼は「真理概念」(真理の意味)については形式的体系においてさえ何も定義していない。彼はたんに経験的真理の外延とT文がもたらす真理の外延が一致すると言うに過ぎない。この一致が、自らの真理論が経験的内容をも射程に含めていると主張するが、具体的にこの一致する真理概念がどのようなものかは言及していない。
## 6. デイヴィドソンのタルスキ真理論の応用へ タルスキの真理論は、外延的定義であり真理の経験的内容に関しては直接的には触れていない。しかし、だからといってT文が経験的真理を語ることができない理論であるということは帰結しない。そして、Dは真理はタルスキの真理論を経験的真理の探求に利用することができると考える。これによって、上記の収縮的なT文解釈を乗り越えることができると考える(※2)。 しかし、経験的真理の探求はT文だけでは不十分である。Dはこれに加えて、「[真理の]パターンや構造の存在を人々の振る舞いのなかに同定する方法を述べる」ことを含める。これでタルスキの真理論を経験的真理へ適用可能なものにすることを目論むのである。 --- ## 注 ※2 このふたつの立場をDはカリュブディスとスキュラと呼ぶ。 - **カリュブディス(パトナム?)** タルスキの仕事は我々が通常理解している真理概念とは大部分無関係であり、そのため、我々が解釈の定まった言語の意味論を研究したいのであれば、別の方針をとらなくてはならない、というものである。 - **スキュラ(ソームズ?)** タルスキの真理は単に引用符解除的ではあるが、真理概念について言うべきこと全てを言っている。 --- ## 参考文献 1. デイヴィドソン, D. (著)・津留竜馬(翻訳)、『真理と述定』、春秋社、2010
First posted 2011/09/05
Last updated 2011/09/05
Last updated 2011/09/05