デイヴィドソン「真理と述定」#1-1 タルスキ真理論の哲学的解釈(収縮理論の検討)
1. 第一章「さまざまな真理の理論」
デイヴィドソン(以下、D)は『真理と述定』の第1章と第2章で、タルスキーの真理論がこれまでどのように哲学的に解釈されてきたかを振り返る。第1章では、真理に対する収縮的見解を概観し、それらを批判する。
2. 真理の余剰理論
2-1. 真理とは余剰なものである
デューイ(※1)は、「真理」には固有の概念があり、それに哲学者のみが接近しうるという伝統的な哲学者の自負を拒絶するが、決して「真理概念」には興味深い点がないと言っているわけではない。
これに対して、ラムジーやローティなどはこのように真理概念に「真理について独立の問題はまったく存在せず、あるのはただ、言語的な混乱だけである」(ラムジー(1950)cited in 「真理と述定」p17)とする。この見解を真理の「余剰理論」(The redundancy theory)という。この立場は、真理を純粋に真理関数的な結合子として捉える。このように捉えた場合、通常、「Pは真である」は「P」と同一であり、つまり、「真である」はまったく余剰なものなのである(そのため、付け加える必要すらない)。これは、「~~P」に二重否定除去を適用すると「P」になることからも明らかである。
2-2. 述語としての真理
しかし、「xは真である」を結合子として捉えるこのような見解は、例えば「彼の言うことは全て真である」などのような「xは真である」の用法を説明できない。ここでは明らかに真理は結合子としてではなく述語として使用されているからである。そして、これからDが扱うの真理はこの述語としての真理である。ここからタルスキ真理論の哲学的解釈に移行する。
3. 真理の収縮理論
3-1. タルスキの真理論
タルスキは余剰理論を技術的に改良したものであると解釈する論者は多い。タルスキの真理定義を与える規約T(T)は次のようなものである:
(T) 文「S」は真である⇔P
この(T)における「xは真である」は真理関数的結合子ではありえない。なぜならば、仮にこれが結合子だったならば、余剰理論によると削除可能であり、そうすると左辺は命題ではなくなり双条件文が成立しなくなるからである。この「xは真である」は述語として捉えられなければならない。そして、その上でタルスキはこの述語としての真理、つまり「真理述語」を明示的に定義する方法を提示する。
3-1. 真理の収縮理論(余剰理論の技術的改良)
タルスキが定式化した真理述語は具体的にどのような役割を担っているのだろうか。これは余剰理論の技術的改良であり、タルスキの真理論は真理について知りうることは全て言った、そして、それ以上のことは真理には何もない、とする。このように真理概念を収縮的に捉える立場を収縮理論(The deflationary theory)とよぶ。Dは収縮理論の論者としてリーズ、ホーウィッチ、ソームズ、フィールド、ウィリアムズを挙げる。
また、パトナムはこの立場を「引用符解除的見解(dis-quatationism)」と呼ぶ。つまり、収縮理論によると「xは真である」という述語は、「xは赤い」などの通常の述語が持つような概念は持ってない。そして、この真理述語の意味は、ただ引用符付きの文(「P」)に真であるという述語を適用することによって、この引用符を解除することができるという点のみである(「雪は白い」に「真である」という述語をつけることで、雪は白い、と引用符を解除する)。
そして、真理が引用符を解除するだけのものであるならば、解除する引用符がなければ真理述語は消去される
3-2. 収縮理論批判(真理述語は引用符解除以上の役割をもつ)
収縮理論が消去する真理述語は、それが適用されている文に引用符がある場合に限られる(例えば、「「雪が白い」は真である⇔雪が白い」)。
ここで、収縮理論の見解は、真理述語が引用符付きの文に適用された場合に限られている。しかし、引用符がなく真理述語が適用される場合も確かに存在する(例えば、「彼が言ったことは全て真である」)。加えて、対象言語とメタ言語の国語が異なる場合、例えば、
「Schnee ist weiss」は真である⇔雪は白い
という文から左辺の引用符を解除したとしても右辺の「雪は白い」は出現しない。
しかし、タルスキの真理論は、このように引用符がない場合や左辺と右辺の言語が一致しない場合についても、真理述語を消去する方法を示している(p20)。なぜならば、タルスキの真理定義は、「xは真である」という述語の外延は所与の言語内においてすでに決定され明示的に定義されていることだからだ。そのため「彼が言ったことは真である」などの真理述語「xは真である」の用法であっても、「彼が言ったこと」が「xは真である」の外延に含まれてるかどうかでこの文の真偽が判定されるのである(※2)。
<これまでのまとめ>
真理概念
- 真理関数的結合子としての真理
- 述語としての真理(引用符付きの文に適用される真理述語)
- 述語としての真理(引用符に関係なく適用される真理述語)
余剰理論は真理は1だけだとする。
収縮理論は真理は1と2だけだとする。
しかし、まだ真理は余剰でも収縮的でもない3が残っている。そして、タルスキの真理論は、この3も射程に入れている。
4. タルスキの真理論の再考
4-1. タルスキの真理は真理一般を規定しない
はっきりしていることは、タルスキの真理論はある言語Lにおける真理を定義する方法を提示するものであって、決して、真理の一般的な定義をもたらすものではない。なぜならば、タルスキの定義は、言語Lにおける場合を枚挙する方法で述語と名前に対して外延や指示を与えるからである。そして、ここで意味論的概念は登場しない。
4-2. タルスキの真理は論理的真理か
タルスキの真理定義は、ある述語を定義する場合、すでに解釈が与えられた言語からその述語が適用されるものの有限で網羅的なリスト(集合)でこの述語の外延を定義するというものであった。そして、この述語の真偽はこの集合に含まれるかで判断される。そのため、この真偽は実質的真理ではなく論理的真理と同値である。それはつまり、真理についてなにも語っていないも同然である(※3)。また、エチメンディによると、T文は対象言語の真理条件さえも持っていないという。
4-3. 収縮的見解の二つの立ち場
パトナム、ソームズ、エチメンディはタルスキの真理論が示す真理は「論理的真理」であり「経験的真理」(日常で使う真理)を含んでいない。そして、そのためタルスキが示す真理は収縮的であるという点について同意する。しかし、この真理の収縮的見解をどう評価するかは意見がわかれる:
- エチメンディ
真理に関する経験的意味論は他にある。
- パトナム
タルスキは真理概念の本質的側面を捉えなかった。タルスキの真理論は「これ以上はありえないというほどひどく失敗した」と言う。
- ソームズ
タルスキの真理論は真理概念を完全に捉えている。そして、真理に収縮的説明を与えた点でタルスキは正しかった。従って真理概念は多くの哲学者が考えるほど興味深い概念ではない。
4-3. タルスキ自身の哲学的理解(T文は経験的内容をもつ)
タルスキの自らの真理定義を振り返って、伝統的なアリストテレスの真理観(※4)を形式化した、ということを強調する。彼は、自らの真理論がたんなる論理的真理にとどまらず経験的内容を含んでいるとする(収縮論的解釈に反対)。つまり:
- (1) ある解釈が定まった自然言語(日本語など)において我々は「xは真である」という述語を使用している(日常で使用される経験的真理)。
- (2) タルスキは規約Tを日常言語に適用することによって自然言語における各定理(T文)が導かれ、これの集合でこの自然言語における真理述語が定義できると考える(T文による真理)。
そして、タルスキは、(1)「(解釈が定まった自然言語の)経験的な真理の外延」と(2)「規約TによるT文によって(解釈が定まった自然言語の)形式的に導かれる真理の外延」は”一致”するという。したがって、T文による真理は実質的真理/経験的内容を含んでいる。これこそ彼が、「[T文によって]もとからある概念の実際の意味をつかまえる」(p31)ことを狙いとすることである。しかし、その一致するものが何かを具体的に示しているわけではない。
注
※1
「真理と述定」は「第六回デューイ講義」でデイヴィドソンが行った講義をもとにしているため、最初にデューイの真理観について言及する。
※2
「タルスキは真理述語を取り除く方法を示した」とは次のようなことを意図していると考える。具体的に人工言語を想定して見てみる。
Domain D
D ={a, b}
個体定項に対する付置(α)
V(a)=太郎
V(b)=彼が言ったこと
述語記号に対する付値(Φ)
V(F)={太郎、彼が言ったこと} (内包的定義:F={x│xは真である})
V(G)={太郎} (内包的定義:F={x│xは背が高い})
この言語Lにおいて、「&」などの結合子は想定しないため、文(閉じた文)は次の4つしか成立し得ない。すなわち、命題をΦαと表現するならば、{Fa、Fb、Ga、Gb}の4つである。そして、それぞれの文の真理条件は次のように充足で定義される:
- 文1, Faは真である ⇔ 太郎∈{太郎、彼が言ったこと}
- 文2, Fbは真である ⇔ 彼が言ったこと∈{太郎、彼が言ったこと}
- 文3, Gaは真である ⇔ 太郎∈{太郎}
- 文4, Gbは真である ⇔ 彼が言ったこと∈{太郎}この中で真である文、すなわちT文は、{文1、文2、文3}である。
従って、この言語Lにおける述語FxとGxが正しく成立する文の外延が確定して文の真偽が明示的に定義された。
そして、「彼が言ったことは真である」における真理述語を取り除くとは、上記の言語の場合、「文2, Fbは真である ⇔ 彼が言ったこと∈{太郎、彼が言ったこと}」のように、述語としての右辺の真理を取り除くことを意味する(左辺の「真である」は真理関数的結合子)。
※3
論理的真理(例えばA=A)は、世界に関する情報をもたない。そのため、この真理を言語の意味論の分野使用することはできない。なぜなら、意味論とは世界と言語を媒介するための理論だからである。意味論には内包的(経験的)な真理概念の特徴づけが必要。
※4
「そうでないことをそうであると言ったりそうであることをそうでないと言ったりすることが、偽である。他方で、そうであることをそうであると言ったり、そうでないことをそうでないと言ったりすることが、真である。」
参考文献
- デイヴィドソン, D. (著)・津留竜馬(翻訳)、『真理と述定』、春秋社、2010
First posted 2011/09/05
Last updated 2011/09/05
# デイヴィドソン「真理と述定」#1-1 タルスキ真理論の哲学的解釈(収縮理論の検討)
## 1. 第一章「さまざまな真理の理論」
デイヴィドソン(以下、D)は『真理と述定』の第1章と第2章で、タルスキーの真理論がこれまでどのように哲学的に解釈されてきたかを振り返る。第1章では、真理に対する収縮的見解を概観し、それらを批判する。
## 2. 真理の余剰理論
### 2-1. 真理とは余剰なものである
デューイ(※1)は、「真理」には固有の概念があり、それに哲学者のみが接近しうるという伝統的な哲学者の自負を拒絶するが、決して「真理概念」には興味深い点がないと言っているわけではない。
これに対して、ラムジーやローティなどはこのように真理概念に「真理について独立の問題はまったく存在せず、あるのはただ、言語的な混乱だけである」(ラムジー(1950)cited in 「真理と述定」p17)とする。この見解を真理の「余剰理論」(The redundancy theory)という。この立場は、真理を純粋に真理関数的な結合子として捉える。このように捉えた場合、通常、「Pは真である」は「P」と同一であり、つまり、「真である」はまったく余剰なものなのである(そのため、付け加える必要すらない)。これは、「~~P」に二重否定除去を適用すると「P」になることからも明らかである。
### 2-2. 述語としての真理
しかし、「xは真である」を結合子として捉えるこのような見解は、例えば「彼の言うことは全て真である」などのような「xは真である」の用法を説明できない。ここでは明らかに真理は結合子としてではなく述語として使用されているからである。そして、これからDが扱うの真理はこの述語としての真理である。ここからタルスキ真理論の哲学的解釈に移行する。
## 3. 真理の収縮理論
### 3-1. タルスキの真理論
タルスキは余剰理論を技術的に改良したものであると解釈する論者は多い。タルスキの真理定義を与える規約T(T)は次のようなものである:
(T) 文「S」は真である⇔P
この(T)における「xは真である」は真理関数的結合子ではありえない。なぜならば、仮にこれが結合子だったならば、余剰理論によると削除可能であり、そうすると左辺は命題ではなくなり双条件文が成立しなくなるからである。この「xは真である」は述語として捉えられなければならない。そして、その上でタルスキはこの述語としての真理、つまり「真理述語」を明示的に定義する方法を提示する。
### 3-1. 真理の収縮理論(余剰理論の技術的改良)
タルスキが定式化した真理述語は具体的にどのような役割を担っているのだろうか。これは余剰理論の技術的改良であり、タルスキの真理論は真理について知りうることは全て言った、そして、それ以上のことは真理には何もない、とする。このように真理概念を収縮的に捉える立場を収縮理論(The deflationary theory)とよぶ。Dは収縮理論の論者としてリーズ、ホーウィッチ、ソームズ、フィールド、ウィリアムズを挙げる。
また、パトナムはこの立場を「引用符解除的見解(dis-quatationism)」と呼ぶ。つまり、収縮理論によると「xは真である」という述語は、「xは赤い」などの通常の述語が持つような概念は持ってない。そして、この真理述語の意味は、ただ引用符付きの文(「P」)に真であるという述語を適用することによって、この引用符を解除することができるという点のみである(「雪は白い」に「真である」という述語をつけることで、雪は白い、と引用符を解除する)。
そして、真理が引用符を解除するだけのものであるならば、解除する引用符がなければ真理述語は消去される
### 3-2. 収縮理論批判(真理述語は引用符解除以上の役割をもつ)
収縮理論が消去する真理述語は、それが適用されている文に引用符がある場合に限られる(例えば、「「雪が白い」は真である⇔雪が白い」)。
ここで、収縮理論の見解は、真理述語が引用符付きの文に適用された場合に限られている。しかし、引用符がなく真理述語が適用される場合も確かに存在する(例えば、「彼が言ったことは全て真である」)。加えて、対象言語とメタ言語の国語が異なる場合、例えば、
「Schnee ist weiss」は真である⇔雪は白い
という文から左辺の引用符を解除したとしても右辺の「雪は白い」は出現しない。
しかし、タルスキの真理論は、このように引用符がない場合や左辺と右辺の言語が一致しない場合についても、真理述語を消去する方法を示している(p20)。なぜならば、タルスキの真理定義は、「xは真である」という述語の外延は所与の言語内においてすでに決定され明示的に定義されていることだからだ。そのため「彼が言ったことは真である」などの真理述語「xは真である」の用法であっても、「彼が言ったこと」が「xは真である」の外延に含まれてるかどうかでこの文の真偽が判定されるのである(※2)。
## <これまでのまとめ>
真理概念
1. 真理関数的結合子としての真理
- 述語としての真理(引用符付きの文に適用される真理述語)
- 述語としての真理(引用符に関係なく適用される真理述語)
余剰理論は真理は1だけだとする。
収縮理論は真理は1と2だけだとする。
しかし、まだ真理は余剰でも収縮的でもない3が残っている。そして、タルスキの真理論は、この3も射程に入れている。
## 4. タルスキの真理論の再考
### 4-1. タルスキの真理は真理一般を規定しない
はっきりしていることは、タルスキの真理論はある言語Lにおける真理を定義する方法を提示するものであって、決して、真理の一般的な定義をもたらすものではない。なぜならば、タルスキの定義は、言語Lにおける場合を枚挙する方法で述語と名前に対して外延や指示を与えるからである。そして、ここで意味論的概念は登場しない。
### 4-2. タルスキの真理は論理的真理か
タルスキの真理定義は、ある述語を定義する場合、すでに解釈が与えられた言語からその述語が適用されるものの有限で網羅的なリスト(集合)でこの述語の外延を定義するというものであった。そして、この述語の真偽はこの集合に含まれるかで判断される。そのため、この真偽は実質的真理ではなく論理的真理と同値である。それはつまり、真理についてなにも語っていないも同然である(※3)。また、エチメンディによると、T文は対象言語の真理条件さえも持っていないという。
### 4-3. 収縮的見解の二つの立ち場
パトナム、ソームズ、エチメンディはタルスキの真理論が示す真理は「論理的真理」であり「経験的真理」(日常で使う真理)を含んでいない。そして、そのためタルスキが示す真理は収縮的であるという点について同意する。しかし、この真理の収縮的見解をどう評価するかは意見がわかれる:
- **エチメンディ**
真理に関する経験的意味論は他にある。
- **パトナム**
タルスキは真理概念の本質的側面を捉えなかった。タルスキの真理論は「これ以上はありえないというほどひどく失敗した」と言う。
- **ソームズ**
タルスキの真理論は真理概念を完全に捉えている。そして、真理に収縮的説明を与えた点でタルスキは正しかった。従って真理概念は多くの哲学者が考えるほど興味深い概念ではない。
### 4-3. タルスキ自身の哲学的理解(T文は経験的内容をもつ)
タルスキの自らの真理定義を振り返って、伝統的なアリストテレスの真理観(※4)を形式化した、ということを強調する。彼は、自らの真理論がたんなる論理的真理にとどまらず経験的内容を含んでいるとする(収縮論的解釈に反対)。つまり:
- (1) ある解釈が定まった自然言語(日本語など)において我々は「xは真である」という述語を使用している(日常で使用される経験的真理)。
- (2) タルスキは規約Tを日常言語に適用することによって自然言語における各定理(T文)が導かれ、これの集合でこの自然言語における真理述語が定義できると考える(T文による真理)。
そして、タルスキは、(1)「(解釈が定まった自然言語の)経験的な真理の外延」と(2)「規約TによるT文によって(解釈が定まった自然言語の)形式的に導かれる真理の外延」は”一致”するという。したがって、T文による真理は実質的真理/経験的内容を含んでいる。これこそ彼が、「[T文によって]もとからある概念の実際の意味をつかまえる」(p31)ことを狙いとすることである。しかし、その一致するものが何かを具体的に示しているわけではない。
---
## 注
※1
「真理と述定」は「第六回デューイ講義」でデイヴィドソンが行った講義をもとにしているため、最初にデューイの真理観について言及する。
※2
「タルスキは真理述語を取り除く方法を示した」とは次のようなことを意図していると考える。具体的に人工言語を想定して見てみる。
Domain D
D ={a, b}
個体定項に対する付置(α)
V(a)=太郎
V(b)=彼が言ったこと
述語記号に対する付値(Φ)
V(F)={太郎、彼が言ったこと} (内包的定義:F={x│xは真である})
V(G)={太郎} (内包的定義:F={x│xは背が高い})
この言語Lにおいて、「&」などの結合子は想定しないため、文(閉じた文)は次の4つしか成立し得ない。すなわち、命題をΦαと表現するならば、{Fa、Fb、Ga、Gb}の4つである。そして、それぞれの文の真理条件は次のように充足で定義される:
- 文1, Faは真である ⇔ 太郎∈{太郎、彼が言ったこと}
- 文2, Fbは真である ⇔ 彼が言ったこと∈{太郎、彼が言ったこと}
- 文3, Gaは真である ⇔ 太郎∈{太郎}
- 文4, Gbは真である ⇔ 彼が言ったこと∈{太郎}この中で真である文、すなわちT文は、{文1、文2、文3}である。
従って、この言語Lにおける述語FxとGxが正しく成立する文の外延が確定して文の真偽が明示的に定義された。
そして、「彼が言ったことは真である」における真理述語を取り除くとは、上記の言語の場合、「文2, Fbは真である ⇔ 彼が言ったこと∈{太郎、彼が言ったこと}」のように、述語としての右辺の真理を取り除くことを意味する(左辺の「真である」は真理関数的結合子)。
※3
論理的真理(例えばA=A)は、世界に関する情報をもたない。そのため、この真理を言語の意味論の分野使用することはできない。なぜなら、意味論とは世界と言語を媒介するための理論だからである。意味論には内包的(経験的)な真理概念の特徴づけが必要。
※4
「そうでないことをそうであると言ったりそうであることをそうでないと言ったりすることが、偽である。他方で、そうであることをそうであると言ったり、そうでないことをそうでないと言ったりすることが、真である。」
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## 参考文献
1.
デイヴィドソン, D. (著)・津留竜馬(翻訳)、『真理と述定』、春秋社、2010
First posted 2011/09/05
Last updated 2011/09/05