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# プラトン「メノン」におけるパラドックスと想起説 ### メノンのパラドックス 対話編「メノン」の序盤に、ソクラテスは対話者であるメノンに「徳は教えることができるか」という問いに答えるには、「徳とは何か」といったもっと徳に対する本質的な理解を得なければならないと主張する。彼は「もし私があるものを知らなかったら、どうやってそれがどのようなものであるか答えることができるか?」と言う。これに対し、メノンは「全く知らないものをどうやって探求することができるのか?なぜなら、手がかりすら知らないのだから」(80d)といったパラドックスでもってソクラテスに反論する。これが`メノンのパラドックス(Meno's paradox)`、または`学習者のパラドックス(learner’s paradox)`と呼ばれるものである。ソクラテスはこの発言を次のように修正して次のように言う:人間は、自分が知っているものも知らないものも、これを探求することはできない。というのは、まず、知っているものを探求すると言うことはありえないだろう。なぜなら、知っているのだし、ひいてはその人には探求の必要がまったくないわけだから。また、知らないものを探求するということもありえないだろう。なぜならその場合は、何を探求すべきかということも知らないはずだから。(80e)(このソクラテスが修正したメノンのパラドックスとメノン本人が主張するパラドックスは若干異なっているように思われる。しかし、ここではソクラテスが修正したパラドックスを中心に見る。) このパラドックスは次のような構成をなしている。 1. どのようなxであっても、ある人はxを知っているか、知っていないかのどちらかである. - もし、ある人がxを知っていたら、彼はxを探求することができない(なぜならすでに知っているから). - もし、ある人がxを知らなかったら、彼はxを探求することができない. - よって、ある人がxを知っているかいないかに関わらず、彼はxを探求することができない. まず、前提1であるがこれは排中律であり(古典論理では)自明に成り立つ。 前提2はどうだろうか。ソクラテスは「なぜならxを知っているからxを探求することができない」というが、これは充分な理由とは言えなさそうである。例えば、ある人が、物理学を知っているとしても、彼はおそらくさらにその知識を超えた物理法則を探求することができそうである。しかし、ある人があるものの全ての知識を網羅しているならば、前提2は保持される。つまり、前提2を明確にしてみると、“もし、ある人がxを全て知っていたら、彼はxを探求することができない”となる。だが、人間は、多くの場合あるものの一部の知識を持っているに過ぎない。そして、彼がxの一部しか知っていないならば、彼はさらにそれを探求することは可能である。 次に前提3を見てみる。“もし、xを知らないなら、xを探求することができない”といったものであった。しかし、ここでも知るという言葉を厳密に見てみると、xについて完全に無知であるならば、xについて探求することはできそうにない。だが、xに関して無知とは、xに関して知識が欠けていたとしても、「メノン」でソクラテス自身が言及するように、ある人はxに関して`正しい思惑(alethes doxa)`を所持している場合がある。そして、この正しい思惑は真の知識と同一の結論に我々を導く。xに関して知識を持たず、正しい思惑を持っている状態は、xを知っているとは言えそうにない。しかし、その知識が欠けた状態である正しい思惑を持つ者はxに関して探求することが可能であるように思われる。 ### 想起説(アナムネーシス) このようにメノンのパラドックスはよく見てみると容易に突破できそうである。しかし、ソクラテス(プラトン)はこのような視点からパラドックスを解消しようとはせず、これに対する応答として、`想起説(The theory of recollection)`または`学習者の理論(the learner’s theory)`と呼ばれる自身の思想で応答する。これが提示される81cを簡単に要約する:「魂は不滅でこの世とあの世(ハデスの国)を何度も行き来しているため、魂自体はあらゆることを経験している。それでいて、その魂が経験したことを思い起こす(想起する)ことが、普段我々が学ぶと名づけていることである」。学習の段階は三つに分けられる。1:アポリアに陥る、2:正しい思惑を獲得する、3:知識に到達する。ソクラテスは「想起説」をメノンの召使との図形の問答によって証明しようと試みる(80d-86c)。 最初の段階で、ソクラテスは相手の知識を試し、対話者は実はそれをよく理解していないことを暴き、対話者をアポリアに導く。これは他のプラトンの対話編でもよく見られる光景でソクラテスの問答の手法である(ソクラテス的エイロネイア)。プラトン初期の対話編は対話者をアポリアに追い込むことで話は終わるが、この中期の作品である「メノン」以降からプラトンは自身の思想をあらわにしはじめる。そして、それが想起説である。第二段階では対話者をアポリアから正しい思惑(alethes doxa)へと導く(これは思惑であって真の知識ではない)。召使いとの対話でいうと、最初に分からなかったような四角形の面積の求め方が、徐々に想起され獲得されてゆく。最後の第三段階では、思惑から遂に知識を手に入れる。これは「メノン」の後半の部分で語られる。ここでは、正しい思惑と知識の違いがダイダロスの例を用いて解説される。ここで言われていることはおそらく、我々が思惑を説明的な理由付けで縛り付けたとき(想起の反復・習慣的な学習)、我々の思惑は知識に変わると言ったことであると思われる。ソクラテスは次のように正しい思惑から知識に発展する過程を説明する:「この子にとって、これらいろいろの思惑は、ちょうど夢のように、呼び覚まされたばかりの状態にあるわけだけれども、しかしもし誰かが、こうした同じ事柄を何度のいろいろのやり方でたずねるならば、最後には、この子はこうした事柄について、誰にも負けないくらい正確な知識を持つようになるだろう」(85c)。(正しい思惑と知識は明確に区別されるが、境界線は曖昧である。)そして、こういった手順を踏み知識に到達することが想起にほかならない。 想起説を検証 では次にメノンのパラドックスに対する応答として提出された想起説を検証してみたい。想起説とは、「ある人がpを思い出す、なぜなら彼はすでにpを別の人生で経験しているからである」といったものであった。だが、何かを前世が原因となって思い出すということ(想起すること)と、現世で同じことを二回考えることは明確に異なるように思われる。この相違が確かめられると、想起説を正当にするためには、想起にはなにか同じことを二回思い出すのとは別の特長が備わっていると考えなければならない。つまり、何かを想起するとき、なにか特別な存在が我々のうちに内在しており、なにかを経験することによって、その内在する存在が原因となってそれに関連した知識を想起するということである。召使が幾何の法則を学んだことが何を示していることは、彼が幾何の知識をすでに前世で見ているからではなく、それらの真実は我々のうちに内在しており、また探求することよってそれが意識の上に現れるのである。 言い換えれば、プラトンは我々のうちに概念的、観念的知識をアプリオリに持ち合わせており、経験や鍛錬によって刺激され思い起こすというのである。そして、前世で知識を経験しそれを思い出すというのは単なる理解を得易くする為のメタファーであるのではないだろうか。実際にプラトンが想起という概念を前世から思い出すと考えたのか、アプリオリな知識を思い起こすことの比喩と考えたのかは分からないが、前世から思い出すとすれば、それは必ず論理的矛盾を生み出してしまう。なので、この説はアプリオリな知識の想起であると考えるのが妥当である。また、このように想起説を考えると、これがもつ特徴はカントの超越論哲学と関連付けた解釈ができる。 ### 想起説はメノンのパラドックスを解消するか そして、想起説をアプリオリな知識の想起であると考えることによってこの説はメノンのパラドックスの充分な応答になりうる。なぜなら我々はアプリオリな知識が内在しており、そして何かを学習するということの意味は、それを探求することによって、その超越論的知識を意識上に持ってくるということである。つまり、ある人はxをアプリオリに知っているが、探求することによってそのxが意識上に現れるのである。そうすると、パラドックスの前提2(もし、ある人がxを知っていたら、彼はxについて探求できない)を否定することが可能であるため(ある人はxを知っていても、xを探求することができる)、パラドックスを解消したといえる。 --- ## 参考文献 1. プラトン (著)・藤沢令夫(翻訳).『メノン』、岩波文庫、1994
First posted 2008/09/16
Last updated 2011/08/20
Last updated 2011/08/20