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# プラトン「エウテュプロン―敬虔について―」要約 プラトン初期の対話編であるエウテュプロンは「敬虔」の本質や根幹について繰り広げられるソクラテスと宗教家であるエウテュプロンとの対話によって構成されている。ほかのプラトンの多くの対話編と同じように、これもソクラテス問答によって対話者の知識を計ってゆく。エウテュプロンは自身が信じる「敬虔」に関する意見を提出してゆくが、ソクラテスは次々にそれらがもつ弱みを指摘する。 ### 背景 本題の議論に移る前にソクラテスとエウテュプロンの立場を明確にしておく。話の冒頭でソクラテスは宗教の知識人として名声を持つエウテュプロンに出会う。彼は自分の父親を殺人の罪で裁判所に訴えにいくところである。彼の父親は日雇い労働者を罰として縛って外に放置したところ、彼が死んでしまったからである(故意ではない)。ソクラテスは父親を訴えるという彼の行為に驚き、また彼の信念に対する自信に驚いた。これほどの自信を持っているということは、エウテュプロンは「敬虔」の本質を理解しているということである、とソクラテスは考えそれを教えてほしいとお願いする。 ソクラテスは不敬虔の罪でミレトスという若者に訴えられたため、この場面はソクラテスとエウテュプロンの明確な対称性を表している。つまり、一方は不敬虔の罪で訴えられ、また一方は敬虔のために自身の父親を訴えるという対称性である。エウテュプロンとミレトスは同じ種類の人物として描かれている。つまり、両者ともソフィストのように強い自信をもち、自身の行いを決して疑わないのである。しかし、両者の信念の源泉は通例的、慣習的なものであり視野が狭く、また堅物である。そこで、ソクラテスはまさに彼らが信じるものは正しいか否か吟味、精査していこうと目論む。 ### 敬虔とは 最初にエウテュプロンはソクラテスの問いに対して、こう答える[...] the pious is to do what I am doing now, to prosecute the wrongdoer is your father or your mother or anyone else; not to prosecute is impious. (5d)しかし、ソクラテスは直ちにこの主張を却下する、なぜならこれは「敬虔なこと」のひとつの例であって、「敬虔とは何か?」という本質を求める質問に答えていないからである。ソクラテスが求めているのはすべての時代、場所に通じる根幹的な敬虔の本質であり、そしてそれはあらゆる物事、行動を敬虔か不敬虔か決定付ける基準になりうるものである。 この要求に対するエウテュプロンの次の定義は次のものである。
the pious is what all the gods love, and the opposite, **what all the gods hate**, is the impious. (9e)(ギリシャ神話では複数の神が存在しまた時には対立しているため「すべての神々」としている) これに対しソクラテスは次の決定的な質問をする。愛されるから敬虔なのか敬虔だから愛されるのかどっちか、と質問をする。
Is the pious being loved by the gods because it is pious, or is it pious because it is being loved by the gods? (10a)これは原因と結果に関する質問である。エウテュプロンの理解を深めるためにソクラテスは受動と能動の違いをアナロジーを用いて説明する。すなわち、「見るもの」と「見られるもの」の違いと「愛するもの」と「愛されるもの」の違いは原因と結果の方向性の違いに起因する。そのことを受けて、エウテュプロンは「敬虔は愛されるに値するものであるので神々に愛されるのであって、神々が愛するから敬虔なものなのではない」(Xは敬虔→Xは神々に愛される)ということに同意する。つまり、敬虔なものを敬虔たらしめる原因は神々にはないのである。神々に愛されるとは敬虔のひとつの特長であって敬虔そのものの説明にはなっていないことをソクラテスは指摘する。 ### ソクラテスの問答 ソクラテスはエウテュプロンに留まり議論を続けようと頼むが、彼はソクラテスから逃げるように議論を切り上げる。われわれ(エウテュプロンを含む)に今となっては明らかなのは彼は明確な敬虔に対して強固に基礎づけられた知識を持ち合わせていないということであり、父親を訴える明確な理由は存在していないのである。エウテュプロンは自身の意見に強い信頼を持っており、またそれを行使したがっていたのだが、その行動を正当化するだけの客観的な理由を提示できなかったからである。言い換えれば、エウテュプロンの行動は正しいのかもしれないが、彼が信頼をおいているものはあまりに理性と信頼性に欠けるのである。よってソクラテスはその正当性の欠如を指摘し、エウテュプロンがそれを保持しつづけることは、非理性的であり無責任ですらあることを暴露したのである。 私たちはエウテュプロンが敬虔の本質を説明できなかったことを見てきたが、一方でソクラテスが頑なに求めつづけた答えとは、どのようなものであったのだろうか?この疑問によって、この対話編の中にプラトンのイデア論の片鱗を見る。ソクラテスがエウテュプロンに対して「敬虔とは何か?」といった質問に対する答えを一貫して求めつづけた。つまり彼はすべての敬虔なものや行動が共通して持つ、敬虔のイデアを探求していたのである。加えて、彼はこの敬虔のイデアはすべてのものを峻別する秤になると考えた。そして、これこそが敬虔に内在する本質であり、敬虔なものを敬虔たらしめる原因であるのだ。 --- ## 参考文献 1. Plato (著)・Grube G. M. A.(翻訳).『Plato Five Dialogues : Euthyphro Apology Crito Meno Phaedo』、Hackett Pub Co Inc.、2002
First posted 2006/11/06
Last updated 2007/10/02
Last updated 2007/10/02