前期ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」#1 思考の限界の探求
『論考』の目的(the Tractatus)
ウィトゲンシュタイン(以下、W)の『論理哲学論考』(以下、『論考』)は、19世紀初期の英米で大きな影響力をもち論理実証主義や分析哲学の土台となった著作である。また、同時に非常に難解な書でもある。それは、まず、その内容もさることながら、その特徴的な文体に原因がある。『論考』は、複数の短文の集まりで構成された哲学詩である。
そして、Wは序文でひとりの読者に理解されればこの著書の目的は達成されたというが、そのひとりとはW自身のことを言っているのかと思うほど、読者を想定せずひたすらWの思考を文字に起こしているかのような印象を受ける。
その一方で、短文で断定的な言い回しや「世界」や「思考の限界」といった扱うテーマの深淵さ、さらには、
『論考』が第一次世界大戦の塹壕の中で考案されたという成り立ちやW自身の生涯のドラマチックさも合わさり独特な魅力を持つ著書であり続けている。
主題
これは何を主題としているのだろうか。それは序文に書かれている。
およそ語りえるものについては明晰に語りうる、そして、論じえぬものについては沈黙しなければならない。かくして、本書は思考に対して限界を引く。
[15, p.9](*1)
『論考』の目的は思考の限界の探求であり「語りえぬもの」と「語りえるもの」の峻別である。またそれによって伝統的哲学的問題である倫理、芸術、形而上学などを「語りえぬもの」、つまり真偽を問うことのできないナンセンスな領域に振り分ける。そのため、これは哲学批判の著と言われる(カント哲学と類似)。しかし、そのようにナンセンスなものに振り分けた領域を切り捨てるのではなく、むしろ、それらを神秘的なもの、信仰の対象として確保することを目的とする。そのため、『論考』の目的は倫理的なものであるという。文体や『神学-政治論』(Tractatus Theologico-Politicus)から拝借したタイトル(これはG.E.ムーアの提案だが)、また倫理的目的のために論理による理論構築を行う方法論などからスピノザの影響がかなり強いのがわかる。
方法
では、どのようにして思考の限界を画定するのか。思考によって思考の限界を探求するのは不可能であるように思われる。そこでWは我々が普段使用する言語に眼を向け上の引用に続いて次のように続ける。
いや、むしろ、思考に対してではなく、思考されたことの表現に対してと言うべきだろう。[...]したがって、限界は言語においてのみ引かれうる。そして限界の向こう側は、ただナンセンスなのである。
[15, p.9]
思考の限界は”言語”によって引かれる。その上で『論考』はいくつかのテーゼを前提としている:
- あらゆる思考は日常言語によってもたらされる。従って、言語の限界は思考の限界である。
- (日常)言語は論理的構造をもつ。また、論理は言語を成り立たせる根本条件である。
すなわち、『論考』は、ラッセルが解釈したように、日常言語から離れた理想言語の追求ではなく、日常言語の構造を解明することによって言語の限界を画定し、それによって思考の限界を画定することを目的としている。(この前提に関する議論にはここでは触れない)。また、最初のテーゼは、言語的転回のテーゼそのものである。そのためWはフレーゲの正統後継者といわれる。
事実から事態へ
思考の限界を見定めるとは、すなわち、思考の可能性の限界を見定めるということに他ならない。しかし、「世界」は「事実」で構成されており、世界はただそれ自体で存在する。そのため、最初に「世界は成立していることがら(事実)の総体である」と存在論のテーゼから切り出すのである(*2)。つまり、世界には現実という結果しかなく、世界には可能性が存在しない。しかし、それは可能性を思考することができないということを意味しているわけではない。なぜなら、世界とは、あらゆる「事態」(可能性)の中で実際に成立している事態の総体(=事実の総体)であり、事実とはあらゆる事態の中のひとつの結果であるからだ。すなわち、事実という結果の背後に事態という可能性の領域が存在するのである。そして、思考の限界を証明することは事態の限界を証明することと同じであるといえる。
しかし、事実(現実性)しかない世界で事態(可能性)に立ち戻るにはどのようにしたらよいか。事実はすでに成立した事態であるため、これから直接事態へいたることはできない。そのためには、事実をそれのパーツである諸対象に分解し、それによって、論理的に可能な結合によって事態を再構成する必要がある。具体的にいうと、事実は事態のひとつであるため、すべての可能な事態と事実は同じ諸要素から成っている(事実や事態を構成する諸要素は「対象」(*3)と呼ばれる)。事実を対象に分解するには、対象の外的性質ではなく(*4)、対象の内的性質/論理形式(*5)を完全に把握する必要がある(2.01231)。個々の対象を得ることによって、その諸対象をそれぞれの論理形式に従って再結合することができる。そして、これにより、事実とは異なる、すなわち全ての可能な事態を想定することができる:
すべての対象が与えられるとき、同時に全ての可能な事態も与えられる(2.0124)
そして、あらゆる可能な事態の総体は「論理空間」と呼ばれ、そして、この論理空間が思考の限界であると言い換えることができる。なぜなら、全ての論理的可能性はこの空間に内包されるからであり、そして実際の世界における事実はこの論理空間のなかのひとつの事態が現実化したものである。そして、この空間を越えるもの人間の思考能力の限界を超えるため真偽を判定できない「語りえぬもの」である。
事実から事態へ至る一連の流れ
|
存在論的世界 |
|
↓ |
1. |
複合命題(事実に対応):我々は事実からそれに対応する思考可能な写像(命題)を構成する。 |
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↓ |
2. |
要素命題(事実に対応):事実に対応する複合命題を分析し、論理定項を含まない要素命題に分ける。 |
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↓ |
3. |
名(対象に対応):要素命題は命題関数によってそれを構成する名の論理形式が解明されそれぞれの名に分解される。 |
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↓ |
4. |
要素命題(事態に対応):名の論理形式に従って可能な要素命題が再構成される。 |
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↓ |
5. |
複合命題(事態に対応):可能な事態の再構成により、それらの総体である論理空間が展開される。そして、論理空間における論理定項の真理操作で事態に対応する複合命題が構成される。 |
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↓ |
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存在論的世界とあらたな命題を照らし合わせることによってアポステリオリに真偽が確認される。 |
用語のまとめ
- 世界:事実の総体である
- 事実(facts):現実に成立している事態である
- 事態([独]Sachverhalten, [英]states of affairs, atomic facts):対象の可能な配列(可能的な事実)である。事実はここに必ず含まれている。事態は相互に独立である。(論理においては何一つ偶然ではない2.012)
- 対象(objects):事態を構成するものである。事実の諸対象の論理形式を捉えることによって事実から事態に分解することができ、それで全ての可能な事態を構成することができる
- 論理空間(logical space):ここでは可能な事態を全て網羅した領域としておく
- 状態:複合的な事態である
注
参考文献
最後の項目
「前期ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」#7 語りえぬもの:倫理」 にまとめ。
First posted 2008/12/28
Last updated 2009/05/29
# 前期ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」#1 思考の限界の探求
## 『論考』の目的(the Tractatus)
ウィトゲンシュタイン(以下、W)の『論理哲学論考』(以下、『論考』)は、19世紀初期の英米で大きな影響力をもち論理実証主義や分析哲学の土台となった著作である。また、同時に非常に難解な書でもある。それは、まず、その内容もさることながら、その特徴的な文体に原因がある。『論考』は、複数の短文の集まりで構成された哲学詩である。
そして、Wは序文でひとりの読者に理解されればこの著書の目的は達成されたというが、そのひとりとはW自身のことを言っているのかと思うほど、読者を想定せずひたすらWの思考を文字に起こしているかのような印象を受ける。
その一方で、短文で断定的な言い回しや「世界」や「思考の限界」といった扱うテーマの深淵さ、さらには、
『論考』が第一次世界大戦の塹壕の中で考案されたという成り立ちやW自身の生涯のドラマチックさも合わさり独特な魅力を持つ著書であり続けている。
### 主題
これは何を主題としているのだろうか。それは序文に書かれている。
およそ語りえるものについては明晰に語りうる、そして、論じえぬものについては沈黙しなければならない。かくして、本書は思考に対して限界を引く。
[15, p.9](\*1)
『論考』の目的は思考の限界の探求であり「語りえぬもの」と「語りえるもの」の峻別である。またそれによって伝統的哲学的問題である倫理、芸術、形而上学などを「語りえぬもの」、つまり真偽を問うことのできないナンセンスな領域に振り分ける。そのため、これは哲学批判の著と言われる(カント哲学と類似)。しかし、そのようにナンセンスなものに振り分けた領域を切り捨てるのではなく、むしろ、それらを神秘的なもの、信仰の対象として確保することを目的とする。そのため、『論考』の目的は倫理的なものであるという。文体や『神学-政治論』(Tractatus Theologico-Politicus)から拝借したタイトル(これはG.E.ムーアの提案だが)、また倫理的目的のために論理による理論構築を行う方法論などからスピノザの影響がかなり強いのがわかる。
### 方法
では、どのようにして思考の限界を画定するのか。思考によって思考の限界を探求するのは不可能であるように思われる。そこでWは我々が普段使用する言語に眼を向け上の引用に続いて次のように続ける。
いや、むしろ、思考に対してではなく、思考されたことの表現に対してと言うべきだろう。[...]したがって、限界は言語においてのみ引かれうる。そして限界の向こう側は、ただナンセンスなのである。
[15, p.9]
思考の限界は”言語”によって引かれる。その上で『論考』はいくつかのテーゼを前提としている:
- あらゆる思考は日常言語によってもたらされる。従って、言語の限界は思考の限界である。
- (日常)言語は論理的構造をもつ。また、論理は言語を成り立たせる根本条件である。
すなわち、『論考』は、ラッセルが解釈したように、日常言語から離れた理想言語の追求ではなく、日常言語の構造を解明することによって言語の限界を画定し、それによって思考の限界を画定することを目的としている。(この前提に関する議論にはここでは触れない)。また、最初のテーゼは、言語的転回のテーゼそのものである。そのためWはフレーゲの正統後継者といわれる。
## 事実から事態へ
思考の限界を見定めるとは、すなわち、思考の可能性の限界を見定めるということに他ならない。しかし、「世界」は「事実」で構成されており、世界はただそれ自体で存在する。そのため、最初に「世界は成立していることがら(事実)の総体である」と存在論のテーゼから切り出すのである
(\*2)。つまり、世界には現実という結果しかなく、世界には可能性が存在しない。しかし、それは可能性を思考することができないということを意味しているわけではない。なぜなら、世界とは、あらゆる「事態」(可能性)の中で実際に成立している事態の総体(=事実の総体)であり、事実とはあらゆる事態の中のひとつの結果であるからだ。すなわち、事実という結果の背後に事態という可能性の領域が存在するのである。そして、思考の限界を証明することは事態の限界を証明することと同じであるといえる。
しかし、事実(現実性)しかない世界で事態(可能性)に立ち戻るにはどのようにしたらよいか。事実はすでに成立した事態であるため、これから直接事態へいたることはできない。そのためには、事実をそれのパーツである諸対象に分解し、それによって、論理的に可能な結合によって事態を再構成する必要がある。具体的にいうと、事実は事態のひとつであるため、すべての可能な事態と事実は同じ諸要素から成っている(事実や事態を構成する諸要素は「対象」
(\*3)と呼ばれる)。事実を対象に分解するには、対象の外的性質ではなく
(\*4)、対象の内的性質/論理形式
(\*5)を完全に把握する必要がある(2.01231)。個々の対象を得ることによって、その諸対象をそれぞれの論理形式に従って再結合することができる。そして、これにより、事実とは異なる、すなわち全ての可能な事態を想定することができる:
すべての対象が与えられるとき、同時に全ての可能な事態も与えられる(2.0124)
そして、あらゆる可能な事態の総体は「論理空間」と呼ばれ、そして、この論理空間が思考の限界であると言い換えることができる。なぜなら、全ての論理的可能性はこの空間に内包されるからであり、そして実際の世界における事実はこの論理空間のなかのひとつの事態が現実化したものである。そして、この空間を越えるもの人間の思考能力の限界を超えるため真偽を判定できない「語りえぬもの」である。
### 事実から事態へ至る一連の流れ
||存在論的世界|
|:--|:--|:--|
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|1.|複合命題(事実に対応):我々は事実からそれに対応する思考可能な写像(命題)を構成する。|
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|2.|要素命題(事実に対応):事実に対応する複合命題を分析し、論理定項を含まない要素命題に分ける。|
| |↓|
|3.|名(対象に対応):要素命題は命題関数によってそれを構成する名の論理形式が解明されそれぞれの名に分解される。|
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|4.|要素命題(事態に対応):名の論理形式に従って可能な要素命題が再構成される。|
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|5.|複合命題(事態に対応):可能な事態の再構成により、それらの総体である論理空間が展開される。そして、論理空間における論理定項の真理操作で事態に対応する複合命題が構成される。|
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||存在論的世界とあらたな命題を照らし合わせることによってアポステリオリに真偽が確認される。|
## 用語のまとめ
- 世界:事実の総体である
- 事実(facts):現実に成立している事態である
- 事態([独]Sachverhalten, [英]states of affairs, atomic facts):対象の可能な配列(可能的な事実)である。事実はここに必ず含まれている。事態は相互に独立である。(論理においては何一つ偶然ではない2.012)
- 対象(objects):事態を構成するものである。事実の諸対象の論理形式を捉えることによって事実から事態に分解することができ、それで全ての可能な事態を構成することができる
- 論理空間(logical space):ここでは可能な事態を全て網羅した領域としておく
- 状態:複合的な事態である
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## 注
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## 参考文献
最後の項目
「前期ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」#7 語りえぬもの:倫理」 にまとめ。
First posted 2008/12/28
Last updated 2009/05/29
論理形式(logical form)
: 対象の論理形式とは、その対象に適用可能な記述の範囲を示す。例えば、「ソクラテスは歩く」や「ソクラテスは空を飛ぶ」は理解できる記述のため論理形式に反していないが「ソクラテスの内角の和は180度である」という記述はソクラテスという対象の論理形式を逸脱しているため無意味で理解できない。そして、思考は全て命題によってもたらされ、命題は論理を必要条件としているため、論理形式を逸脱した記述が含まれる命題は思考できないし理解できない。命題は真偽を判定するには有意味でなければならないので、論理形式を逸脱した無意味な命題は除外される(論理形式を逸脱した命題は意味をもたないため理解できない)。論理形式は命題関数を言語全体に当てはめることによって判明する。詳しくは後述。