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# 前期ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」#2 世界から言語へ 以下、W=ウィトゲンシュタイン 思考の可能性を見出すために、事実を対象に分解し、それらを再結合して事態を構成する必要があるということを前回見た。 しかし、現実の対象を組み合わせて新たな事実を作ったのでは、それは新たな現実性であって可能性ではない。 そのため、Wは先の存在論的な議論を離れ、2.1からは、どのように我々が事実や対象と関係をもっているかという議論、つまり、事実の写像、思考、言語などの『論考』の核心部分に当たる議論に移る。 ### 1. 写像理論(picture theory) 現実性である事実から可能性を見出すには、事実の代替手段が必要となる。 それが現実の像である。 我々は、事実を写像することによって事実の(観念的な)模型として像を作る(そして、この事実の模型としての像もまたひとつの事実である)。 そして、何かを理解するということは、その事実の像を持つということである。 像の構成要素は、事実の構成要素(対象)に対応する(例えば、ある事実が三つの要素からなるものだったら、それを写した像も三つの構成要素からなり同じような関係をもつものとなる)。 この諸要素の結合を構造とよび、構造の可能性を「写像形式」と呼ぶ。 そして、色をもつ物体を描くとその描いた絵が色を持つように、事実の像もその写像したものがもつ論理形式を写像形式として受け継ぐ(しかし、像は事実の表面的な形式しか描写できないため、時に誤って事実を写像する)。 この写像形式と論理形式が一致している事実の像を「論理像」という。 そのため、事実は対象という諸要素によって形成され、論理像は像の諸要素によって形成されているにもかかわらず、ふたつは同じ形式を共有しそれにしたがって成立している。 そして、写像形式は像に属し事実から独立しているため(これ自身も新たな事実)、それを構成する諸要素をそれの写像形式に従って自由に組み替えることができる(\*1)。 この論理像の写像形式の操作(=事態・可能性の構成)を「思考」と呼ぶ。 これにより、事態の構成が可能になり、それらの総体である論理空間が現れる(像は論理空間における可能な状況を表現する)。 このように、思考とは像を支配することであり、そのため、思考の限界は像の限界と一致する。 ### 1-1. 命題(propositions) 像を表すもっとも身近なものは命題である。 命題に関しては次のように表現される:思考は命題において知覚可能な形で表される。 (3.1) 命題とは現実の像である。 (4.01)つまり、命題は事実、事態の像を自らのうちに写しだす一種の絵や象形文字のようなものであり、それを理解することによって現実に対応する像を喚起する(端的に「命題=像」と捉えて問題ない)。 「縁側の猫があくびする」という命題から現実に対応する像を自らのうちに表し(命題から事態を形成し)、また思考することができる。 それは命題の構成要素の論理形式を所持しており理解するからである(論理形式に反する命題は理解できない「三角形は丸い」)。 そして、思考の限界は像の限界であったのだから、思考の限界は命題の限界ということになる。 ### 2. 要素命題 項目4で詳述する。 ### 3. 名(names) 命題は「名」(名前、名辞)から構成される。 そして、名の論理形式が判明することによって、命題から名を分解し、有意味な命題を再構成することが可能となる。 しかし、『論考』において名は、命題によって様々な定義域を持つように見え、かなり混乱させられる。
『論考』はここでは「名」という概念を極めて広い意味で用い、述語も狭義の名もともに「名」と呼ぶのである。 つまりこの広義の「名」が指示する全てが『論考』の広い意味での「対象」なのである。[7, p.105]この鬼界氏の指摘を頼りに名を二つに領域に分けてみる。 (1)広義の意味での名(以下、名(広))は、述語や『論考』で「語」(words)と呼ばれるものと同一であり、それは広義の意味対象に対応してものと考える(例えば、机、猫、白いなどすべてこの広義の対象に含まれる)。 これは(複合)命題の構成要素である。 そして、(2)狭義の意味の名(以下、名(狭))は、要素命題の構成要素である。 これは、最小の意味を持ち他のなにものにも依存しておらず、相互に独立である。 これは事実の構成要素である狭義の意味での対象に対応しており、人間に到達することは不可能であるため具体例を提示することができない。 まず名(広)から見てみる。 ### 3-1. 名(広)の論理形式の解明(3.31~) 名(広)は意味をもたない単純記号(サイン)ではなく、必ず意味(指示対象)を伴う記号すなわち表象(シンボル)である。 逆に言えば、もし、指示対象を持たなかったら、それは名(広)ではない(\*2)。 しかし、Wにとって名(広)は、フレーゲやラッセルが考えたように実在に対応する(それ自体で意味を持つ)ものではなく、それ自体は単なる論理的記号で意味を持たないものである。 では、その名(広)が持つ意味どのようにして与えられるのだろうか。 意味を持つものは、この意味をもつのは事実に対応する命題(像)だけである。 そして、名(広)は命題の中でそれの指示対象が明らかとなる。 これを「解明」(elucidations)と呼ぶ。 つまり、名(広)の意味は命題によって解明される(文脈原理context principle)。 解明の方法として、ある命題において、その命題を特徴付ける名(広)を定項として、それ以外の恣意的な名(広)をすべて変項とした命題関数を想定する。 そして、その変項に様々記述を当てはめて成立する(理解できる)命題の集合で関数の定項の論理形式が判明する。 具体的にいうと、例えば、studentという名(広)の論理形式を解明するならば、studentを定項としそれ以外を変項とする命題関数「x - student」を想定する。 そして、この関数に記述を当てはめて成立する命題と成立しない命題(例えば「Plato is a student」などが成立する命題で「A square is a student」などは理解できないので成立しない命題)を取捨することによりstudentというその関数の定項とした名(広)の可能な記述の範囲が徐々に明らかとなる。 そして、この名(広)に適切な記述の範囲は、この名(広)がどのような性質や関係を持ちえるかという形式を(いわば消去法的で間接的に?)表す。 これが論理形式である。 このように、それぞれの名の論理形式はそれぞれの名(つまり言語全体)に依存しており、この依存関係は円環をなしている。 そのため、辞書から単語を学ぶと言った方法で名の論理形式を得ることはできず、ひとつの名(広)を解明するのに言語全体を用いる必要がある(この言語全体に関しては独我論で詳しく見る)。 #### 対象の論理形式と対象の指示対象 しかし、この論理形式だけでは、人間や猫といった広範囲な対象を指示することはできるが、個体としての対象を指示する(対象の意味に至る)ことはできそうにない。 つまり、名の論理形式だけでは、名の指示対象に到達できそうにない。 それに対しWは次のようにいう。
同じ論理形式をもつ二つの対象は、それらの外的性質を除けば、ただそれらが別物であるということによってのみ、互いに区別される。2.0233しかし、問題は論理形式だけで個体を区別することであった。 それに対しては「ただそれらが別物であるということによってのみ、お互いに区別される」と言う(この叙述に対して詳しい説明はなされれないが、野矢氏の解釈によると、論理形式に「あの」や「これ」といった指示を加えることによって対象を限定し、それによって整合性は保持されるという)。 (これ以降は、対象の論理形式、対象の意味、対象の指示対象はそれぞれ同じ意味とする。 Wの「意味=指示対象」説) #### 論理的構文論<とラッセルのパラドックス(logical syntax) まだ問題がある。 それは、日常言語において、同じ名(広)が異なる対象を指し示す場合がよくあるということだ。 こうした誤謬を避けるために、誤謬を排し、論理的構文論を反映した、記号言語を用いる必要がある。 これは、フレーゲ・ラッセルにおける概念記法にあたるが、上でみたようにWのそれとは根本的な相違がある。 この立場の違いから、Wはラッセルのタイプ理論を批判しラッセルのパラドックスの解消を試みる。 ### 3-2. 名(狭) 次に見るのは、名(狭)である。 名(狭)は最も単純なシンボルであり。 これも名(広)と同じように対象に対応するが、広い意味における対象(魚、ソクラテス、花など)とは異なり、さらに単純な対象に対応する。 この名(狭)によって構成された最も単純な事態を表す命題を「要素命題」と呼ぶ(4.22)。 つまり、名(狭)に至るには、複合命題を分析しまず要素命題を明瞭なものとし、それの構成要素をさらに分解すればよいのである(複合命題→要素命題→名(狭)→単純な対象)。 そのため、まず要素命題を次にみる。 --- ## 注
- \*1. 像を思考することによって見出す可能性である事態には、事実とは異なる事態が当然加わる。 そのため、事態には真偽の概念が介入する。 そして、像の真偽は現実と比較することによって判明する。 また、アプリオリに真である像は存在しない(2.225)。 命題は、あとはイエスかノーかを確かめればよいというところまで、現実を確定しているのでなければならない(4.023)。
- \*2. 必ず名は指示対象を持たなければならず、そのために、論理実証主義者のエイヤーはWは感覚所与説を導入すると解釈する。 つまり対象は物理的対象ではなく、感覚所与sense dataとしての対象を意味する。 また、これに対しエイヤーは批判するが[6, p.37]、この対象が感覚所与を意味するというのはひとつの解釈にすぎない。
- \*3. ここで、「外的性質を除けば」と言っているので、外的性質を考慮すれば、個体の区別は(その個物が唯一の性質を所持している時にかぎり)可能であるということである。 しかし、Wは加えて次のように言う: つまり、個体が持つ唯一の性質が無ければ外的性質を用いて個体を指示することはできない。 しかし、例えば、「毒ニンジンを飲んで紀元前399年に死んだプラトンの師はソクラテスである」と対象が唯一の性質を所持していれば個物を指示することは可能である。 しかし、「小太りで鷲鼻の男はソクラテスである」とった具合に複数の個物が所持しているような性質でひとつ個物を指示することは不可能である。 なぜなら、「小太りで鷲鼻の男」という条件を満たす個物は全てソクラテスになってしまうからだ。
First posted 2009/01/08
Last updated 2009/02/04
Last updated 2009/02/04